9月は三公演だけ、寂しいのですが、
8月に松本に行ったり遊び過ぎで、チョウド良い(笑い)
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4日 アイーダ スカラ座 4,6,9,11日
原語曲名:Aida(しばしばフランス語的にAïdaとも書かれる)
原案:オギュスト・マリエット
原台本:カミーユ・デュ・ロクル
台本:アントニオ・ギスランツォーニ
作曲時期:1870年に作曲に着手
初演:1871年12月24日、カイロのカイロ劇場にて、ジョヴァンニ・ボッテジーニの指揮による
作曲の経緯
『ドン・カルロ』の初演(1867年)、『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家であり、オペラ座やオペラ=コミック座の支配人でもあったカミーユ・デュ・ロクルとの交渉を中心に展開していた。デュ・ロクルは様々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。
そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのはウジェーヌ・スクリーブの『アドリエンヌ・ルクヴルール』(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作『タルチュフ』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur)、それにロペス・デ・アジャラのEl Tanto por Cientoであった。なお後2者が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがこれまでに作曲したオペラ・ブッファは第2作『一日だけの王様』(1840年初演)1作のみだったし、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『ファルスタッフ』(1893年初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。
カイロからの委嘱
このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督・イスマーイール・パシャである。1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、パシャはカイロにオペラ劇場(「イタリア劇場」ともいわれる)を開場したのだが、その開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期的は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。
結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」(1858年)更には「パシャ」(1879年)の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。
依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。
イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした豪壮なオペラ作品を自分の統治するカイロで初演したい、という単純な欲求があったものと考えられる。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーやワーグナーに変更してもいい」という内容の手紙を送っていた。皮肉なことに、デュ・ロクルがその手紙の内容をそのまま伝えたことでヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が惹起され、それまでブッファを中心に新作題材を検討していた彼はこのマリエットによる悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのはデュ・ロクルの作戦だったかも知れない。
1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は
ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『ドン・カルロ』の4倍という法外なものであった)
台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること
台本はイタリア語であるべきこと
1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと
ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと
仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること
初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること
という、彼にとって有利なものであったが、鷹揚なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。
台本に関与した人々
マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。
エジプト総督、イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれはデュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。
エジプト考古学者、オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(Aïda)のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。
パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタの自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意であろう。
ヴェルディ自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。
