「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

忘れられた英霊たち   ~ポート・ダーウィンの戦い 後編~

2015年02月04日 | 海上自衛隊

え~、本当は、先日のFM放送前に、


後編を書く予定だったのですが、


諸事情ありまして、間に合いませんでした。


申し訳ございません。






さて、前編最後にも書きました通り、


梅崎艦長と平山さんは、


伊号124号潜水艦のご遺族の元へ、


日豪共同慰霊式を行ったことの報告に、訪問されました。


ここで、お二人を通じて初めてご遺族の御心が明らかになります。


この時の様子がメディアでも取り上げられています。


平山さんのブログ内に、動画が貼ってありますので


ご覧くださいませ。


NHK長崎放送 特集「ダーウィン空襲 慰霊の心を伝える」


この番組の後半に出ていらっしゃる、


伊124号潜水艦航海長 田辺正男の義妹である福岡県在住の田辺サエコさん。


田辺さんのTVでのお言葉は、非常に穏やかなものですが、


放送されなかった田辺さんの本音のお気持ちとして、


「慰霊活動があまりにも遅々として進まず非常に悲しいです。
 
 この度、このような慰霊式を行っていただき大変感謝していますが、

 でもあまりにも遅すぎました。」


と心境を吐露されました。


こういうところを編集するあたりが、NHKだなぁと思わずにいられません。






その前、10月27日には、


伊124号潜水艦の大滝良平2等機関兵曹のお孫さん3人が、


「はたかぜ」を訪れました。


数年前に他界された父藤雄さんは、


遺族会として献身的に活動されていらしたのですが、


潜水艦の引き上げ・慰霊がかなわなかったことをとても無念に思っていたのだそうです。
(11月23日、産経新聞朝刊参照)


また、12月20日、伊124号潜水艦艦長 岸上孝一の長女である、


和歌山県在住の岸上敦子さんのご自宅を、お二人は訪問されました。


敦子さんは、昭和30年代に当時の厚生省援護局、外務省などに、


船体の引き上げと遺骨の収集を乗員の遺族代表として


長年にわたり陳情し続けたのだそうですが、


未だその思いが叶っていないことに、大変落胆されていたのだそうです。
(12月27日、産経新聞朝刊参照)


