『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

33 法隆寺

2023-09-15 | 奈良県

第6番 法隆寺

聖徳太子への信仰の聖地

 

 


 名画や国宝を観賞するのには、なるべく混雑を避けゆっくり見たいというのは誰も同じことである。どうせ見るならと、誰もいないうちにと思いJR奈良駅発8時の電車に乗り法隆寺に向かった。10分程度で法隆寺駅に着く。法隆寺まではバスかタクシーが便利だが、タクシーはもったいないので歩くことにした。松並木の参道まで約15分、参道を5分ほど歩いて南大門にたどり着いた。開門と同時に境内に入る。やはり人はほとんど見当たらず、団体も修学旅行生もまだ来ていない。

法隆寺は、現存する木造建築では世界最古の建造物である。聖徳太子と推古天皇によって建立された。境内は築地塀に囲まれ、西院と東院に大きく分かれ、国宝・重要文化財の建築物だけでも55棟もある。また、建造物以外にも優れた仏教美術品を多数所蔵しており、その数は国宝だけで38件・150点、重要文化財を含めると3104点にもなる。法隆寺地域の仏教建造物として、平成5年(1993)に、世界文化遺産に登録された。
東大寺や春日大社と並んで奈良を代表する観光スポットである。

創建当時は斑鳩寺と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺である。創建は、推古15年(607)とされる。金堂と五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方m。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。建造物以外にも飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

日本書記によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は推古9年(601)に飛鳥からこの地に斑鳩宮を建造し、推古天皇13年(605)に移り住んだ。現在の法隆寺東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺で、すなわち法隆寺である。

昭和14年(1939)の旧伽藍の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが分かった。現存の西院伽藍については、持統7年(693)に法隆寺で仁王会が行われていることから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。また、和銅4年(711)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。皇極天皇2年(642)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に、斑鳩宮は焼失したが法隆寺は無事に残ったと考えられた。なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

所在地    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
山 号    なし
宗 派    聖徳宗
正式寺名   法隆寺 
別 称    斑鳩寺
寺 格    総本山
本 尊    釈迦如来
創 建    (607年)
開 基    推古天皇、聖徳太子
札所等    南都七大寺
文化財    金堂、五重塔、夢殿ほか(国宝) 
       中門金剛力士像ほか(国重要文化財)

 

境内案内図。

 

参道の松並木

 

南大門に続く参道。二列の松並木の間が通路だが、外側に道路と歩道がありそちら側が通り。200m続く参道の沿道にはおみやげ屋と食べ物屋が並ぶ。

 

境内を取り囲む築地塀。土の塀は杉材の焼き板を古土に混合した粘性土を下から押さえて塗り固めたもので、コンクリートよりも強固と言われる。

 

 

南大門から参道を振り返る。

 

 

南大門【国宝】  西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代永享10年(1438)に当時の西大門を移築したもの。入母屋造りだが建築当初は切妻屋根であった。屋根の形状は反り返り軒反りという古代中国から伝わった建築技法。

 

 

12本の柱で支える八脚門で、基壇の上に設けられ仁王像の無い門である。

 

 

門の柱にも年の古さが見える。

 

 

南大門をとおして中門を見る。(写真はyoutubeより引用)。

 

 

中門の前にある手水舎。

 

 

肝心の中門は平成30年(2018)から約1年間の改修工事でシートにすっぽり覆われている。

 

中門【国宝】    入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑像金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため補修が甚だしく、吽形像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されない。 (写真はyoutubeから引用)。

 

 

 

 

金剛力士像【国重要文化財】 仁王像は現存最古の仁王像で、向かって右の明るい塗装の像は「阿行像」、左の黒い塗装の像は「吽行像」。明るい像は光を、黒い像は影を表している。天平年代(711~)から二体ともこの中門に置かれたという記録がある。

 

 

屋根の妻側

 

 

金堂・五重塔は南に中門を配し北に講堂を設けた回廊で囲まれる。拝観者は廻廊の西南隅から入る。

 

 

拝観者入り口から入りと、目前に五重塔と金堂が現れる。

 

 

 

 

五重塔【国宝】  創建年は飛鳥時代の推古天皇13年~15年(606~607)頃と推計され、木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、総高さは32.55mの塔。うち相輪は9.69m、基壇1.11mであり、塔身22.87mである。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色。つまり初層の屋根から順に上に行くにしたがって50㎝~60㎝ほど小さくなっているのだ。

