『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

34 中宮寺

2023-09-22 | 奈良県

第7番 中宮寺

半跏思惟像に自己を許されるひととき

 

 

 

小学校4年の時に先生から教えてもらった弥勒菩薩のこと、特に先生が示してくれた指の形は今でも覚えている。それから60年余り、初めてその弥勒菩薩にお目にかかる。この寺、中宮寺は、法隆寺の東院伽藍の脇に位置する。夢殿の東裏側にあり、法隆寺の塔頭になるのかな?

聖徳太子が母后のために建立した尼寺。現在は法隆寺の東院に隣接しているが、創建当初は500メートルほど東の現・中宮寺跡史跡公園にあった。現在地に移転したのはこの寺が、代々皇族、貴族などが住持となる格式の高い門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。発掘調査では、尼寺である桜井尼寺と同系統の瓦が出ていることから、当初から尼寺であったようである。寺は、平安時代以降衰微していったが、鎌倉時代には中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られた。その後、戦国時代に寺は炎上したため、ついに現在地にあった法隆寺の子院に避難し、そのままそこに寺基を移すこととなった。太平洋戦争後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

 

所在地    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目1-2                    山 号    法興山                                   宗 派    聖徳宗                                   本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    推古天皇15年(607)・伝                           開 基    聖徳太子・伝                                中 興    信女比丘尼                                 正式名    法興山中宮寺                                札所等    聖徳太子霊跡第14番 ほか                          文化財    木造菩薩半跏像(如意輪観音像)・天寿国繍帳残闕(国宝)ほか

 

 

 

案内図  下図グリーン線の枠内。

 

 

 

法隆寺東院伽藍を出て北東に向かう。

 

 

右手側が中宮寺の三門。

 

 

中宮寺の参拝への出入りの門。

 

 

山門  普段は通り抜けできない。

 

 

山門に掲げられた扁額は山号の法真山。

 

 

門を入り受付などのある建物。

 

 

表御殿【国有形文化財】受け付けから直ぐに表御殿が建つ。内部非公開。

 

 

書院造りで江戸時代後期の建立。

 

 

 

 

 

中門。 表御殿を通り過ぎ中門から本堂のエリアに入る。

 

 

中門から本堂に続く。

 

 

本堂脇から中門方向を見る。

 

 

本堂  高松宮妃の発願により昭和43年(1968)に建てられた、和風の鉄筋コンクリート造による現代建築。設計は建築家の吉田五十八先生ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木造菩薩半跏像 【国宝】  中宮時の本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。現状は全身が黒ずんでいるが、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。経年で彩色が失われたが、芸術として高く評価されている。(中宮寺HPより引用)。

 

天寿国繡帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)  染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存が難しい。本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品として極めて貴重である。現在は奈良国立博物館に寄託。本堂には、昭和57年(1982)に製作されたレプリカを安置。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘太郎女が多くの采女らとともに造った刺繍の曼荼羅である。

 

 

本堂の縁から法隆寺西院の夢殿の屋根を見る。

 

 

向拝から入り口を振り返る。

 

 

夢殿の屋根と光輪がよく見える。

 

 

拝観が終わるころ修学旅行の群れが到着。

 

 

境内を見る。

 

 

帰り際に横から本堂を見る。

 

 

境内には、昭和天皇妃の香淳皇后の歌碑。「​​​​​中宮寺乃 都い地のイち尓 しつも利天​​​
 さゝん久王の花 清ら可耳佐久」。  中宮寺の築地の位置に静まり 山茶花の花が清らかに咲くと言う意味。

 

 

案内図。

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー中宮寺の半跏思唯像は弥勒菩薩とも如意輪観音ともいわれるが、いずれにしても菩薩であり仏(如来)ではない。悟りをひらいた仏(如来)に対して、菩薩はいわば修行中の身である。遠いところにいる仏さまではなく、この世にとどまって衆生を救おうとしている。ある意味では、菩薩とはそういう修行をなさっている存在なのだ。中宮寺の半跏思唯像は、かすかに右手の指を頬に当てて、物思いにふけっているように見える。五十六億七千万年後という遠い未来に、この世のさまざまな人びとをどうやって救えばいいだろうか、と考えていらっしゃるのだろう。何気なく、そのお顔から下の方へ視線を向けたとき、はっとした。この顔に対面する人は、なんともいえないそのお顔の繊細な表情にとらわれてしまう。しかし、それ以外のところを拝見していると、意外にも手首はしっかりなさっている。また、足も頑丈そうで安定感がある。これは衆生を救うために大地を駆けめぐった足だ。おそらく、ありとあらゆる場所を歩き回られたに違いない。そんな尊いおみ足だ、と感じたのである。

 

 

御朱印。

 

 

中宮寺 終了


コメントを投稿