ヴェルディの妻、ジュゼッピーナ。マリエット「原案」後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女はもと高名なオペラ歌手であり、フランス語にも夫以上に堪能であった。
イタリア人台本作家アントニオ・ギスランツォーニ。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。
1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本
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17日 ドン・カルロ 8,12,13,15,17日
・フィリッポ2世は全公演ルネ・パーペが演じることになります
イタリア語版(全4幕)
84年1月10日のミラノ・スカラ座での上演にそなえ、大幅な改訂が行なわれた。バレエ音楽やそれまでの第1幕を全面カット(カルロのアリアのみが歌詞を変え、移調したうえで新しい第1幕に残された)して全4幕とし、また多くの場面の音楽を改訂、また台本もデュ・ロクルとアンジェロ・サナルディーニによって更なる改訂が行なわれた。内容的、音楽的に凝縮され密度の濃い版となったこともあり、特に1970年代以前はよく採用されていた(カラヤンなども好んで用いていた)。ヴェルディと関係の深いヨーロッパ有数の音楽出版社・リコルディ社から楽譜が出版されたため、“リコルディ4幕版”とも呼ばれる。
『ドン・カルロ』(Don Carlo )はジュゼッペ・ヴェルディ作曲による歌劇。パリ・オペラ座の依頼により、1865年から1866年にかけて作曲、全5幕の歌劇として1867年3月にオペラ座にて初演した(フランス語では『ドン・カルロス』Don Carlos)。
ヴェルディの23作目の歌劇(ヴェルディの創作期間の中では中期の作品に分類される)。原作はフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲『スペイン王子ドン・カルロス』(1787年作)。
16世紀のスペインを舞台に、スペイン国王フィリッポ2世(バス/実在のスペイン国王フェリペ2世)と若き王妃エリザベッタ(ソプラノ)、スペイン王子ドン・カルロ(テノール)、王子の親友ロドリーゴ侯爵(バリトン)、王子を愛する女官エボリ公女(メゾ・ソプラノ)、カトリック教会の権力者・宗教裁判長(バス)たち多彩な登場人物が繰り広げる愛と政治をめぐる葛藤を壮大で重厚な音楽によって描いている(役名はイタリア語版による。フランス語版では、それぞれフィリップ、エリザベート、ドン・カルロス、ロドリーグ、エボリ)。
フランスのグランド・オペラの形式で書かれたこともあり、設定が大規模で、充実した出演者を多数必要とする。そのため、現代では採算上の問題から祝祭的な時期などでなければ上演が難しく、ヴェルディの他作品に比べて上演機会は多くないが、重厚な音楽によってヴェルディ中期の傑作として高く評価されている。
オリジナルはむろんフランス語だが、初演の同年6月、ロンドンでイタリア語による初演が行なわれて成功し、また同年10月にはボローニャでイタリア初演となってこちらも成功。その後もたびたびイタリア語で上演され、その際ヴェルディも再三にわたって曲を改訂してより上質な上演を目指してきたため、現在ではイタリア語版『ドン・カルロ』の方が多く上演される。
低声歌手の活躍する歌劇として知られ(題名役はテノールだが)、フィリッポやロドリーゴ、エボリには難曲ながら魅力的なアリアや、深く内面を語る音楽が与えられていて、低声歌手たちの演唱の充実ぶりが上演全体の成否に大きく関わっており、それぞれの役はイタリア・オペラをレパートリーとする低声歌手にとって目標ともなる大役である。
19日(土) 18:00開演
ミューザ川崎シンフォニーホール5周年記念公演
ズービン・メータ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団出 演指揮:ズービン・メータ
ヴァイオリン:フォルクハルト・シュトイデ
チェロ:タマシュ・ヴァルガ
ヴィオラ:クリスティアン・フローン
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
内 容R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」op.35
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」op.40
※指揮者の希望により、当初発表した演奏順を変更いたします
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変更
スカラ座 キャスト変更が
スカラ アイーダ
ドン・カルロ
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NHKBSで放映・・・予習、復習が出来ますね
2009年 9月7日 (月) 01:00~04:10 ミラノ・スカラ座 Bモード・ステレオ
歌劇「ドン・カルロ」 ( ヴェルディ )
イタリア・ミラノ、スカラ座での公演から、ヴェルディの代表作・歌劇「ドン・カルロ」を放送する。
スカラ座は1778年に完成したオペラ劇場。 イタリア・オペラの殿堂であり、 古今数多くの名作オペラの初演を行ってきたオペラ座の代名詞というべき劇場である。
歌劇「ドン・カルロ」はヴェルディ中期の傑作で、パリ・オペラ座の依嘱によりフランス語で作曲された。 のちにイタリア語版として改訂、現在はイタリア語による上演の機会が多い。 本公演もイタリア語による上演である。
フィリッポ二世 (スペイン王) : フェルッチオ・フルラネット
ドン・カルロ (スペイン皇太子) : ジュゼッペ・フィリアノーティ
ロドリーゴ (ポーザ侯爵) : ダリボール・イェニス
宗教裁判長 : マッティ・サルミネン
修道士 : ガボール・ブレツ
エリザベッタ・ディ・ヴァロア : フィオレンツァ・チェドリンス
エボリ公女 : ドローラ・ザージック
ほ か
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合 唱 : ミラノ・スカラ座合唱団
管弦楽 : ミラノ・スカラ座管弦楽団
指 揮 : ダニエレ・ガッティ
演 出 : シュテファン・ブラウンシュヴァイク (新演出)
[ 収録: 2008年12月7日, ミラノ スカラ座 ]
