『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

83 神護寺

2024-05-11 | 京都府

百寺巡礼第23番 神護寺

二つの巨星が出会い、わかれた舞台

 

 

 

京都市街の北西、愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院。紅葉の名所として知られる。高山寺を参拝し、栂ノ尾バス停からバスに乗り高雄で降りる。バス停から神護寺への道は、人が通るだけの下り道で自然石を並べた階段となっている。坂道を下りきると清滝川が流れ、朱塗りの高雄橋を渡る。橋を渡り、自然石の階段を上る、これが神護寺の参道となる。山の中腹に境内があるためかなりの距離がある。高齢者や足が不自由な人は相当きつい。やっと門に辿り着く。

清滝川に架かる高雄橋からの長い参道は、石段と坂道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称するが、寺の史料の「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにも「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とある。

平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
 神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていない。私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。愛宕五寺(または愛宕五坊)と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
 その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。
 天長元年(824)に、真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱し、それ以後真言宗として今日に伝えている。
 神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦5年(994)と久安5年(1149)の二度の火災にあい,鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。
 わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、その達成への道はとても厳しかった。
 上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ元以上の規模に復興された。
 その後も天文年中の兵火や明治初年の廃仏毀釈の弾圧にも消えることなく法灯を護持している。

 

参拝日   令和6年(2024) 3月2日(土) 天候曇り

 

所在地   京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄5                           山 号   高雄山                                       宗 派   高野山真言宗                                    寺 格   遺迹本山                                      本 尊   薬師如来(国宝)                                  創建年   天長元年(824)                                  開 基   和気清麻呂                                     正式名   高雄山神護国祚真信寺                                別 称   高雄神護寺                                     札所等   西国薬師四十九霊場第44番ほか                            文化財   木造五大虚空蔵菩薩坐像 絹本着色釈迦如来像ほか(国宝)大師堂(国重要文化財)ほか

  

 

 

境内図                                (神護寺HPより)

 

 

清滝川にかかる高雄橋。

 

 

 

清滝川。 

 

 

 

ここからが参道。

 

 

 

約300の石段が延々と続く。 お参りもいいがかなり覚悟が必要。

 

 

硯石。 楼門まであと5分の1程度の距離にある大きな岩は、空海が神護寺で修業している時に、嵯峨天皇が『金剛定寺』の門額を書くようにと勅使を送るも、清滝川が増水して渡れないため、空海はこの岩で墨をすり、空に向かって『金剛定寺』と書くと、文字が門額に現れたという伝説の石。

 

 

やっと楼門が見えてきた。

 

 

楼門。  山門とも三門とも言わず楼門という。 元和9年(1623)の創建。

 

 

「神護国祚真言寺」の扁額。 ・・・と書いてあるようだ。

 

 

 

持国天と増長天は、ただ今留守中。

 

 

 

この門の左手で参拝の手続きを済ませ、門を潜る。

 

 

門から上ってきた石段を振り返る。

 

 

 

楼門を境内の内側から見る。

 

 

 

門を潜り境内を見る。ひろびろとしている、300段の階段を上ってきてホッとするひととき。

 

 

 

 

 

 

五大堂。   元和9年(1623)の建立。元は講堂だったといわれる。 堂内には五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉が安置されている。

 

 

五大堂の前の鬼瓦。 よく見るとユニークな顔?

 

 

 

五大堂の正面向拝。

 

 

 

 

 

 

五大堂の前には毘沙門堂。

 

 

毘沙門堂。 元和9年(1623)の建立。五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂であったため、本尊の薬師如来像はここに安置されていた。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(国重要文化財)を安置する。

 

 

毘沙門堂の正面向拝。

 

 

 

 

 

向拝を見る。

 

大師堂【国重要文化財】。  毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、杮葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。内部の厨子に正安4年(1302)に作られた板彫弘法大師像(国重要文化財)を安置する。杮葺きの屋根にはうっすらと雪が残る。今朝降った雨はこの辺りでは雪だったのだろう。

 

 

板彫弘法大師像【国重要文化財】。    正安4年(1302)に仏師・定喜が土佐国金剛頂寺の空海像を模刻したものとされている。大師堂内に安置。

 

 

大師堂の前に合った石柱。 戸車のようなものが付いているが・・はて?

