脳の研究をしていて、糸井重里さんと『海馬』という本を出したり、上大岡トメさんというイラストレーターと『のうだま』という本を出したりしている池谷裕二さんによると、やる気というのは自分から迎えに行くことでスイッチが入るのだそうです。やることで、ますますやる気が出る、そういう仕組みなのだそうです。
そんなことを頭の片隅に置いておいて、生活していると、気がつくことがあります。
たとえば、本。いま『失われた時をもとめて2ースワンの恋ー』を通勤電車で読んでいます。
そんなふうに考えて読んだことはなかったけれど、ちょっと考えてみると、学生時代や20代の頃、私は19世紀〜20世紀初頭の外国の小説やエッセーが好きでした。ところが、最近、なかなか読めないんです。昔の小説やエッセーが。いや、『高慢と偏見』や『ジェーン・エア』や『ハックルベリーフィンの冒険』や『肉体の悪魔』なんかは、ぐおっーと読めるのだけど(けっこう読めてるかも?)、少し前に『マルテの手記』を久しぶりに読もうと思って、途中で挫折した……。がーん。友人によると、リルケに夢中になるのは中学生でしょ、とのことでしたが……。
それで、マルセル・プルーストです。『失われた時をもとめて1ースワン家のほうへー』を読み終えてから、2と3を買っておいたのですが、我ながら、ほんとに読むかなぁ、と心配しておりました。なんとなく気分じゃない(まだまだまだまだ続くしね。なんと全14巻)。でもせっかく買ったのだから、と他の小説を何冊か読んだあとに、ようやく『失われた時をもとめて2』を読み始めました。が、遅々として進まず。通勤電車では椅子取りに励んで爆睡するか、ぼーっとしているかで、なかなかページを開くことがありません。それでもいつもバッグに入っていて、重い思いして、ばかだなぁ。
やっぱり、時代かなぁ、時代が違うんだ。現代は忙しい。昔、小説を読んでいた人々がしていたような優雅なのんびりした暮らし、していないから、こんな繊細な描写、せかせかせこせこ暮らしている私たちには、楽しめないよ、などと、思ったりしていたのです。
ですが最近、少々、自分がぐらついていたときに、ふと、そうだ、いろんな本をつまみ食いして枕元に積み上げたりしないで、ちゃんと一冊ずつ読もう!と思って、再びプルーストに取りかかることにしました。
するとこれが、やはりなかなかおもしろいのです。きっとおもしろくないよなぁ、と思って斜めに読んでいると、おもしろくない。本の両肩をむんずと掴んで、読むぞ、と思ってしっかり向き合うと、おもしろくなるみたい(とは言っても、比喩がしつこいのは苦手)。今朝など、下車すべき駅を乗り越してしまった。スワンの恋ってなんなんだろう、などと考えながら読んでいたら。オデットにはそれほど魅力を感じてない、と、とても冷静にスワンは自分でわかっているのに、ぞっこん惚れ込んでいるかのようになったりする。こんなこと、あり得る?恋に落ちているのか、この状態は?などと考えていたら。
あ、これ、なんでもそうかも。自分が注意を向けることで、向こうも応えてくれる。向ければ向けるほど応えてくれる。恋もきっと同じ。恋人ではなく恋そのものについて。自分が薪をくべているんだ。
ここで突然、話が大きく跳ぶのですが。
昔、少し夢を研究しようと思ったことがありました。なんて。大げさ。ただ夢のことを、少し知りたいと思って本を読んだだけなのですけどね。それで、鑪 幹八郎(自分の中で勝手にカガミ カンパチロウさんと読んでいましたが、正しくはタタラ ミキハチロウ先生です。勝手に昔の方のように思っていましたが、というのも自分が読んだのがだいぶ前だったし、その時点でもすでに昔の本だったから。でもいまネットで調べたらまだご存命のようですね、小さく感激です!)という心理学の先生の『夢分析入門』『夢分析の実際』という本を買いました。そこで書かれている鑪先生の夢に対する姿勢や思いが、私にはとてもしっくりしました。そうか、夢ってそういうもの、ひいては他のいろんなことも、そうなのかもしれないな……と、その本を読んで感じたことがずっと心に残っています。