8月に松本に行ったり遊び過ぎで、チョウド良い(笑い)
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4日 アイーダ スカラ座 4,6,9,11日
原語曲名:Aida(しばしばフランス語的にAïdaとも書かれる)
原案:オギュスト・マリエット
原台本:カミーユ・デュ・ロクル
台本:アントニオ・ギスランツォーニ
作曲時期:1870年に作曲に着手
初演:1871年12月24日、カイロのカイロ劇場にて、ジョヴァンニ・ボッテジーニの指揮による
作曲の経緯
『ドン・カルロ』の初演(1867年)、『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家であり、オペラ座やオペラ=コミック座の支配人でもあったカミーユ・デュ・ロクルとの交渉を中心に展開していた。デュ・ロクルは様々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。
そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのはウジェーヌ・スクリーブの『アドリエンヌ・ルクヴルール』(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作『タルチュフ』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur)、それにロペス・デ・アジャラのEl Tanto por Cientoであった。なお後2者が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがこれまでに作曲したオペラ・ブッファは第2作『一日だけの王様』(1840年初演)1作のみだったし、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『ファルスタッフ』(1893年初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。
カイロからの委嘱
このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督・イスマーイール・パシャである。1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、パシャはカイロにオペラ劇場(「イタリア劇場」ともいわれる)を開場したのだが、その開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期的は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。
結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」(1858年)更には「パシャ」(1879年)の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。
依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。
イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした豪壮なオペラ作品を自分の統治するカイロで初演したい、という単純な欲求があったものと考えられる。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーやワーグナーに変更してもいい」という内容の手紙を送っていた。皮肉なことに、デュ・ロクルがその手紙の内容をそのまま伝えたことでヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が惹起され、それまでブッファを中心に新作題材を検討していた彼はこのマリエットによる悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのはデュ・ロクルの作戦だったかも知れない。
1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は
ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『ドン・カルロ』の4倍という法外なものであった)
台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること
台本はイタリア語であるべきこと
1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと
ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと
仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること
初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること
という、彼にとって有利なものであったが、鷹揚なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。
台本に関与した人々
マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。
エジプト総督、イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれはデュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。
エジプト考古学者、オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(Aïda)のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。
パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタの自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意であろう。
ヴェルディ自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。
