『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

81 建仁寺

2024-05-03 | 京都府

古寺を巡る 建仁寺

花街・祇園にある荘厳な京都最古の禅寺。

 

建仁寺は、京都の中心部・四条大橋からすぐ近くの松竹南座の裏側にある。近くには八坂神社や花見小路などがあり、祇園の南側にあたり清水坂方面にもつながる、歴史的な地域で人通りの多い繁華街でもある。そのような場所にあり大勢の観光客が絶え間なく押し寄せる。俵屋宗達の「風神雷神図」や海北友松の襖絵など、多くの文化財を所有する。近くの高台寺や八坂の塔でおなじみも法観寺は末寺にあたり、寺院の傍にはいくつかの塔頭も建っている。

日本に臨済宗を伝えたのは栄西である。栄西は仁安3年(1168)と文治3年(1187)に、中国の南宗に渡航し臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きあんえじょう)で修業を行い、建久2年(1191)に、虚庵から師匠の法を嗣いだという証明を得て帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。そこで、栄西は最初に九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で寿福寺を開くことができた。その2年後の建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。

寛元4年(1246)から100年の間に3回の火災に遭い寺の勢いは衰えていった。しかし正嘉元年(1258)に東福寺を開山した円爾(聖一国師)が寺に入り仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として寺に入り、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。暦応3年(1340)には佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵、開山堂、塔頭の瑞法庵などが類焼している。康永元年(1340)に寺名を建仁寺に戻す。康安元年(1361)の南北朝の戦乱に巻き込まれた幼少期の足利義満の避難先となった。応永4年(1397)の応仁の乱、文明13年(1481)にも火災に遭っている。したがって創建当時の建物は残っていない。

天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも継続して修理がおこなわれた。明治元年(1868)廃仏毀釈により34院あった塔頭は14院となった。昭和9年(1934)の室戸台風で庫裡が倒壊した。

 

参拝日    令和6年(2024) 3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584               山 号    東山                                       宗 派    臨済宗建仁寺派                                  寺 格    大本山 京都五山三位                               本 尊    釈迦如来                                     創建年    建仁2年(1202)  開山 栄西                          開 基    源頼家                                      正式名    東山建仁禅寺                                   文化財    風神雷神図(国宝) 方丈、勅使門(国重要文化財)ほか   

 

 

建仁寺位置図

 

 

 

 

 

 

勅使門【国重要文化財】   建仁寺伽藍の南側に位置し、銅板葺き切妻屋根の四脚門。元は六波羅にあった平教盛の館門で、応仁の乱の後に移築したと伝えられている。様式的には鎌倉時代末期の建物。柱や扉に戦乱の屋の痕があることから矢の根門または矢立門と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

三門を見る。

 

 

洗鉢池。 参道の右手の茶碑と「平成の茶苑」のある区画の南隣に位置する。茶碑の近くにあるせいか、抹茶色をした神秘的な池。

 

 

三門。   空門・無相門・無作門の三解脱門で、江戸時代末期の建築物といわれている。大正12年(1923)に静岡県浜松市の安寧寺から移築されたもの。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が安置されている。

 

 


「望闕楼」(ぼうげつろう)とも呼ばれ「御所を望む楼閣」という意味があるという。

 

 

 

門から正面に法堂を見る。

 

 

境内の参道。

 

 

 

本坊。 参拝者はこちらの入り口から入る。

 

 

 

 

 

本坊玄関。   「大哉心乎」は、建久9年(1198)に栄西禅師が書かれた、興禅護国論の序文の最初の4文字。「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの」という意味。

 

 

 

本坊の玄関は吹き抜けで、梁や桁など小屋組みが見える。材を見るとそんなに古いものではなさそうだ。

 

 

 

玄関から上がる。

 

 

 

ここで拝観手続きを踏んで中に進む。

 

 

 

本坊の廊下にはお札やおみやげなどを売る店。

 

 

 

本坊の奥の部屋に展示されてる「風神雷神図屏風」(国宝)は俵屋宗達の筆。そのレプリカ。

 

金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。

 

 

 

方丈から渡り廊下を進み法堂へ。

 

 

小鐘楼【京都府指定文化財】  法堂に繋がる渡り廊下の右手に位置する。大鐘楼(陀羅尼の鐘)よりやや遅れ、江戸時代の寛文12年(1672)に建立された。桁行一間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺。

 

 

法堂【京都府指定有形文化財】     仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている当寺の本堂。明和2年(1765)に再建。

 

 

法堂正面。 一重の構造であるが、裳腰が付いているため二重に見える堂々とした禅宗様仏殿建築で、禅語に拈華微笑からとった拈華堂とも呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法堂内部。

 

 

 

 

正面須弥壇には、本尊の釈迦如来坐像と脇侍に迦葉尊者と阿難尊者が祀られている

 