 

 

金堂への参道の石段。 両側には紅葉の樹だ並び、秋の盛りには子の紅葉見たさに参拝客でにぎわう。冬の終わりで彩は無いが、神護寺の最高のビューポイント。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂。    昭和9年(1934)に、大阪の実業家で高額納税者の山口玄洞氏の寄進により再建された。。楼門を入って境内を奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造り、本瓦葺きの本格的な密教仏堂である。

 

 

 

 

 

妻側。

 

 

側面(西側)外観。

 

 

 

 

 

 

 

 

正面・向拝。

 

 

軒下の木組み。

 

 

 

 

 

 

 

 

向拝を横から見る。

 

 

入り口扉。

 

 

 

内部の撮影は出来ないため、この辺まで。

 

 

内陣と外陣。 須弥壇中央の厨子に本尊の薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光菩薩と月光菩薩立像(国重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。(写真は神護寺HPより)

 

本尊・薬師如来立像【国宝】     金堂本尊。像高170.6Cm、カヤ材の一木造。唇に朱を、眉、瞳などに墨を塗るほかは彩色などを施さない素木仕上げの像である。目を細めた森厳で沈うつな表情と体躯のボリューム感は、親しみよりも威圧感を見る者に与える。図式的・観念的に整えられた衣文などに平安時代初期特有の様式が見られる。下半身では両脚間に「U」字形の衣文を縦に連続させ、その左右に平滑な面をつくって大腿部のボリュームを強調しているが、こうした衣文形式も平安時代初期の如来像に多く見られるものである。(写真は東京国立博物館の「創建1200年記念特別展・神護寺ー空海と真言密教のはじまりより」) 

 

 

 

 

金堂の向拝から前方を見る。 階段下に五大堂と毘沙門堂。 手前の丸い基礎は、鉄製か銅製の灯籠が建っていたのだが、戦時中の供出により失ってしまった。

 

 

 

石仏は不動明王像。  金堂の西側に建つ。

 

 

多宝塔。    昭和9年(1934)に大阪の実業家・山口玄洞氏の寄進により再建。金堂からさらに石段を上った高みに建つ。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置。

 

 

 

 

五大虚空蔵菩薩像【国宝】。   多宝塔に安置してある像で、五大虚空蔵菩薩は金剛界の五智如来の変化身といわれ、富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法を行う。像は五体とも像高90Cmあまり。ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる。肉身の色は中尊の法界虚空蔵が白色、東方尊金剛虚空蔵は黄色、南方尊宝光虚空蔵は緑色、西方尊蓮華虚空蔵は赤色、北方尊業用虚空蔵は黒色に塗り分けられている。これらは、いずれも一木造で、両腕のひじから先に別材を矧ぎ付けるほかは一材から彫り出し、部分的に木屎漆で仕上げている。
 彩色は九世紀末に塗りなおした記録があり、当初のものではない。木製の宝冠、瓔珞、臂釧などの装身具も後のもので、光背、台座も失われている。      (写真は京都観光Naviより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閼伽井。  仏前に供えるための水を汲む井戸。

 

 

石碑。 

 

 

 

金堂の横から木々の小道を抜けると苔覆われ区画があり、瓦屋根の地蔵院が建っている。

 

 

かわらけ投げ。 前には錦雲峡という峡谷がひろがり、この錦雲峡に向かって、健康や安全などの願いを込めて素焼きの皿をなげる「かわらけ投げ」の場所である。

 

 

 

はるか下には清滝川が流れている。

 

 

 

「かわらけ投げ」を終えて、金堂のある境内に戻る。

 

 

明王堂。  五大堂の手前(楼門側)に位置する堂宇。 天慶2年(939)に平将門の乱のときに、空海が刻した護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、現・成田市の成田山新勝寺に捧げ、21日間にわたり朝敵を調伏する護摩を修せしめた。乱の平定後には不動明王像が動こうとしないので、公津ヶ原に東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、神護新勝寺の寺名を下賜し勅願寺として創建した。扁額「明王堂」は五代目による筆。市川海老蔵の筆による。

