百寺巡礼第9番 當麻寺
浄土への思いが募る不思議な寺
開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。奈良時代から平安時代初期に建立された二つの三重塔があり、近世以前建立した東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。
中将姫の当麻曼荼羅の伝説で知られる當麻寺は、二上山の麓に位置し、奈良盆地の西端、大阪府に接し、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、雄岳、雌岳という二つの頂上をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山と相対する位置にある。二上山は、大和国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
参拝日 令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り
所在地 奈良県葛城市当麻1263 山 号 二上山 宗 派 真言宗 浄土宗 本 尊 當麻曼荼羅 創建年 伝・推古天皇20年(612) 開 基 伝・麻呂古王 札所等 新西国三十三個所第11番 ほか 文化財 東塔、西塔、曼荼羅堂、塑像弥勒仏坐像ほか(国宝)金堂、乾漆四天王立像、
木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
近鉄南大阪線当麻寺駅から900mほど参道を歩いて當麻寺の東大門に。
東大門の前。
中の坊、奥の院を含む當麻寺境内図
當麻寺境内図。
仁王門(東大門)。
金剛力士の吽形像。
右側の金剛力士阿形像はただ今修理中で留守。
仁王門の処から境内を見る。二上山(にじょうさん)の山並みは雲がかかりほとんど見えない。
鐘楼。 境内に入りすぐ左側に建つ。
梵鐘【国宝】 白鳳時代(680年代)に作られたもので無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される。當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない。
本堂(曼荼羅堂)【国宝】 金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。平安時代の末期に建立された。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5mの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。
昭和32年(1957)から昭和35年(1960)にかけて実施された解体修理時、棟木に永暦2年(1161)の墨書が発見され、奈良時代の建物の部材が転用されていることが明らかとなった。その後、平安時代初期頃に桁行7間、梁間4間、寄棟造の堂に改造された。この時点では屋根は瓦葺きではなく檜皮葺きか板葺きであった。現存する本堂内の厨子の製作もこの頃とみられることから、当麻曼荼羅を安置するためのものであったと推定される。その後、この堂の前面に孫庇が付加され、永暦2年に現在のような桁行7間、梁間6間の仏堂となったものである。
向拝の上部。
本堂の広縁。
来迎阿弥陀如来立像
十一面観音菩薩立像【国重要文化財】
當麻曼陀羅【国重要文化財】 当麻曼荼羅の原本は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に所蔵されており、昭和36年(1961)に「綴織当麻曼荼羅図」の名称で工芸品部門の国宝に指定された。現状は掛幅装で、画面寸法は394.8x396.8Cm である。曼荼羅の由来を記した銘文があり、その中に「天平宝字七年」(763)の年号があったというので、この年の制作と思われる。当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。
須弥壇【国宝】 8世紀末から9世紀初頭の作。須弥壇は鎌倉時代に源頼朝から寄進されたもので、須弥壇には源の文字が見て取れるが、写真ではよく判らない。本堂(曼荼羅堂)内陣には高欄付の須弥壇を構え、その上に高さ501センチメートルの大型厨子を置く。厨子は仏像ではなく当麻曼荼羅を安置するためのものであるため、高さの割に奥行が浅く、平面形は扁平な六角形をなす。須弥壇は螺鈿や木目塗で仕上げられたもの。
石灯籠【国重要文化財】。 日本最古の石燈籠 、奈良時代前期、凝灰岩、高さ 227Cm。
金堂【国重要文化財】 鎌倉時代の再建。入母屋造、本瓦葺。桁行5間、梁間4間。組物は二手先、中備(なかぞなえ)を間斗束(けんとづか)とする。屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。内部は土間で、中心の桁行3間、梁間2間を内陣とする。内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。内陣正面向かって左の柱に文永5年(1268年)の田地寄進銘が墨書されており(墨書の跡に字形が浮き出ている)、これより以前、鎌倉時代前期の寿永3年(1184)の再建と推定される。
