百寺巡礼第8番 飛鳥寺
日本で最初の宗教戦争の舞台裏
今年になって3回目の関西めぐりである。 全国旅行支援にお世話になり、いい機会と思い集中的に関西の名刹を巡ることとした。今回の飛鳥寺で、五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊)に掲載された10寺は、すべて参拝をし終えることができた。
こんなに小さな寺なのか、というのが最初の印象だった。時代は千四百年前にさかのぼる。日本がようやく統一国家に向けて歩みだしたころ、ここ飛鳥の地に、本格的な仏教寺院がはじめて建立された。創建当時は、「法興寺」という名前の寺で、現在の二十倍の寺域の壮麗な寺だったらしい。その法興寺の後身が飛鳥寺(安居院)である。しかし、その後この寺はさびれていく。伽藍はなんどかの火災や落雷によって失われた。江戸時代後期にようやく小さな堂宇が再建され、今はその中に日本最古の仏像が残るのみだという。なにかこみ上げてくる感慨があった。(五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良より)。
現在の飛鳥寺の正式名は安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。飛鳥寺の伽藍については、昭和31年(1956)から2年かけた発掘調査の結果、中心が五重塔で、塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。
霊亀2年(716)に都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良に移転し元興寺(当ブログNO37参照)となった。
以降あまりの歴史は定かではない。『元興寺安居院縁起』には、江戸時代の寛永9年(1632)に、現在の橿原市(今井)の篤志家によって仮堂が建てられ、ついで天和元年(1681)に僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、傷んだ釈迦如来像を補修したとある。江戸時代中期の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。しかし、近世中頃から名所記や地誌に名が挙げられ、延享2年(1745)には梵鐘を鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、寛政4年(1792)に参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑、文政9年(1826)に大阪の篤志家の援助で現本堂の再建など法灯を守る努力が重ねられてきた。
参拝日 令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り
所在地 奈良県高市郡明日香村飛鳥682 山 号 鳥形山 宗 派 真言宗豊山派 本 尊 釈迦如来(飛鳥大仏)(国重要文化財) 創建年 6世紀ごろ 開 基 蘇我馬子 正式名 鳥形山安居院 別 称 法興寺 元興寺 札所等 新西国三十三箇所第9番 ほか 文化財 銅造釈迦如来坐像(国重要文化財)、飛鳥寺跡(国の史跡)
飛鳥大仏前バス停付近。 橿原駅前からバスに乗りここで下車。
バス停付近から見た飛鳥寺と、後の小高い山は国営飛鳥歴史公園。
山門。 右に潜り戸のある切妻本瓦の門。 飛鳥大仏の石碑は、寛政4年(1792)に建てられた。法興寺が創建された際の礎石が台石として使用されている。
平成20年(2008)に飛鳥大仏開眼1400年目の立て札。
境内に入り山門を見る。
境内の様子。
塀の手前には焼失した塔の礎石が残されている。
万葉池。
本堂。 寄棟造本瓦葺で、正面に向拝のない簡素な造り。
虹梁中備の蟇股。連子窓や格子張りの板唐戸は和様式。
本堂前に並ぶ3個の礎石は日本最初の金堂のものが残されている。
本堂への入り口。
本堂の内部。
大仏の右隣りに阿弥陀如来坐像(木造、藤原時代)。
釈迦如来坐像【国重要文化財】。 609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像である。ただし、平安・鎌倉時代の火災で全身罹災し、罹災した部分の補修がされ、現在は、顔面や右手の中指・薬指・人差指などだけが残されている。
像高272cmで、制作時造像に銅15t、黄金30kgが使われた。仏像は、一般的に、立像の場合は一丈六尺(4.8m)で丈六と呼び、坐像の場合は八尺(2.5m)以上の仏像のことを「大仏」と呼ぶ。飛鳥寺の丈六仏は像高が272㎝の坐像で八尺を超えているので「飛鳥大仏」と呼ぶようになった。
正面から見ると、少々不格好な仏像に見えるので角度を変えて撮ってみた。また、正面からの顔が少し斜め向きなのは、聖徳太子が誕生したと言われる橘寺の方を向いているからといわれる。
聖徳太子孝養像(木造 室町時代)。 大仏の左側に安置され、聖徳太子が十六才のとき、父用明天皇の病気回復を祈願されている姿といわれる。
本堂内部の蟇股。
胎蔵界曼荼羅。 大日如来を中央に描く蓮の花を中心に、同心円状に院を配した曼荼羅で、大日如来の慈悲が放射状に伝わり、教えが実践されていくさまを表している。
中庭越しに見る右・本堂、左・庫裡。
創建当時の瓦。『日本書紀』や『元興寺資材帳』からは、崇峻天皇元年(588)、百済から四種の技術分野の八名の技術者が渡来したことが知られる。彼らが渡来してから建築用材調達が行われる同三年(591)までに造営技術者や工人の養育養成が行われ、造瓦分野においては須恵器の青海波紋作りに用いる当て道具の使用痕跡が認められることから、須恵器作りの工人が動員されていると考えられている。
これはなに?