先生は、まるで夢が心を通い合わせられる存在であるかのように書きます。夢に関心をもちはじめると夢が向こうからやってくる、とか、たまにとか淡くしか夢を見ない場合には、夢に語りかけてみよう、とか。注意を向けたり記録をしたりすることで、「私達の精神が意識できる範囲での現実生活よりもはるかに敏感で、広く、深い経験をしている」ことを夢が教えてくれるのだそうです。
意識を向けることで、夢が、応えてくれる。そういうこと、なんとなくわかる気がしませんか?だから、羨ましいことになんでもすぐに夢中になれる人はいいけれど、そうではなく、いつも手を出したり引っ込めたり懐疑的になってしまう私のような人間は、このことを意識するのはとても大事なことだと思うのです。やる気が出なくて、詩?興味ない、と思うと、本当につまらない。でも、おもしろいと思うとおもしろさがどんどん深まる、気がする。私は怠け者だから、きっと根気よくつきあわないとだめなのでしょう。
そう考えると、なんだか恐ろしい気もする。
大切なものが、恣意的だなんて。自分で大事だと思って大事にすれば大事になるし、ますますなるし、そんなのどうでもいいよ、と思えば、どうでもいいものになってしまう。
だから少しでも興味のあることを、なおざりにせずに大切にしなくては。大切な人を、大切にしなくては。意識を向けて、大切に扱えば、深くなる。豊かになる。
ああ、なんか、がんばろう。もっとマメな人間になろう。興味を持とう。好きになろう。自分の人生をもっと好きになろう。
先輩の一周忌、お墓参りをしようと広島へ。宮島へも。すると宮島を取り上げた番組をやたらと目にするようになる。
☆池谷裕二 糸井重里『海馬』 新潮文庫
☆上大岡トメ 池谷裕二 『のうだま』 幻冬社文庫
☆プルースト作 古川一義訳 『失われた時を求めて』 岩波文庫
☆鑪幹八郎 『夢分析入門』『夢分析の実際』 創元社
そんなことを頭の片隅に置いておいて、生活していると、気がつくことがあります。
たとえば、本。いま『失われた時をもとめて2ースワンの恋ー』を通勤電車で読んでいます。
そんなふうに考えて読んだことはなかったけれど、ちょっと考えてみると、学生時代や20代の頃、私は19世紀〜20世紀初頭の外国の小説やエッセーが好きでした。ところが、最近、なかなか読めないんです。昔の小説やエッセーが。いや、『高慢と偏見』や『ジェーン・エア』や『ハックルベリーフィンの冒険』や『肉体の悪魔』なんかは、ぐおっーと読めるのだけど(けっこう読めてるかも?)、少し前に『マルテの手記』を久しぶりに読もうと思って、途中で挫折した……。がーん。友人によると、リルケに夢中になるのは中学生でしょ、とのことでしたが……。
それで、マルセル・プルーストです。『失われた時をもとめて1ースワン家のほうへー』を読み終えてから、2と3を買っておいたのですが、我ながら、ほんとに読むかなぁ、と心配しておりました。なんとなく気分じゃない(まだまだまだまだ続くしね。なんと全14巻)。でもせっかく買ったのだから、と他の小説を何冊か読んだあとに、ようやく『失われた時をもとめて2』を読み始めました。が、遅々として進まず。通勤電車では椅子取りに励んで爆睡するか、ぼーっとしているかで、なかなかページを開くことがありません。それでもいつもバッグに入っていて、重い思いして、ばかだなぁ。
やっぱり、時代かなぁ、時代が違うんだ。現代は忙しい。昔、小説を読んでいた人々がしていたような優雅なのんびりした暮らし、していないから、こんな繊細な描写、せかせかせこせこ暮らしている私たちには、楽しめないよ、などと、思ったりしていたのです。