堂は乱石積の高い基壇上に建つが、堂の規模に比して基壇が高いのは、長年の間に地盤が削られたために、かさ上げをしたためである。
講堂【国重要文化財】 金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間4間。組物は平三斗、中備を間斗束とする。野垂木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建であることが知られる。屋根は金堂と同様、元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。堂内は梁行4間のうち中央の2間分に板床を張り、本尊阿弥陀如来坐像、もう1体の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像(以上国重要文化財)のほか、多くの仏像を安置する。床下に焼土層が認められ、治承4年(1181年)平家の兵火により焼失したことがわかる。
本堂から仁王門の方向を見る。右に金堂、左に講堂。
東塔と西塔の案内板。
當麻寺の東塔と西塔二つの塔。
枝垂れ桜が似合う寺。
東塔への参道。
東塔【国宝】 総高(相輪含む)は24.4mの三重塔。細部の様式等から、奈良時代末期の建築と推定される。
初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする。日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例である。日本の古塔で二重目の柱間を3間でなく2間とするのは當麻寺東塔のみである。
塔は檜の木で作られている。
屋根上の相輪には、一般の塔では「九輪」という9つの輪状の部材があるが、この塔は八輪になっている。さらに、相輪上部の水煙(すいえん)が、他に例をみない魚骨状のデザインになるなど、異例の点が多い塔である。なお、水煙は創建当初のものかどうか定かでない。初重内部には床を張るが、当初のものではない。
西塔【国宝】 三重塔で、総高は東塔よりやや高い25.2m。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される。西塔は、高さ以外にも東塔とは異なる点が多い。柱間は初重から三重まで3間とする。
西塔は欅の木材で造られた。角層とも軒の出が深く、三手先組の肘木や軒支輪が軽快で、屋根裏や軒先を眺める価値が十分。
屋根上の相輪が八輪になっている点は東塔同様だが、水煙のデザインは未敷蓮華(みふれんげ)をあしらったもので、東塔のそれとは異なっている。
桜が咲き始めたころで枝垂れ桜が壮観な姿を見せてくれた。
當麻寺奥院
當麻寺には中之坊、護念院、西南院、奥院などの塔頭がある。その中で最大の塔頭が奥院である。 浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の「奥之院」として応安3年(1370)に建立された。知恩院の12代目の住職の誓阿普観上人が奥院を開山。当時、京都は南北朝分裂後の混乱で常に戦火の危険性に満ちていた。法然上人の夢告を得た誓阿普観上人は後光厳天皇の勅許を得て、知恩院本尊として安置されていた法然上人像(国重要文化財)を撰択本願念仏宗(国重要文化財)や法然上人所縁の宝物とともに、當麻寺へと遷座し、今の奥院となる往生院を建立した。以来、知恩院の住職が極楽往生を遂げる地として住職5代に亘り當麻寺奥院へ隠遁し、法然上人像を守る。知恩院と対をなす奥院は浄土宗の大和本山として念仏流通と僧侶育成の道場となり、また当麻曼荼羅を日本全国に広める役割も果たし、多くの人々の信仰を集め、今日まで護持継承されて来た名刹。奥院と名称が付いた時期については定かでないが、延宝9年(1681)頃にはすでに奥院と称されていた。奥院境内の建造物については、本堂・阿弥陀堂・方丈・庫裏・楼門があげられている。現在は、これら以外に宝物館が加わっている。現在の奥院本堂は、創建時のものではなく、慶長9年(1604)に建てられたものであることが本堂の棟木墨書銘によって知られる
當麻寺奥の院楼門。 寺の路地裏からの入り口のような参道はいまは使われていない。不思議な楼門。
黒門。 こちらに薬医門があり、左側に門を守る兵士の像。 弁柄色の築地塀に黒い薬医門そして兵士蔵と奇妙な取り合わせ。
参道。
桜の花が咲く下に小さな堂。
奥院の伽藍。 浄土宗の子院。応安3年(1370)知恩院12世の誓阿普観が知恩院の本尊であった法然上人像(重要文化財)を遷座し、本尊として創建したもので、当初は往生院と称した。当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された。宗教法人としての名称も「奥院」である。誓阿が知恩院から移したとされる円光大師(法然)像を本尊とし、知恩院所蔵の四十八巻伝の副本とされる『法然上人絵伝』48巻(重要文化財)を所蔵する。
御影堂。 桃山時代に建てられた本堂は御影堂と呼ばれ、中には円光大師法然上人坐像 (通常は非公開)や宝冠阿弥陀如来像などが安置されている。
御影堂の扁額「知恩教院 最初本尊」の文字。
樋受けには葵の御紋が描かれている。