双竜図。    平成14年(2002)に創建800年を記念して天井に、日本画家、陶芸家で特定の美術団体に属さず画壇とも距離を置いたことから「孤高の画家」と呼ばれている小泉順作により「双龍図」が描かれた。天井画の大きさは畳108枚ほどあるという。小泉順作は、ほかに鎌倉建長寺の天井図、東大寺の襖絵なども手掛けた。

 

 

花頭窓。

 

 

 

方丈大玄関。  方丈と本坊の間にあり本坊にもつながる。一般への開放はなく出入りは出来ない。

 

 

向唐門。   方丈の前庭に位置する。寛文年間(1661~73)に造営されたと伝えられる。造営当初は柿)葺きであったが、瓦葺きとしたため重力で劣化、腐朽破損等が進んでいたため、平成21年(2009)に木部修理及び屋根を銅板に葺き替えた。

 

 

方丈と前庭の大雄苑。

 

 

 

 

大雄苑。  方丈の前に広がる枯山水の庭園。 庭園は、作庭家・加藤熊吉により昭和15年(1940)に造られた。中国の百丈山の眺めを模して造られたといわれ、方丈の広い外縁に座ってみると大きな広がりを感じる。

 

 

庭に向かって左端に一番大きな石が主石になっている。この主石に雨が降って水滴になり、川になり、そして海になり、最後は渦になる様子が白砂で描かれているという。

 

 

 

方丈と法堂が繋がる渡り廊下。

 

 

方丈の外縁から向唐門越しに法堂。

 

 

 

方丈の大きな外縁には、参拝者が腰をおろし目の前の庭園と向き合っている。

 

 

外縁の右手方向に描かれた白砂による波紋。

 

 

 

 

 

 

方丈【国重要文化財】   長享元年(1847)の建立。 もと、安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。創建当初は杮葺であったが元文元年(1736)に瓦葺きに改装。建物の外周すべてに建具が入り壁が少ない構造のためか、昭和9年(1934)に倒壊し、昭和15年(1940)に創建当初の杮葺で復旧された。その後昭和37年(1962)に銅板葺きに改められていたが、平成25年(2013)に、また杮葺に復した。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』の計60面が、昭和15年(1940)に設置された

 

 

 

方丈の正面に「方丈」の扁額。

 

 

室中。   方丈の正面中央にある44畳敷きの大きな部屋で、住職がお勤めをする部屋。部屋の真中に本尊の十一面観音菩薩坐像を安置。この像は、徳川第二代将軍・秀忠の娘で後水尾天皇の皇后になった東福門院和子により寄進されたもの。

 

 

方丈の他の部屋より格式が高い部屋として天井は折上格天井としている。16面ある襖には、海北友松の筆による「竹林七賢図」が描かれている。安土桃山時代の作。

 

 

 

 

 

下間ニの間(礼の間)。  方丈の室中の右側の部屋で、24畳の広さがあり、一般の方の応接間となる。

 

 

8面の襖絵は海北友松の筆による雲竜図で、安土桃山時代に描かれた。

 

 

上間ニの間(檀那の間)。  室中の西側の24畳の部屋で、檀家用の応接の間になる。 8枚の襖絵は山水図で安土桃山時代の海北友松によって描かれた。

 

 

 

 

 

 

方丈妻側(西側)全景。  

 

 

大雄苑の庭は白砂の波紋で方丈の三方を取り囲む。白砂に浮かぶ2つの石の島と1つの石の島。 何を表しているのか理解せぬまま・・・に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈の背面側。

 

 

 

 

 

上間ニの間(衣鉢の間)。   背面側の西端の24畳の部屋で、師匠から弟子の法を説く部屋にあたる。 障壁画と6枚の襖絵は琴棋書画図で、これも安土桃山時代の海北友松の作である。

 

 

 

 

 

 

裏の間(西)。  方丈の背面にあり17.5畳に建仁寺の写真や書画が展示されている。

 

 

裏の間(東)  背面にあり10畳の広さ。「対馬行列輿」が展示されている。この輿は、江戸幕府の命によって対馬国(対馬藩)の以酊庵に派遣された禅僧が嘉永12年(1635)~慶応2年(1866)まで実際に使用したもの。

 

 

下間一の間(書院)。  方丈の背面東端の部屋で、住職が日常の生活の場として使用した。

 

 

障壁画および襖絵8面は、安土桃山時代に活躍した絵師海北友松の筆による花鳥図である。

 

 

 

 

 

納骨堂。 方丈の背面に対面し位置している。 白砂の波模様の庭を横切るように、踏み石を雁行させながら配置。

 

 

方丈の西北側には茶室への路地が続く。

 

 

三尺の大硯。 建仁寺に襖絵を残している田村宗立(1846-1918)の遺愛の硯。

 

茶室「東陽坊」。   天正15年(1587)に行われた北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。明治25年(1892)に当寺境内に移され、大正年間(1912~1926)に現在地に移築。

