老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

物を食べるのはまず口からだ

2007年03月17日 | Weblog
季のうた、囀りやどれも空向く壜の口、中西夕紀と言う人の歌、動物において口の位置や形態は系統発生学の重要な指標と言う。難しい言葉が出かけた、これは抜き、口は身体の先端近くにある物が多い、音声や鳴き声を発する器官とも成り、鳥類ではクチバシとなる、さえずる美しい鳴き声は、たいてい、樹上から聞こえる。見上げれば口も空を向くことになるが、ここで瓶の口は空を向いている。これは歌の解説だが。

生きていく為には口からものを食べる、食べるために都合の良い所に口はついている。他の動物はこうして自然の物を食べて生きていけるように出来ている。しかし、人間は自然な物を皮をむいたり加工しなければそのまま食べられないのに、その食生活も人任せ、コンビニに行けばチャンと出来上がった物ばかり、冷凍食品も揃う、女性の方で料理がまったく出来ない人が多いのも仕事柄知らされる事、

専業主婦の名を借りたニートのような人も見受ける。家族が生きていく為に働かなければならないことは言うまでもありませんが、それを支える家族えの愛情は主婦の手料理であることを、お母さん方、特に娘さんには、しっかり教えて頂きたいものです。

1990年(庚午年、生まれ)の持つ性格

2007年03月16日 | Weblog
幸せになる秘訣は 、まず自分の性格を知ることです。そして長所をどんどん出して行く事。人の性格は良いこと、悪いこと一つの裏表だけでは有りません、沢山の良い面、悪い面を持ち合わせています。その中でどれが強く出るかは、育った環境、姓名、住む家等によっても変わってきますし、年齢によっても違ってきます、

だから、ちょっとした体験などで、自分はこんな性格だと思っている人も多いようですが、こんな時、基本性格を知っていたら、長所を出す努力も出来るのです。生年月日によって本命、月命、日命と一人一人の性格も変わってきますがここでは、その年生まれで述べていきます、 こうして幸せは自分で作っていくものなのです。

今年誕生日を迎え17歳になる人、平成2年生まれの性格 この年生まれの年は 理想家肌で勤労を好まず、気迷いがちで、落着気がなく、見栄っ張で顕示欲が強く軽佻浮薄だがこの癖を謹んで確実に努力すれば、中年後期から頭角をあらわし、見事な開花結実を見る傾向がある。            

ゆとり教育見直し

2007年03月15日 | Weblog
振り返ってみると我々の子供の頃、戦後は随分ゆとり教育だったですよ。小学校で片道4キロの道、今日は行きたくないとか、朝遅くなってしまって叱られそうだと思えば、人の目を避けて川に降りる、大きな石の影で一日を過ごして、誰かが帰り始めると、見られないように、もっともらしい顔で家に帰る、ただ学校に行かない時は、一番に帰ってくる子より見られないために、まだ先に帰るのだから、親が感付いてないはずはない、お弁当を持たせて学校に行かせているのに、行かないのなら、家で仕事をするようにと言っていたが、それも度を重ねると親も諦めるのか、少しでも早く帰ってきて仕事をさせれば良いと思い始めたのか、早く帰るとただ笑っているだけ。 

さすがに学校は出席日数が半分以下になると、もう一年行くことになっていたらしいが、そこまでさぼるのには其れなりの度胸が必要で、成し遂げた人はいなかった。詰め込み教育が良いか、ゆとり教育が良いのかは、私には分りませんが、今の大人達、あまり好き勝手な発言はやめてほしいと思う。数年前ゆとり教育が必要と言い切った先生方、今こそ表に出て反省面なり今後の発言のあり方を討論してほしいのだが、あの時の顔ぶれは今? 何より迷惑しているのは子供達ではないのか。

教育に従事する人達、確かに詰め込み教育は大変。辛い事も伴う、自分の時間も取れない、そこで逃げ出したのがゆとり教育と思われても仕方がない。どんなことがあっても、子供はどんな環境の変化でも、10人が10人とまで言わないまでも、その環境に合わして生きていこうと努力しているのに、大人の考えで簡単に変化を造られたのではたまったものではない。厳しい事より、楽なことは馴染やすい、

授業時間10%増、春休み、夏休みは一週間ほど短縮、小、中学での七時間目授業の導入、二学期制、早朝十分間授業を正規授業に組み入れ、土曜日を活用した補充学習なども具体例として揚げている。また、小学校階段から英語教育に積極的に取り組む、義務教育で英語の授業を充実させる必要性について認識が一致と言っている。この時期こそ日本人として基本知識をしっかり教えるべきではないのか。ゆとり教育の後だけに、違ったところに歪みが出なければ良いのだが。ニートと呼ばれる人達が増えそうな気がする。

人間の目は前しか見られない

2007年03月15日 | Weblog
今朝こちらに来る時、橋のむこうは交差点。右折する車のために50メートルほどの車道がある。その車道が途切れる所、信号待ちのため停車、信号が変わり車が動きだす、二台前の車、前があいているのに動かない。何かしている様子でもない、ハンドルを持っているのは50歳過ぎだろうか、良い車だ。すぐ前の車がイライラを感じているのが解る。