阿弥陀堂。 御影堂の横にあるのが阿弥陀堂。阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と念仏を称え往生極楽を願う人を分け隔て無く極楽浄土に救い取ってくれる仏。浄土宗の本尊でもある。
庫裡(寺務所)の堂宇。正面の玄関脇の丸窓、屋根の獅子口、破風の燕懸魚や蟇股が印象的。
寺務所から弁柄色の塀伝いに大方丈へ。 弁柄色が強烈。
寺務所および大方丈の正玄関。 3つの千鳥破風と唐破風が重なる正玄関。石燈籠は天和3年(1683)に建立された。
大方丈(書院)。弁柄色の色の築地塀に囲まれている。黒縁の宝珠形の門が設けられているが、庭を見る窓のようだ。
二河白道の庭。 大方丈の庭。念仏信者の極楽浄土に対する信仰心を譬えた「二河白道(にがびゃくどう)」を冠した庭。二上山で古代より産出される金剛砂を火の川、白砂を水の川に用いている珍しい庭園。作庭家は足立美術館の日本庭園を創りあげ「昭和の小堀遠州」と称えられた中根金作師。
大方丈【国重要文化財】 桁行六間、梁間五間半の寄棟造で、12畳敷の間が上・中・下の三間、6畳敷の間が同じく三間ある。方丈とは住職の居所のことをいう。奥院には明治大正期まで、「大方丈」と「小方丈」の二つの方丈があったが、現在は大方丈のみが現存。大方丈の棟札には慶長17年(1612)との記載があり、同年に建立であることがわかった。平成30年(2018)、日本画の巨匠 上村淳之画伯によって當麻寺奥院「大方丈」に奉納された「花鳥浄土」。30枚60面からなる大作は、大方丈の六室に趣の異なる花と鳥の浄土世界を表現している。 (写真は當麻寺HPより)
金碧画。 12畳上之間の床の間には狩野派の筆によって玄宗皇帝・楊貴妃の物語が金碧画で描かれ、6畳上之間には水墨画が描かれてる。明治期までは六間全ての襖が金碧画で仕上げられていたといい、大方丈は「金の間」と呼ばれていたが、明治の廃仏毀釈から太平洋戦争の混乱期に散逸してしまった。(写真は當麻寺HPより)
二河白道(にがびゃくどう)とは、浄土教における極楽往生を願う信心の譬喩で、「火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、この間にある白い道は極楽に通じる道で、往生を願う信心にたとえる」。
本堂の回廊から大方丈を見る。
本堂の回廊から庭園側を見る。
楼門【国重要文化財】 入母屋造本瓦葺。江戸時代初期の建立。
楼門方向の境内。
まさに花盛り枝垂れ桜。
楼門(重要文化財)から西へ進むと、石彫"くりから龍"を中心に現世を表現した渓流を右手に眺め、スロープをゆっくり上がっていくと浄土の世界が目前に広がる。
牡丹の寺。 奥院は牡丹の寺としても知られ、奥院五十七代観誉察聞上人が当院大方丈仏間の絵天井に牡丹の絵が画かれてあるのに由来して庭園に多くの牡丹を植樹し、仏前に御供したのがぼたん園の始まり。 3月下旬にボタンが咲き、桜と牡丹の競演が見られる。
巨石と自然に溢れる庭園。 浄土庭園の巨石は「太閤石」という石で、昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めた。浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたもので、由布岳の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用している。
阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並び、阿弥陀仏の姿を写す極楽の池"宝池"がある。ニ上山を背景に當麻の自然を存分に取り入れた浄土庭園。
宝池。 池の先に阿弥陀堂。
本堂の脇から西塔を眺める。
奥院への正面参道。 帰りはこちらを下る。
案内図。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー基本的に源信の信仰とは、阿弥陀如来を信じて念仏することによって、人は臨終をとげるときに浄土に往生することができる、ということだ。こばれるの信仰をそのまま形にしているのが、曼荼羅の横にある「来迎の弥陀」と呼ばれる檜材の寄木造りの立像である。じつは、この像は非常に軽く、中が空洞になっている。ちょうどひとり人間が中にはいれるような大きさだ。そのため、昔は、自分の寿命は長くない、と死を覚悟した人が内部に入って、即身成仏したといわれる。いま、自分は弥陀の胎内にはいって体となった、と感じることは、その人にとって、苦しみよりもエクスタシーとさえいえるかもしれない。現代医療では、死んでいく人に対して、さまざまな薬や装置を使って延命が行われる。しかし、こんなふうに像のなかにはいって、いっさい延命措置をせず三日くらい飲まず食わずでいればどうだろう。おそらく枯れるように死んでいくだろう。こういう形での来迎が本当になされたのか、学術的な裏づけがあるのかどうか私にはわからない。しかし、この當麻寺だけに、その話が信じられる。そして、そういうめずらしい、特異な伝承がずっと伝えられてきた背景には、人びとの浄土への憧れや往生を願うことがあった。それがいかに強いものであったかを、あらためて感じないではいられない。
御朱印
當麻寺 終了
(ブログ)何気ない風景ひとり言
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