詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

とても個人的な謎の話

2016年10月25日 | 雑記
先日、「青森旅行1」に書いたとても個人的な謎について、今朝突然ひらめいたので備忘録的に書いておきます。

たとえば、船を安全に航行させるためにはどうしたらよいか、特に岸に近づいたとき、座礁しないようにするには?と考えてみると、まず船が通っても大丈夫な深さがあるのはどこか、いや、逆か、船が通ると危険なほど浅いところはどこか、調べてみよう、となる。そのためにどうやって水深を測るか、その方法について考えないといけない。

先日、ブラタモリの樹海編を見ていたら、番組でもよく活用している赤色立体地図が、実はすごいのだ、という話が出てきて(赤色立体地図を発明した方が登場!)、それをどうやって作るかというとまず、飛行機からレーザーを出して地上から反射して戻ってくるまでの時間差を計算して地形を計測する、と言っていたのを思い出しました。海の下の地形の測り方も同じやり方でできるのかな?水はレーザー光を通すのかな?と疑問に思うけれど、なぜかそこは調べない。すぐにわからないほうが次、その知識に出会ったときに、よりおもしろく、より良く吸収できるのでは?という、謎の倹約家?的感覚により、調べない(あ、せっかく謎を解明したのに、またひとつ謎を増やしてしまった!)。と言いながら、やっぱり通すのかな。そうでなければ地上の地形だって測れないだろうし……?

まあともかくそんなこんなで、船はここを通れば安全だよ、という場所がわかりました。わかったことにしておきましょう。その結果をもとに作った航路をみんなの船に示すため、ブイを使うことにしましょう、となる。

いま、「ブイ」でいいのかな?とふと思ってネット検索をしたら「浮標(ふひょう)」と出てきました。ですよねー。「ブイ」なんて書き方では、ぶたさんみたいだものね。恥ずかしながら「浮標」という言葉、初めて知った気がします(錘がなくて忘却の彼方に流れていってしまっただけかもしれないけれど)。あらためまして、「浮標」をネット検索してみると、トップに
「浮標(ぶい)ー葛河思潮社
死にゆく妻、迫り来る戦争の影ー。芸術にも、宗教にも、科学にも、経済にも頼れない中で、画家・久我五郎が見せる『生』への執着。4時間を……」
と出てきて、暗いなー、浮標!とびっくりしてしまいました。いえいえ、それは本の紹介で、浮標の意味ではありませんから。

話が座礁しまくってますが、舵を取り直しまして、また漕ぎ出しますと、ついでに端折りますと、ブイ(結局ブイ……)を設置するための方法を考えないといけない。海には流れがあるし、波もあるから、多少は仕方ないとしても流れにくいような設置方法を考える。どうするか。棒のようなものでは却って流れに対して抵抗が強すぎてもろくなる、だから錘とブイとをつなぐものには、流れに逆らわず、多少は泳がせられるようなもので、たとえば錆に強いもの、を探す。それからブイを固定するための錘を目的の場所に沈めるためにも、潮の流れと落下までの距離と時間を計算して、どの地点から落とせばいいか、を考えないといけない。計算しないといけない。

といったように、順番に考えていく。私がもしその問題にあたっていたなら、と想像上ゆえの自由と無責任さでちょこっと考えてみるのは、まるで推理探偵になったかのようで、とても楽しい。特に人の話を聞きながら、えー、それはどうやって?それはどうやって?と追いかけるように、追い抜くように、考えると、とてもわくわくする。

ところが、自分自身の未来の計画を立てることとなると、どちらも同じ、「計画を立てること(というか、先を予測すること?)」のように一瞬見えたのに、それは途端にものすごく苦手なことになってしまう。それがなぜなのか、不思議だなぁ、と思ったのでした。

それが今朝、謎が急に溶けたのです、じゃなくて、解けたのです。ような気がしたのです。それを書き留めておきたいと思います。

どういうことかというと、私がわくわくできるほう、というのは何かひとつ、考えるもとになるものがあります。それを実現するには、Aということがないといけない。そしてAを実現するにはBがなければいけない。Bを実現するにはCが必要……というように、ひとつ問題があったら、それを手がかりにどんどん辿っていけるものなのです。しかも、それは大抵自然法則だから、しっかりとして揺るがないものなのです。それさえしっかりつかんでおけば大丈夫、という拠り所がある。イメージは、綱引きするみたいに太い綱にしがみついて、右手左手と順々に辿っていくような感じ。未来への計画、というよりも、どちらかというと過去へ遡っていくような作業。

一方、私の苦手な計画というのは、本当の本当に未来のことで、それも自分の計画だから、頼りにすべきは自分の意思でしかないのです。こんな、こんな、頼りないもの。何がいいかなんて、正解はないし、だからこそ、自分がどうしたいか、でしかなく、ひとつひとつの選択が、正解がわからない中での、決断なのです。こんな、それこそ波間に漂っていて錘がちぎれてしまったブイのような、心もとないことってあるでしょうか?

一瞬似ていると思ったけれど、こうして考えてみると全然違うことなのでした。そして、自分がなぜ計画が苦手なのかもわかるのでした。

けれど考えてみれば、詩を書く、とか、何か物を作る、というのは、後者のほう(未来を作っていくほう)なのかもしれないですよね。それとも素人だからそんな風に思うのかしら?頼りになるものがない中で、自分で、これ、とひとつ決めて、踏み出す。また次を決めて思い切って足を踏み出す。インディ・ジョーンズのように。だからすごく勇気のいることなのですよね。だからだから、自分のこれまでの枠をはみ出す勇気を持てなければ、「新しい」は、やってこない。うーん、なんだか話がずれてきているような気がしないでもないです。

ともかく、自分の苦手がわかったなら、逆に、それを利用すればいいのですよね。意思(私はたぶん意思にさえなっていなかったのでしょう、そのときの気分でしかなかった)なんて当てにしないで、とにかく何かひとつ決めてしまえばいい(それこそが意思?)。灯台。そうしたら、そこに行くにはどうしたらいいか、少しは考えやすくなるのではないか?何も大げさな話ではなくて、たとえば旅行に行く、でもいいし、友達を家に呼ぶ、でもいいし。決断することが大大大の苦手な自分へ。どっちの餌を食べるか迷ってどっちも食べられずに死んでしまうヤギのタイプの自分へ。アドバイス。

こんな個人的な話に長々と付き合わせてしまって、最後まで読んでくださったあなたは素晴らしい方ですね。ありがとうございます。あ、いつも個人的な話しか書いてないか。どうもすみません。


いつかの空(空に浮かぶ浮標)




そういえば、推理探偵なんて言葉、ありましたっけ?推理小説はあるけれど。
推理する探偵、推理しない探偵と、区分があるわけじゃないし。
はい!わたし、推理担当探偵!なんて。
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