ヴェルディの妻、ジュゼッピーナ。マリエット「原案」後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女はもと高名なオペラ歌手であり、フランス語にも夫以上に堪能であった。
イタリア人台本作家アントニオ・ギスランツォーニ。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。
1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本
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17日 ドン・カルロ 8,12,13,15,17日
・フィリッポ2世は全公演ルネ・パーペが演じることになります
イタリア語版(全4幕)
84年1月10日のミラノ・スカラ座での上演にそなえ、大幅な改訂が行なわれた。バレエ音楽やそれまでの第1幕を全面カット(カルロのアリアのみが歌詞を変え、移調したうえで新しい第1幕に残された)して全4幕とし、また多くの場面の音楽を改訂、また台本もデュ・ロクルとアンジェロ・サナルディーニによって更なる改訂が行なわれた。内容的、音楽的に凝縮され密度の濃い版となったこともあり、特に1970年代以前はよく採用されていた(カラヤンなども好んで用いていた)。ヴェルディと関係の深いヨーロッパ有数の音楽出版社・リコルディ社から楽譜が出版されたため、“リコルディ4幕版”とも呼ばれる。
『ドン・カルロ』(Don Carlo )はジュゼッペ・ヴェルディ作曲による歌劇。パリ・オペラ座の依頼により、1865年から1866年にかけて作曲、全5幕の歌劇として1867年3月にオペラ座にて初演した(フランス語では『ドン・カルロス』Don Carlos)。
ヴェルディの23作目の歌劇(ヴェルディの創作期間の中では中期の作品に分類される)。原作はフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲『スペイン王子ドン・カルロス』(1787年作)。
16世紀のスペインを舞台に、スペイン国王フィリッポ2世(バス/実在のスペイン国王フェリペ2世)と若き王妃エリザベッタ(ソプラノ)、スペイン王子ドン・カルロ(テノール)、王子の親友ロドリーゴ侯爵(バリトン)、王子を愛する女官エボリ公女(メゾ・ソプラノ)、カトリック教会の権力者・宗教裁判長(バス)たち多彩な登場人物が繰り広げる愛と政治をめぐる葛藤を壮大で重厚な音楽によって描いている(役名はイタリア語版による。フランス語版では、それぞれフィリップ、エリザベート、ドン・カルロス、ロドリーグ、エボリ)。
フランスのグランド・オペラの形式で書かれたこともあり、設定が大規模で、充実した出演者を多数必要とする。そのため、現代では採算上の問題から祝祭的な時期などでなければ上演が難しく、ヴェルディの他作品に比べて上演機会は多くないが、重厚な音楽によってヴェルディ中期の傑作として高く評価されている。
オリジナルはむろんフランス語だが、初演の同年6月、ロンドンでイタリア語による初演が行なわれて成功し、また同年10月にはボローニャでイタリア初演となってこちらも成功。その後もたびたびイタリア語で上演され、その際ヴェルディも再三にわたって曲を改訂してより上質な上演を目指してきたため、現在ではイタリア語版『ドン・カルロ』の方が多く上演される。
低声歌手の活躍する歌劇として知られ(題名役はテノールだが)、フィリッポやロドリーゴ、エボリには難曲ながら魅力的なアリアや、深く内面を語る音楽が与えられていて、低声歌手たちの演唱の充実ぶりが上演全体の成否に大きく関わっており、それぞれの役はイタリア・オペラをレパートリーとする低声歌手にとって目標ともなる大役である。
19日(土) 18:00開演
ミューザ川崎シンフォニーホール5周年記念公演
ズービン・メータ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団出 演指揮:ズービン・メータ
ヴァイオリン:フォルクハルト・シュトイデ
チェロ:タマシュ・ヴァルガ
ヴィオラ:クリスティアン・フローン
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
内 容R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」op.35
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」op.40
※指揮者の希望により、当初発表した演奏順を変更いたします
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変更
スカラ座 キャスト変更が
スカラ アイーダ
ドン・カルロ
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NHKBSで放映・・・予習、復習が出来ますね
2009年 9月7日 (月) 01:00~04:10 ミラノ・スカラ座 Bモード・ステレオ
歌劇「ドン・カルロ」 ( ヴェルディ )
イタリア・ミラノ、スカラ座での公演から、ヴェルディの代表作・歌劇「ドン・カルロ」を放送する。
スカラ座は1778年に完成したオペラ劇場。 イタリア・オペラの殿堂であり、 古今数多くの名作オペラの初演を行ってきたオペラ座の代名詞というべき劇場である。
歌劇「ドン・カルロ」はヴェルディ中期の傑作で、パリ・オペラ座の依嘱によりフランス語で作曲された。 のちにイタリア語版として改訂、現在はイタリア語による上演の機会が多い。 本公演もイタリア語による上演である。
フィリッポ二世 (スペイン王) : フェルッチオ・フルラネット
ドン・カルロ (スペイン皇太子) : ジュゼッペ・フィリアノーティ
ロドリーゴ (ポーザ侯爵) : ダリボール・イェニス
宗教裁判長 : マッティ・サルミネン
修道士 : ガボール・ブレツ
エリザベッタ・ディ・ヴァロア : フィオレンツァ・チェドリンス
エボリ公女 : ドローラ・ザージック
ほ か
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合 唱 : ミラノ・スカラ座合唱団
管弦楽 : ミラノ・スカラ座管弦楽団
指 揮 : ダニエレ・ガッティ
演 出 : シュテファン・ブラウンシュヴァイク (新演出)
[ 収録: 2008年12月7日, ミラノ スカラ座 ]