ですが最近、少々、自分がぐらついていたときに、ふと、そうだ、いろんな本をつまみ食いして枕元に積み上げたりしないで、ちゃんと一冊ずつ読もう!と思って、再びプルーストに取りかかることにしました。
するとこれが、やはりなかなかおもしろいのです。きっとおもしろくないよなぁ、と思って斜めに読んでいると、おもしろくない。本の両肩をむんずと掴んで、読むぞ、と思ってしっかり向き合うと、おもしろくなるみたい(とは言っても、比喩がしつこいのは苦手)。今朝など、下車すべき駅を乗り越してしまった。スワンの恋ってなんなんだろう、などと考えながら読んでいたら。オデットにはそれほど魅力を感じてない、と、とても冷静にスワンは自分でわかっているのに、ぞっこん惚れ込んでいるかのようになったりする。こんなこと、あり得る?恋に落ちているのか、この状態は?などと考えていたら。
あ、これ、なんでもそうかも。自分が注意を向けることで、向こうも応えてくれる。向ければ向けるほど応えてくれる。恋もきっと同じ。恋人ではなく恋そのものについて。自分が薪をくべているんだ。
ここで突然、話が大きく跳ぶのですが。
昔、少し夢を研究しようと思ったことがありました。なんて。大げさ。ただ夢のことを、少し知りたいと思って本を読んだだけなのですけどね。それで、鑪 幹八郎(自分の中で勝手にカガミ カンパチロウさんと読んでいましたが、正しくはタタラ ミキハチロウ先生です。勝手に昔の方のように思っていましたが、というのも自分が読んだのがだいぶ前だったし、その時点でもすでに昔の本だったから。でもいまネットで調べたらまだご存命のようですね、小さく感激です!)という心理学の先生の『夢分析入門』『夢分析の実際』という本を買いました。そこで書かれている鑪先生の夢に対する姿勢や思いが、私にはとてもしっくりしました。そうか、夢ってそういうもの、ひいては他のいろんなことも、そうなのかもしれないな……と、その本を読んで感じたことがずっと心に残っています。
先生は、まるで夢が心を通い合わせられる存在であるかのように書きます。夢に関心をもちはじめると夢が向こうからやってくる、とか、たまにとか淡くしか夢を見ない場合には、夢に語りかけてみよう、とか。注意を向けたり記録をしたりすることで、「私達の精神が意識できる範囲での現実生活よりもはるかに敏感で、広く、深い経験をしている」ことを夢が教えてくれるのだそうです。
意識を向けることで、夢が、応えてくれる。そういうこと、なんとなくわかる気がしませんか?だから、羨ましいことになんでもすぐに夢中になれる人はいいけれど、そうではなく、いつも手を出したり引っ込めたり懐疑的になってしまう私のような人間は、このことを意識するのはとても大事なことだと思うのです。やる気が出なくて、詩?興味ない、と思うと、本当につまらない。でも、おもしろいと思うとおもしろさがどんどん深まる、気がする。私は怠け者だから、きっと根気よくつきあわないとだめなのでしょう。
そう考えると、なんだか恐ろしい気もする。
大切なものが、恣意的だなんて。自分で大事だと思って大事にすれば大事になるし、ますますなるし、そんなのどうでもいいよ、と思えば、どうでもいいものになってしまう。
だから少しでも興味のあることを、なおざりにせずに大切にしなくては。大切な人を、大切にしなくては。意識を向けて、大切に扱えば、深くなる。豊かになる。
ああ、なんか、がんばろう。もっとマメな人間になろう。興味を持とう。好きになろう。自分の人生をもっと好きになろう。
先輩の一周忌、お墓参りをしようと広島へ。宮島へも。すると宮島を取り上げた番組をやたらと目にするようになる。
☆池谷裕二 糸井重里『海馬』 新潮文庫
☆上大岡トメ 池谷裕二 『のうだま』 幻冬社文庫
☆プルースト作 古川一義訳 『失われた時を求めて』 岩波文庫
☆鑪幹八郎 『夢分析入門』『夢分析の実際』 創元社
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