 

 

五重の屋根の一辺は初重屋根からだんだん小さくなり約半分ほどである。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目が二間となっている。

 

 

 

 

初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。心礎(心柱の礎石)は、地下3mほど彫り下げられ個所に心礎(新柱の基礎となる疎石)がある。

 

 

 

 

 

五重塔と金堂が建ち並ぶ姿が法隆寺のベストショットポイントなのだが、素人写真ではこの程度。

 

 

金堂【国宝】 入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。

金堂の創建は、推古天皇元年(593)~和銅2年(709)の飛鳥時代と推定される。外観は2階建てに見えるが、中は1、2階分吹き抜けとなっている。一層の屋根の下に付けられた裳腰は、風雨から構造物を保護するために付けられたもの。構造は簡素であるが、建物を多層に見せることで外観の優美さを際立たてて見せる効果がある。

 

 

金堂の基礎部分は二段にした二重基壇であり、中国建築様式を取り入れた飛鳥時代建物の特徴。

 

 

 

金堂の壁画【国重要文化財】 日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、昭和24年(1949)に壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。

 

釈迦三尊像【国宝】 推古天皇31年(623)に、止利仏師の作で光背銘を有する像。日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイック・スマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。(写真は法隆寺HPから引用)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2層目の高欄の格子は卍崩しと言われる。高蘭を支える束に人の地を模した人字型割束を用いた。

 

二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため。修理の際に付加されたものである。四方の軒にそれぞれあり、昇龍の彫刻が2本、降龍の彫刻が2本。

 

大講堂【国宝】  桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925)に焼失し、正暦元年(990)に再建された。平安時代に作られた薬師三尊像(国宝)と四天王像(国重要文化財)を安置する。

 

法隆寺における学問の研鑽を行う中心的な道場となってる。伽藍には概ね講堂が設けられ、金堂の後ろに配置される。

桂昌院灯籠  大講堂の中央前に建つ青銅製の灯籠。元禄7年(1694)、金堂や五重塔を解体し元禄大修理をおこなった。その費用を得るため、江戸で出開帳を勧進。五代将軍綱吉とその母桂昌院の上覧を受けた。その際に桂昌院から金400両、灯籠代として金50両、その他米200表などの寄進を受け、翌年も金300両の寄進を受けた。こうして元禄の大修理の工事代の大部分を桂昌院が負担し、その際に作られた灯籠。

 

 

 

 

 

大講堂の外陣を見る。 外陣および廊下は金堂、五重塔を囲む伽藍の回廊に繋がる。

 

 

大講堂から見た五重塔と金堂。回廊から眺める五重塔や金堂は、軒による直射日光を避け同じものをみても異なる光景を見ることができる。

 

回廊【国宝】 伽藍を巡る回廊。法隆寺の中門の左右から五重塔と金堂を囲む回廊。東回廊の長さは約76m、西回廊の長さは約72mと異なるのは、金堂と五重塔との釣り合いからと考えられる。回廊の柱はシンプルだが、柱はエンタシス柱といわれて、3分の1くらいのところが一番太くなっており、上の部分と下の部分を徐々に細くなる。

 

 

柱の対面は連子窓を等間隔に配置し、回廊の隅々まで太陽の光を差し込ませる。

 

 

金堂と五重の塔の伽藍をでて法隆寺の境内。

聖霊院【国宝】 創建は鎌倉後期の弘安7年(1284) 正面一間通り庇付、向拝一間、檜皮葺。保安2年(1121)に東室の南端六間分を仏堂に改造して聖徳太子像を祀ったが、弘安7年(1284)独立の仏堂として全面的に建て替えられた。内部は前二間を外陣(礼堂)、後方を内陣、脇陣、後陣に区画し、全面を拭板敷とする。仏堂ではあるが、平面形式や外観は、寝殿造を彷彿させるものがあり、当時の住宅を知るうえでも貴重な建築だといわれる。

 

綱封蔵(こうふうぞう)【国宝】 食堂・細殿の西南方、妻室の東に隣接して建つ南北棟の高床の倉である。部材の材質や手法から、建立年代は平安時代中ごろと推定される。自然石の礎石上に太い丸柱を立てた造り。