 

 

鐘楼。  日本三名鐘(ほかに宇治・平等院、大津・三井寺)の一つ。 元和9年(1623)の建立。

 

 

楼上の梵鐘(国宝)は、貞観17年(875)に鋳造された。序詞を橘広相、銘文を菅原是善(菅原道真の父)、揮毫は藤原敏行の手による銘文が刻まれている。序、銘、書のいずれも当代一流の者によることから「三絶の鐘」と称された。名鐘は外からは見えない。

 

 

 

和気清麻呂の霊廟。  後の神護寺となる神願寺と高雄山寺を建立した和気清麻呂を祀った廟。こちらも大阪の実業家・山口玄洞氏の寄進による。

 

  

本坊の入り口。 楼門を潜る前の右手に位置する。

 

 

 

書院・平唐門。  この門の背面に「灌頂の庭」がある。奥は書院となる。

 

 

灌頂の庭。  書院の前に広がる石庭。 普段は非公開で、書院の虫払い行事の行われる5日間のみこうかいされる。                        (写真はYAHOO!ニュースより)

 

書院の虫払い行事。 新緑の季節、神護寺で保管してある寺宝が、虫干しのため書院において別公開される。国宝の伝源頼朝画像や、伝平重盛像、釈迦如来像、潅頂暦名など70点が展示。2024年度は5月1日~5日まで開催された。併せて、書院石庭「灌頂の庭」が公開される。また、茶室「了々軒」で茶席が用意されている。

釈迦如来像【国宝】  赤釈迦ともいわれる。 絹本著色、縦159.4cm 横85.5cm、平安時代後期の作。 朱

 

 

源頼朝像【国宝】   絹本著色、縦143.0cm 横112.8cm、鎌倉時代(13世紀)の作。鎌倉前期の大和絵肖像画の代表的傑作といわれる。

 

 

 

楼門を額縁にして参道方向を見る。

 

 

 

参道を下り高雄橋を渡ると、また上り坂になりその先に高雄のバス停が待っている。

 

 

 

バス停「高雄」から乗車し、しばらくは貸し切り状態、京都市街にすすみ、やっと客が乗り込んできた。次は仁和寺で降りるつもりだ。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーどんな人間でも時には「もう死んでしまいたい」と思うようなことがあるだろう。私自身、具体的に方法まで考えて、こういうふうにしようと決心しながら踏み切れなかったことが、これまで二度あった。どうにか立ち直って、いまこうして生きている。目の前にあるものはすべて変わっていく。去っていく。自然はすべて変化する。人間も老いていく。病を得る。そして死んでいく。天地自然も変貌していく。春も夏も、あっという間に過ぎていく。すべて目の前にあるものは消えていく。遠ざかっていき、みんないつかは別れなければならないのだ。友情も変わる。恋人も老いていき、やがて死んでいく。生まれてきたもの、今向き合っているものは、すべて別れなければならないのだ。そういう気持ちを抱いて生きていくことは、とても大切なことなのかもしれない。そこから結局、いまを惜しむ気持ちが生れ、惜しむ気持ちから悲しむ気持ちが生れ、悲しむ気持ちから、いとおしむ気持ちが生れ、そこから万物への愛が生れてくるからだ。空海は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く」と書いた。これは彼の生に対する覚悟だったのではないだろうか。そうしてそのどん底から絶望を力に変えていったのではないだろうか。目の前の薬師如来立像は、神護寺の変遷とともに、さまざまな人びととの人生を見守りつづけてきた。赤みを帯びた唇から、覚悟して生きて生きなさい、という言葉がこぼれてきたようなきがした。

 

 

 

御朱印

 

 

 

神護寺 終了

 

(参考文献) 百寺巡礼第三巻京都Ⅰ(講談社)  神護寺HP                     

       フリー百科事典Wikipedia SPICEHP ほか