また、12月19日には、海軍第202飛行隊所属、百式偵察機搭乗員であった


河原眞治飛行曹長の長女である、大阪在住の伊藤令聿さんのご自宅を訪問されました。


河原眞治飛行曹長は、昭和18年8月17日、翌日に控えたダーウィン空襲の事前偵察のため、


ダーウィン地区の捜索に向かったまま未帰還となりましたが、


このことは、戦死からなんと、50年の歳月が流れて初めて判明したのだそうです。


伊藤さんは、この事実判明に50年という歳月を要したこと、


重ねて公的に慰霊顕彰されていないことに落胆されていて、


現在も河原氏を含む、全ての将兵の慰霊顕彰を強く要望されていらっしゃいます。


…ご遺族にとっては、


国のために命を捨てられた大事なご家族が、


何十年も戦死の状況が不明であったり、


未だ遠く離れた海の底に、眠ったままであったりしていることはもちろん、


慰霊すら行われてこなかったことは、


どれほど辛く、悲しく、無念であったことかと、想像するに余りあります。


前後はそういう考えを持つことすら、否定されたこともあったことでしょう。


それでも、なんとかしたい!という、ご家族の想いが少しだけ届いたのは、


戦後70年経ってようやく、なのです…。









一方でオーストラリアでは、


ダーウィン戦争博物館元館長であるTom Lewis豪退役軍人という、現在は歴史研究家であり、


特に第2次大戦における日本軍による対豪作戦についての造詣が深い方がいらっしゃいます。


戦後の岸上敦子さんの慰霊活動を知った氏は、


伊124号潜水艦の、沈没時の様子等を記した本を執筆されました。


さらに、ダーウィン空爆作戦に参加し、戦死した日本軍兵士の調査活動を精力的に行われ、


現在までに約400名の戦没者が判明しています。


同氏は、この事実についても執筆活動中であり、間もなくその本が完成するのだそうですが、


この本は、ご遺族の調査及び慰霊顕彰活動に対して、


極めて重要な資料となることは間違いないと思います。


また、


豪州周辺の戦闘で捕虜となった日本軍の将校や兵士が、


カウラの収容所に集められたのですが、その数、昭和19年7月末段階で約1100人です。


豪北部のダーウィン爆撃時に撃墜された日本軍の飛行兵や、


ニューギニアなど太平洋戦線で戦った将兵が中心だったようです。


ところが、その44年8月5日未明、900人以上の日本兵捕虜が、集団で脱走を図るという事件が起き、


日本人捕虜の死者は234人にのぼり、


一方で、豪州兵にも死者4人、負傷者4人が出ました。


そのカウラは戦後、両国の多くの人の努力により、日豪関係改善の舞台となったのです。


豪州での反日感情は戦後も消えなかったそうですが、


なんと、


カウラでは日本人捕虜の亡きがらは、豪州兵の戦没者墓地の近くに葬られ、


豪州の退役軍人会カウラ支部の手でその墓地も清掃、管理されてきたのです。


そればかりでなく、


1963年にはオーストラリア政府の計らいによって、墓地は日本に譲渡され、


オーストラリア戦争墓地委員会の管理下にあるものの、日本国の国庫に帰属しました。


64年、カウラの日本人墓地が新たに整備され、


今ではカウラの日本人捕虜と合わせて約560人の日本人の亡きがらが眠っています。


この遠い異国の地で、


日本兵の亡骸を手厚く葬り、その地を譲渡までしてくれて、


今もなお管理し続けてくださっているオーストラリア政府には、


日本人として、感謝の言葉しかありません。


本当にありがとうございます。


どこかの国とはまったく違う


ことに、驚きを禁じ得ないわけですが…。


国家間の交流とは、これがあるべき姿だと思います。


一方的に他方を貶め、罪をなすりつけ、脅迫し、


ましてやそれを外交カードにさせてはいけないんです。


そして、このカウラ墓地で、


護衛艦はたかぜのみなさんが、清掃活動を行われています。







はたかぜの皆様、おつかれさまでした!


そして、ありがとうございました。


…しかし、ここで慰霊顕彰されているのは、


豪州国内…つまり、陸上で戦死した者に限定されていますので、


ダーウィン周辺海域で戦没した将兵は祀られていないということになります。


ダーウィン攻撃等で亡くなった人の多くは、潜水艦を含め海軍が多かったものと思われますが、


海中に沈んだ人たちを引き揚げ、埋葬するのは極めて困難であったことから、


遺骨収集もされず、どこにも慰霊されていない、ということです。


Bombing of Darwin ABCニュース


この動画は、平山さんがオーストラリアで取り上げられた時のものです。


ここで、


「日本では、亡くなった潜水艦の乗組員80名への敬意が払われているとは思えません」


と、先ほど紹介したTom Lewis氏が仰っています。


よく聞いていると、彼は、


「SAMURAI」


と言っています。


亡くなった潜水艦乗りを「サムライ」だと表現しているのです。


そのサムライ達に、敬意が払われていない、と。


かつて敵国だった方から、


「あなたたちは、敬意を払うべき人に敬意を払わずどうするんだ?!」


と言われているのです。


これを、日本人としてどう感じますか?


そのあとに続く、平山さんの


「彼らは国のために命を捧げました。

 その祖国が感謝をしなくて、誰が感謝をするというのでしょう」



は心からそう思います。


戦後、日本は極端な左翼思想に染まり、


日本人として失ってはならないものを、喜んで捨ててきたのです。


その代償が、現在の歪んだ日本です。


子が親を殺し、親が子を殺す。


彼らが命を投げ出してくれたのは、


日本をそんな国にするためではないはずです。


命がけでこの国を守ってくれた方たちのおかげで、今がある、


そう思えると、もっと大事なものが見えてきます。


感謝の気持ちが湧き出してきます。


知らねばならないことがあります。


英霊顕彰は、そのために繋ぎ広めねばならない極めて大事なことだと思う次第です。



(※今回の記事を書くにあたって、梅崎艦長から頂いた資料を参考にさせて頂きました。)