 

平面は桁行九間、梁間三間を方三間ずつ三区に分け、南北両区を倉にして中央部は吹抜け。高床造で葛石をめぐらした低い土壇上に建つ。中央の吹抜け部分に向かって扉を開く形式こそ本来の双倉の姿の例。

 

大宝蔵院 法隆寺の多数の堂宇のなかで最も新しくできたもので、境内の一番北寄りにある。平成10年(1998)に落成し、堂宇というより博物館。仏像をはじめ厨子や舞楽面などの工芸品を含む寺宝が多数展示されている。

 

 

大宝蔵院の中門。

 

 

中庭を挟み正面に百済観音堂。

(安置されている宝物から)

観音菩薩立像【国宝】 通称「百済観音」とも言われ、 飛鳥時代に作られた木造の像。元は金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。(写真はネットから引用)

 

 

正面に百済観音堂を正面に西側に西宝蔵、東側に東宝蔵。

 

 

大宝蔵院から見た五重塔と金堂。

 

 

西院伽藍と東院伽藍を結ぶ通りと築地塀を見る。

 

 

 

 

 

こちらは西門。

 

 

西門から西院伽藍の通りを見る。

 

 

こちらは東門側

 

 

法隆寺塔頭の築地塀。

 

 

 

 

 

東大門【国宝】 奈良時代の八脚門。

 

 

東大門の先に夢殿がある東院伽藍。

 

 

 

 

 

西院の東端に立つ西院伽藍を案内する道標。正面(南面)には「西院大伽藍 是ヨリ西三町」と刻まれている。

 

 

西院伽藍の塀。

 

四脚門【国重要文化財】 東院伽藍の入り口。 東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。天平11年(739)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧の行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。

 

 

東院伽藍の入り口を内側から見る。

 

 

手水舎。

 

回廊【国宝】  夢殿を囲む回廊で、南辺に礼堂 、北辺に舎利殿 及び絵殿 が建つ。礼堂の東から発して北に折り曲り舎利殿に至る延長22間の東廻廊と、礼堂の西から発して北に折曲り絵殿に至る延長21間の西廻廊から成り、東院伽藍を構成する。

 

夢殿【国宝】   奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739)頃の建築と考えられているが、天平9年(737)の記述もあり、その頃に創立された可能性もある。

奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根形状は鎌倉時代のものとした。基壇は二重で、最大径が11.3m。堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つ「内転び」で唐渡来の手法である

 

救世観音像【国宝】  飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

絵殿【国重要文化財】  鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国の絵師である秦致貞が延久3年(1069)に描いた「聖徳太子絵伝」(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品で明治11年(1878)に皇室に献上。現在は東京国立博物館の所蔵となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東院鐘楼【国宝】。鎌倉時代に建立された。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー日本最初の本格的な仏教寺院である飛鳥寺に続いて、聖徳太子によって創建されたのが、法隆寺と大阪の四天王寺である。以後、短い期間に日本国内には寺院が次々と出現する。それはもちろん、仏教の普及に勤めた聖徳太子の功績だった。こうして日本に仏教が根づいていく。ただし、前述したように現在の法隆寺に創建当時の伽藍ではなく、再建されたものだとされている。明治三十年代から学者のあいだでは、再建・非再建論争が起こっていた。その論争はじつに三十年以上もつづいたという。ついに昭和十四年(1939)、若草伽藍の発掘調査によって、いまの法隆寺とは違う配置の伽藍の焼け跡が見つかった。その発見で論争にケリが付き、現在では、若草伽藍跡が斑鳩寺(最初の法隆寺)だった、という説が一応の定説になっている。つまり、いまの法隆寺の伽藍は、聖徳太子の死後に再建されたものだということになる。その再建後の法隆寺の当初のすがたを残しているのは、金堂、五重塔、中門、回廊、それ以外の大講堂、南大門などは、平安時代から室町時代に建立されたものだ。ただし、平成13年(2001)に五重塔の心柱の檜が五九四年に伐採されたものだとわかり、謎はますます深まった。これは、太子がまだ二十歳のころである。おそらく、法隆寺の建立の謎をめぐっては、今後もさまざまな議論がつづけられていくだろう。

 

 

 

御朱印

 

 

法隆寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 


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