思惟殿。 新西国三十三箇所第9番札所で聖観音を祀る。
脇の軒下には絵馬。
鐘楼。
西門。
西門方向から飛鳥寺を見る。
蘇我入鹿の首塚。 飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔。 大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者・蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれる。
飛鳥寺から見渡す明日香村の景色。
国営飛鳥歴史公園のある小高い丘。
飛鳥寺近くの明日香村飛鳥の街並み。
案内図。 青線は橿原駅からのバスルート(1時間に1便)。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー飛ぶ鳥と書いて「あすか」。この言葉はもとは、「あすか(明日香)にかかる枕詞だった。「飛ぶ鳥の明日香」という言葉は、『古事記』や『万葉集』にも登場する。いまは「飛鳥」と「明日香」の両方の表記が使いわけられていて、飛鳥寺があるこの場所は、奈良県高市郡明日香村飛鳥である。飛鳥の里は、畝傍山、耳成山、天香具山の大和三山に囲まれた狭い場所だ。この人口七千人足らずの小さな村が、六世紀半から七世紀にかけての日本の中心だったととういことは、いま感覚ではちょっと信じがたい。しかし、短い時間であったものの、かってはこの地に飛鳥板蓋宮や飛鳥浄御原宮などがあった。これは歴史的事実である。飛鳥寺の西側にある甘樫丘にのぼると、大和三山のほかに、三輪山、金剛、葛城、二上の山々も見渡せる。飛鳥がいかに狭い場所であるかが実感できる。この地方には坂舟石、亀石、石舞台といった不思議な石の遺跡がいくつも遺されている。なかでも石舞台は、巨大な花崗岩を組みあげてつくられていて、最大の石は七十数トンの重さがあるという。これは蘇我馬子の墓だと推定されている。古代日本で、七十トン以上の巨大な石を運んできて組みあげるためには、何千、いや何万という途方もない人員を要したはずだ。すでに飛鳥時代には、皇室であれ、蘇我氏であれ、それだけの大工事を可能にする強大な権力が、この地に存在していたことになる。また、それだけの技術が、存在したという事実にも驚かされる。極東の小さな島国である日本、そこに閉ざされて生きいた人びとが、六世紀から七世紀という時代に、こうした文化をもつ、やがて、この国ではまだ誰も見たことがないような大きな寺をきずくことになる。
御朱印。
飛鳥寺 終了
ほかに、ブログをいくつか参照
(後記) この明日香村への訪問は、飛鳥寺と岡寺のそれぞれ1時間程度、バスの時間を気にしながらの参拝で、この村にある日本の始まりの数々の歴史的建造物には全く触れないまま帰ってしまった。五木寛之著「百寺巡礼」の飛鳥寺をあらためて読んでみて、この明日香の里については、いつか必ず再訪しゆっくり時間をかけて巡ってみることを我が身に約束をした。
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