第4番 唐招提寺
鑑真の精神が未来に受け継がれていく
参拝日 平成28年(2016) 6月24日(木) 天候曇り時々小雨
所在 奈良県奈良市五条町13-46 山号 なし 寺名 唐招提寺 宗派 律宗 寺格 総本山 本尊 廬舎那仏 創業年 天平宝字3年(759) 開基 鑑真
奈良駅前からバスに乗って15分ぐらいで唐招提寺に着く。百寺巡礼を始めて6番目のお寺だ。この唐招提寺は、さすが低学年の修学旅行は少なく、また団体の観光客も少ない。ほかの寺のように華やかさ(?)は無いので、団体の観光ルートからは外されているようだ。その分ゆっくり参拝し、落ち着いて鑑賞できる。このお寺の伽藍は緑に囲まれとても静かである。国宝や重要文化財を多数所蔵しているのも特徴である。
鑑真は、日本への渡航を決意してから五度にわたる挫折。それでもあきらめなかった彼が、ついに奈良の平城京に着いたのは天平勝宝6年(754)だった。その鑑真が開いたのがこの唐招提寺である。
唐招提寺は、南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律)の一つである律宗の総本山である。多くの苦難の末、来日を果たした鑑真大和上は、東大寺で5年ほど過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いた。「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけだった。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の1人であった如法の尽力により、完成したといわれる。現在では、奈良時代に建立した金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっている。
門前の通り いわゆる門前町や門前の通りらしきものはなく見た通りの質素。この先を左に曲がれば、徒歩10分ほどで薬師寺である。
境内図
南大門 天平様式で昭和35年(1960)に再建した。 5間の中央に3扉で、切妻屋根の造り。
中央に掲げられた扁額は複製したもので、実物は講堂に収蔵されている。孝謙天皇(718~770)の御筆と伝えられている。148㎝×117㎝の檜の一枚板は、もともと飾り縁が取り付けてあった。奈良時代のもので現存する扁額は、この寺と東大寺西大門の二つだけ。
南大門を潜るとすぐに世界遺産登録の記念碑
南大門から境内をみる。 正面が金堂。
金堂の前から南大門をみる。緑が気持ちの良い境内。「唐招提寺は、私が大好きな寺の一つだ」と百寺巡礼で五木寛之が言っている。
金堂【国宝】 南大門を潜った真正面に金堂。 8世紀後半に建てられた荘厳な姿を今に遺す代表的な建築物。 外観は正面間口7間(中央の間口は4.7mで両端へは次第に狭くなり両端は3.3m)奥行き4間の寄棟造。
全面1間通りが吹き放ち。軒を支える組物は三手先と呼ばれる形で、その創建時代を表す。
堂内は、連子窓から取り入れられた軟らかな光に満たされ、中央に本尊・廬舎那仏座像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いづれも国宝)が並ぶ姿は天平時代を沸騰させる厳かな雰囲気につつまれている。
中 廬舎那仏座像【国宝】 右 薬師如来立像【国宝】 左 千手観音立像【国宝】
四天王立像 左上 持国天立像【国宝】 右上 増長天立像【国宝】 左下 広目天立像【国宝】 右下 多聞天立像【国宝】 いずれも奈良時代(8世紀)の作で木造・乾漆併用。 彩色。
梵天・帝釈立像【国宝】
講堂【国宝】 奈良時代(8世紀後半)入母屋造・本瓦葺 平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、開放的な空間となっている。外観は平屋の入母屋造で、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれている。天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な存在。内部は、本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されている。
礼堂【重要文化財】
弥勒如来坐像【重要文化財】
左 持国天立像【国宝】 右 増長天立像【国宝】 いずれも奈良時代(8世紀)の作で木造。
鼓楼【国宝】 鎌倉時代 仁治元年(1240) 楼造・入母屋造・本瓦葺 金堂・講堂の中間の東側に建つ、2階建ての建築物。名称は「鼓楼」だが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれている。外観は、上下階とも扉と連子窓で構成され、縁と高欄が取り付けられている。堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔が安置されている。
舎利容器 鑑真和上請来の「如来舎利三千粒」を収める「白瑠璃舎利壺」とそれを包む「方円彩糸花網」、さらにそれを収める「金亀舎利塔)」で構成された唐招提寺の創建にかかわる重要な宝物。
左 金亀舎利塔【国宝】 右上 白瑠璃舎利壺【国宝】 右下 方円彩糸花網【国宝】
鐘楼
経蔵【国宝】 もう1棟同じ造りの宝蔵【国宝】がある。奈良時代(8世紀)校倉・寄棟造・本瓦葺 礼堂の東側に宝蔵とともに並んで建つ高床式の校倉で、小さいほうが経蔵。唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉。
木々に囲まれた新宝蔵から御影堂への通路。
土塀の中は御影堂や中興堂のある北エリア
鑑真和上御廟の入り口
御廟のエリア 林の中の苔が美しい。
鑑真和上御廟 境内の北東の奥まった静かな場所に位置する鑑真和上の墓所。同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えない。現在は御廟前に和上の故郷・揚州から贈られた瓊花が植えられ、初夏にその可憐な花を咲かせる。
御影堂は土塀の奥にあり中には立ち入れない。
鑑真和上座像【国宝】 奈良時代(8世紀) 高さ80.1㎝ 日本最古の肖像彫刻であり天平時代を代表する彫刻。
御影堂【重要文化財】 重要文化財 江戸時代 境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964)移築復元したもの。現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。(写真は唐招提寺HPより)
御影堂の内部は東山魁夷の障壁画が特に有名。(写真はネットより) 日本を代表する画家、東山魁夷画伯が、10年を超える歳月をかけ、鑑真和上に捧げた大作。日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲」「濤声」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」「黄山暁雲」「桂林月宵」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も画伯の作。
開山堂 礼堂の北側に位置し、鑑真和上身代わり像が安置されている。
境内北西に位置する本坊付近。
なぜか北原白秋の句碑。 「水樽の柔き嫩葉はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」
なぜか芭蕉の句碑 「若葉して御目の雫払ばや」 俳人松尾芭蕉が貞享5年(1688)陰暦4月8日に当寺に詣で鑑真和上像を拝しての句。
戒壇 金堂の西側に位置し、僧となるための授戒が行われる場所。創建時に築かれたとされているが再興されたもの。火災により建物は失われた。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれた。
蓮の花 階段の前の蓮池に割く蓮の花
境内を見る
唐招提寺から薬師寺に向かう途中の風景
五木寛之著「百寺巡礼」から 古来宗教というのは、宗教であると同時に一大総合文化だったと言えるだろう。医学も、建築も、音楽も、文芸も、思想哲学も、ファッションも、碁や、書や、尺八も、仏教と一体となって渡来したと言っていい。もちろん、料理や食材もである。
鑑真は五度の渡航に失敗して挫折を繰り返すが、それでもあきらめなかった。五度目の渡航の時には海南島へ漂流し、潮風のため目を傷めてしまう。その後、失明しながらも日本を目指した。そして六度目の航海でようやく九州の薩摩に漂着する。志をたててから実に12年の年月がすぎていた。六十六歳という年齢、しかも失明した身で、なぜ日本行きを途中で断念しなかったのだろうか。おそらく、彼にとって日本に就くことが、命を投げ出しても遂行すべきミッションだったからだろう。
案内図
御朱印
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