『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

3 増上寺 

2023-02-07 | 東京都

「百寺巡礼」第42番 増上寺  念仏の心と東京タワー

 

都心の一等地におよそ、27000坪の広大な境内のお寺。境内の前の道路は、国道1号線で正月の箱根駅伝の通り道でもおなじみ。現役の時に、勤めていた社の会長の葬式もここで行われた。三十数年前のことである。徳川将軍家とゆかりが深く、二代将軍秀忠とその正室江の墓所をはじめ6代家宜、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の墓所となっている。

増上寺は、西誉聖聡上人によって、現在の千代田区平河町の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。第12世存応のときに徳川家康の帰依を受け、一時は一宗を統括する機関となった。

 

参拝日   平成28年(2016)4月22日 金曜日 天候晴れ

 

お寺の概要

所 在    東京都港区芝公園四丁目7番35号 
山 号    三縁山
寺 名    増上寺
宗 派    浄土宗鎮西派
寺 格    大本山
正式名    三縁山広度院増上寺  
本 尊    阿弥陀如来
創建年    明徳4年(1393)
開 基    聖聡

文化財    国指定重要文化財・三解脱門 

 

 

 

境内図

 

 

 

 

参道は地下鉄大門駅の出口A6からビルの谷間に囲まれて350mほど。芝大門の交差点に増上寺の大門がある。

 

 

 

 

大門 鉄筋コンクリート造であるが大きな木板に増上寺の字体。垂れ幕は徳川の葵の御紋。

 

 

 

 

三解脱門 【国指定重要文化財】 三解脱とは涅槃に入るための空・無相・無作の三つの解脱門を寺院の門に擬したもの。 すなわち「迷いから解放されようとする者が必ず通らなければならない」という意味だという。いわゆる「三門」の門の言われ。

 

 

 

 

増上寺本堂は何度かの火災に遭っているが、三解脱門だけはいつも災害を免れ今日に至っている。

 

 

 

 

朱の漆塗で朱色が美しい。 江戸時代この門は人々に開放され、人々はこの門に昇り東海道や品川沖やお台場などが見渡しでき、晴れた日には房総半島や三浦半島まで見渡せたそうだ。

 

 

 

建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せている。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

 

 

 

 

三解脱門の隣にあった今月の言葉

 

 

 

 

黒門 慶安年間(1648~1652年)、三代将軍家光公の寄進・建立とされている。旧方丈門で昭和55年(1980)に当山の通用門として日比谷通り沿いに移築。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大殿  昭和49年(1974)、大本山の念仏の根本道場として、戦災に遭い焼失した本堂が再建された。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室。

 

 

 

 

大都会のど真ん中にある境内は、どうしても背の高い建築に囲まれてしまう。 寺の正式名称は三縁山高度院増上寺で、三縁とは「親縁・近艶、増上縁」。

 

 

 

 

広い境内 大殿から見る三解脱門。廻りには高層のホテルやビルが立ち並ぶのは、いかにも大都会の風景。しかし広い境内の上には大きな空があり、寺の落ち着きは不思議と損なわれていない。

 

 

 

 

大殿の正面

 

 

 

大殿本堂のご本尊阿弥陀如来は室町期に製作されたもので、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀らている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本尊の阿弥陀如来座像  木像で室町時代の作とされている。江戸期には華頂宮門跡・尊超法親王の念持仏であったものを明治42年(1909)の旧大殿が火災に遭った折りに、当時の総本山知恩院門跡山下現有猊下から寄贈。

 

 

 

 

木造釈迦如来・両脇侍像(釈迦三尊像)・木造十六羅漢像

 

 

 

 

木造四天王立像・増長天  6代将軍家宣公がなくなられた際に追善の像として造られた。当初は江戸城内の紅葉山廟に安置されていたが明治維新の際に増上寺に移された。現在は安国殿内陣の四隅に祀られている。

 

 

 

 

木造広目天像、 多聞天像

 

 

 

 

光摂殿と増上寺会館を見る 皐月が美しい

 

 

 

 

大殿と光摂殿の間に東京タワー

 

 

 

 

大殿と安国殿の間に東京タワー

 

 

 

 

鐘楼堂  嘉永10年(1633)の建立であるが、戦後に再建されたもの。

 

 

 

鐘の大きさは東日本で最大級。朝と夕べに2回づつ突く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあると言われる。「江戸七分 ほどに聞こえる 芝の鐘」

 

 

 

 

境内の東がわに並ぶ石地蔵 千体子育て地蔵尊。子どもの顔か? なんともとぼけた顔にも見えるが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川将軍家墓所

 

 

 

 

徳川将軍墓所入り口「鋳抜門」  青銅製で旧国宝だったもの。左右の扉に5個づつの葵の御紋を配し、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれている。 普段は締め切り状態。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墓所の入り口側を見る。徳川将軍家の墓所は、ほかに上野寛永寺にもある。敷地の中央に砂利が敷き詰められ、周囲を取り囲むように様々な石塔が建ち並ぶ。太平洋戦争でほとんどの伽藍が焼失してしまう以前は、徳川家の御霊屋は境内のあちこちに分散していたようだ。

 

 

 

 

二代将軍秀忠公とお江の方の墓碑   調査によれば細部では各将軍若干の違いがあるものの、埋葬は、まず地中かなり深い部分に頑丈な石室を設け御遺体を安置し、二枚の巨石をふたにして、その上に基檀と宝塔は安置されていたといわれている。

 

 

 

 

一四代家茂公夫人(皇女)和宮の墓碑

石碑に刻まれたのは菊の御紋。この写真では判らない。柩の中には夫である家茂公の写真が入れてあったという。

 

 

 

六代将軍家宣公、七代将軍家継公、九代将軍家重公、十四代将軍家茂公の6人の将軍のほか、秀忠公夫人ら五人の正室と三代将軍家光公の側室桂昌院(五代将軍綱吉公の実母)はじめ5人の側室、および歴代将軍の子ら多数が埋葬されている。(左 7代家継公の墓碑、右 14代将軍家茂公の墓碑)

 

 

 

 

皇女和宮のゆかりの茶室   貞恭は和宮の法名から名づけられた。内部は見れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内には近代的な石碑もみられる。

 

 

 

 

境内の木々から垣間見る三解脱門

 

 

 

参道で見た瓦土塀

 

 

 

 

土塀に囲まれたお邸 三解脱門の前方東側

 

 

 

ー百寺巡礼よりー

徳川家と増上寺の結びつきは、徳川家康の代の天正18年(1590)までさかのぼる。この年の8月1日、家康は関東は八国を与えられ、江戸城に入る途中当時まだ麹町貝塚(現在の千代田区紀尾井町)にあった増上寺の門前を通りかかり、そこで12世法主の源誉在応上人と出合い、その人柄や考え方に感銘を受けてすぐに菩提所とした。別の話もあるようだが・・・。これから江戸を本拠地として関東を支配しようとした家康は増上寺の力を大いに活用できるはずと、踏んだのではあるまいか。

さらに家康は、町民感情をなだめるために古い寺社を保存し、そればかりでなく積極的に保護したという。増上寺のみならず、当時の多くの寺は庶民の日常生活と密接に結びついていたからだ。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

 

御朱印

 

 

参考文献  増上寺HP  五木寛之著「百寺巡礼」第5巻関東・信州(講談社文庫版) 

 

3 増上寺 終了