私も右折、その頃になって二台前の車に指示器が点く、見るとその車の右側は車一台入るベースはある、もう少し早く右に寄っていれば直進車は動ける、その為の右折よう車道なのだが。そして信号が変わり右折車が進んで行く、其の車は私の前を走っているが、交差点に来た時は完全に赤信号なのに、大回りをして信号を抜けてしまった。18前後の人なら、この若僧めなどと思っても人生の数多い体験の一つとして見る事も出来ようが。、、、

結婚線NO.9

2007年03月14日 | Weblog

                                                                                         

     秘密の恋をするか、人に知らせたくない人                                

   結婚を前提としない関係をしている人など

   近年とても多くなった出来ちゃった結婚は                                            

   このスジの人に多い。


我が故郷、 頑張る地方

2007年03月14日 | Weblog
私が生まれ育つた徳島県上勝町、山間の、以前は中学校の生徒が300人余りいたのに現在は十数人、ここでも高齢化で80歳前後の方が主役、JAが山間を利用して彩りを手掛け高齢者にも負担なく出来ることから今や全国的に名が知られるようになっています。お隣と言っても数キロもある山間部、彩り農家はJAの専用パソコンが配備され、その日の出荷なども簡単に見ることが出来るようになっているそうです。

(農業と食の安全)に関する集中会議が参議院予算委員会で13日に行われ、菅義偉総務相が、頑張る地方、の具体例として上勝町の取り組みを示し、全国の優良事例として紹介しています。また、80歳を超える人達が年収何百万円を稼ぎ、その事が健康につながり、高齢者医療費も徳島県内で一番少ないと紹介されました。

伝統行事お水取り

2007年03月13日 | Weblog
奈良東大寺二月堂の伝統行事お水取り。実際にこの行事をこの目で見たいと思いながら未だ機会を作れない。三月一日から十四日まで毎日たかれるたいまつの中で、ひときわ大きな籠たいまつが登場する十二日。籠たいまつの長さ約八メートル、重さ約六十キロとも言われ、

練行衆と呼ばれる修行僧の道明かりとして、大仏様が開眼した、七百五十二年から途切れることなく今日まで続けられている伝統行事で今年で1256回目だそうです。華やかな表舞台の裏には、厳しい数々の僧達の修行と、数知れない大勢の人達のご協力でこれほどの長い年月続けられている事にただただ頭の下がる思いです。

いくらあっても必要と思うお金

2007年03月12日 | Weblog
人生に必要なのは勇気と想像力と少しのお金。そう言ったのは、映画(ライムライト)で年老いた喜劇役者にふんしたチャップリン。しかし、最近この名文句とは裏腹に、沢山のお金にまつわるニュースが多い。なかでも、松岡農相の問題、農相の資金管理団体が議員会館に事務所を移転して以降、十一年間に計上した光熱水費は四千四百七十六万円。

議員会館は光熱水費が無料なのに、なぜ年に数百万円もの巨費が計上しているのか、適切に報告していると農相は言っているだけ、何が適切なのか、理解出来る国民が居るでしょうか。沢山のお金はあっても、国民にきちんと説明する勇気は持ち合わせて居ないのですか松岡さん。?

現実か夢か

2007年03月12日 | Weblog
人生の中で夢か現かハッキリしないことが起きる。昨夜見た夢に、私が20歳頃営業していた人の所に伺っている。なぜか身体がとても重い、夢に出る人は、当時営業していた人とはまったく違う顔の人なのに、とても気安く、今日はとてもしんどいので仕事は、休みを取って来ましたと自分は言っている。

そして、その方の営業種目とまったく違うものを頼んで集めた材料で完成出来た。本当のような夢である。こんな事があって、いつか読んだ本を思い出した。紹介してみよう、鄭の国の薪取りが鹿をたおし、芭蕉の葉を当てて隠した。ところが、うっかりして、その方向を見失い、いくら探しても見つからない。

とうとうあれは夢だったのかと諦めて家に戻った。ところが別の男が、これをかぎつけ、鹿をあっさりと横取りしてしまった。薪取りは、そのことを夢に見て、その鹿は自分が射殺して隠したものであるから、返してほしいと訴えたのである。裁判官は、話を聞いて、それは夢の中の話と、現実とが半々になってしまっているからと言う理由で、鹿を2人で二等分するように命じた。

現実と夢とが混線してしまうと言うことは、非科学的な事であると決めつけてしまうことではない。心に描いて強く望み、折りを重ねる内に、夢が現実になることもあり、人の(生)は無限の謎の中にある。

泥中の蓮

2007年03月11日 | Weblog
泥中の蓮(でいちゅうのはちす)蓮は汚い泥水の中に生えても、泥に汚されないで綺麗な花を咲かす。環境や悪いまわりの者に染まらないで、清く正しくあることのたとえなのですが、沢山の株から数個しかさかない花で、私の所でも少しばかり溜を造って毎年花を楽しんでいますが、本当に清々しい花です。こうありたい者です。
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