 

 

 

 

茶室・清涼軒。

 

 

安国寺恵瓊の首塚。 安国寺恵瓊は、建仁寺の方丈移築や東福寺庫裏の再建などの功績を残している。関ケ原の合戦では西軍で参戦したが、敗退し、恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で京都六条河原で斬首された。首塚は、恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある方丈裏に葬ったものである。

 

 

 

本坊から小書院に進む。

 

 

丸窓。 潮音庭に向かう廊下の途中に設けられている。 アングルがよろしくない(怒り)。

 

 

 

小書院の外縁。 右手小書院・船出の間、左手潮音庭。 

 

 

小書院・船出の間。 襖絵は平成26年(2014)に、「開山栄西禅師八百年大遠諱慶讃事業」として、染色画家の鳥羽美花氏によって描かれたもので、「舟出」という作品。鮮やかな色彩に目を奪われる。

 

 

 

ダイナミックな青の世界を表現した襖絵は、絹織物の白山紬を染め上げ襖に仕立てた。

 

 

船出の間から見た潮音庭。

 

 

小書院・凪の間。  船出の間の背面に位置した部屋で、襖絵は船出と同じ染色画家の鳥羽美花氏。

 

 

 

墨絵のようなモノトーンで月が山の端に沈む寸前の静けさを表現したという。

 

 

 

凪の間の床の間。禅宗の思想〇△▢の軸。 〇は水、△は火、▢は地を表した。

 

〇△▢の庭。  凪の間から見る中庭。 方丈と小書院の間に作られた坪庭。平成18年(2006)に、現在の日本を代表する作庭家・北山康夫氏が手掛けた庭。「〇△▢」という図形は、宇宙の根源的な形態を示し、全周の四大思想(地水火風)を、地(▢)水(〇)火(△)で象徴したものといわれる。〇は中央の苔山と砂紋、▢は井戸、△は白砂のエッジ部分で表現されている。

 

 

小書院・唐子の間。   廊下を挟み、小書院の西側に位置する10畳間。明治~大正時代に活躍した画僧・田村月樵(げっしょう)による『唐子遊戯図』が見られる。

 

 

襖絵に描かれた、湖上に浮かぶ小舟や月が描かれた床の間や、無邪気に遊ぶ子どもたちの楽しそうな表情が特に見どころ。

 

 

 

小書院から渡り廊下を進み大書院に。

 

 

潮音庭。 小書院と大書院の建物の間に作られた中庭。作庭家・北山康夫氏の監修のもとに、小堀泰嚴住職により作庭されたもの。

 

 

庭の中央に石が組まれ、その周りを紅葉の木が囲む。地表は苔で覆われている。中庭となっているため四方のどこから見ても正面になる。この中庭の中央に三尊石(3つの立石)、東に坐禅石があ配置されている。三尊石は、仏陀と2人の禅僧を象徴しているという。

 

 

 

大書院。 南側の潮音庭に面し畳敷きの廊下と外廊下が並ぶ。

 

 

大書院に掲げられている扁額。

 

 

 

書院造りの床の間を備えた部屋。

 

 

 

床の間に掲げられた軸。 達磨大師と不識の文字は細川護熙氏が描いたようだ。

 

建仁寺と縁の深い芸術家・細川護熙氏(第79代内閣総理大臣)による24面におよぶ襖絵が見られる。中国湖南省の景勝地である洞庭湖一帯の風景を描いた『瀟湘(しょうしょう)八景図』を水墨画で表現された。令和3年(2021)に、御開山御誕生880年を記念し手がけた襖二十四面が奉納された。

 

 

 

 

陀羅尼の鐘。    東鐘楼に吊るされている。修行僧が寝につく亥の刻(午後10時)過ぎ、観音慈救陀羅尼を一万返唱しながらつくことから、この名がある。 陀羅尼鐘は建仁寺開山・栄西禅師が在世の時に鴨川の七条の下流、釜ヶ淵に沈んでいたものを「えいさい」「ようさい」と栄西禅師の名を呼びながら引き上げたとの言われがある。

 

 

北門。

 

 

 

花見小路。 北門を出ると正面の通りは花見小路。 

 

 

花見小路には、紅殻格子に犬矢来という祇園情緒のあるお茶屋の家並みが続く。この建仁寺北門からの一帯がもっとも美しく、地面の石畳が周りの建物を引き立てて、風情あふれる景観になっている。

 

 

 

 

 

京都の本物の舞子さん。 建仁寺の帰り道、河原町駅のコンコースで京都府警のキャンペーンで舞子さんがキャンペーンガールを務めていたので、了解をもらい撮った写真。

 

 

 

案内図。

 

 

御朱印。

 

 

建仁寺 終了

 

(参考文献) 建仁寺HP フリー百科事典Wikipedia  ほか