私はとても目が悪いので、夜寝るときにはメガネを枕元のすぐそばに置いておきます。夜中に地震があったときに見つからないと大変だと思って。朝起きるとまずメガネメガネ。でも目覚めてメガネを探すよりも先に、無意識に手探りしていることがあります。
以前、職場で「自分の状況を改めて考えてどんよりしてしまうときはいつか」という話になって、話し始めた人は「夜が一番」だったのですが、私は「絶対に朝!」なのです。朝、目覚めた瞬間こそ恐ろしい。夜というのは一日自分の理屈で固めていったいわば自分の城のてっぺんにいるときなので、現状について心の耐性ができている。ところが朝はまたふりだしに戻って、城の建つ丘のふもとからやり直し、城の門まで登っていく道の木々のシルエットや城の中のコウモリやクモの巣、おばけにも初(うぶ)になってしまっているので、もう一度恐怖を味わわなければいけないのです。ところで、ここでなぜ「城」という喩えが出てきたかと言うと、数日前、本棚にあったコリン・ウィルソンの『フランケンシュタインの城』が目に留まって久しぶりに読んでいたからなのでした。
目が覚めると、いまの私はどういう状況にいるんだっけ?と考えます。今日一日の楽しみは?私の元気の素は?ないない、ない、ない、ないよー。となってしまうのです。本当はあるはずなのです。それなのに、一番、そういったことを感じられない、まだ感じるエンジンがかかっていない状態で探してしまうものだから全てが砂を噛むように味気なく感じられてしまうのです。まさに『フランケンシュタインの城』のテーマではありませんか。
ところで、最近ようううううやく気が付いたこと。気持ちが行き詰る時、なんだか調子が良くないなぁと思う時、というのは、どうやら自分のことばかり考えているらしいということ。こういうときに少し外に目を向けると急に気持ちが羽が生えたように軽くなったりします。私の精神的エネルギーの乏しいのは、きっと自分のことばかり考えていられる状況だったからなんだなぁと苦笑します。そうはいっても、長年の癖、簡単には治りません。『フランケンシュタインの城』の、栞も挟んでいないのに異様に開きやすくなっているページで、なぜかすぐに目に留まる一節。
「私はつねに自由を欲していた。食うために働かなくてはならない無味乾燥な必要からの自由、精神生活を生きる自由を。だが、土曜日の朝、自分の部屋で目がさめて、これから丸二日のあいだわがものにすることのできる〈自由〉が眼前にひろがると、私は妙に生ぬるい無関心の状態に閉じこめられている自分に気づくことがある。せっかく〈意味〉に割いてやれる時間がもてたそのとたん、〈意味〉が鬼火のようにすっと消えてしまうのはなぜなのか。」
もうすっごくわかる!!休日こそ自分の人生の意味なのに、休日にはすべての意味が消失してしまう。
そして、ここ数日、なぜなら夏休みだから、気が付いたこと。言葉が邪魔をしているのではないか。私の言葉が。
つまりですね、いまどういう状況か、考える。楽しみはあるか、あれとこれとそれ、どれも興味を感じないみたい。意味なんてないみたい。って。ようく考えてみれば、そんなこと、考えなくていいんですよね。別に評価なんてする必要ない。気付くと朝だけでなく、いつもそうやって考える癖がついているんです。いまはどういう状況?私の楽しみは?希望は?意味は?って。考えなくていいのに。今は今があるだけなのに。そこになにも意味はないのに。あ、それは無意味の意味じゃなくて、別に価値を付けたり意味を付けたりわざわざしなくていいという意味で。気付けば私にはそういううるさい虻みたいな意識がずっとくっついてまわっていたみたいなのです。
それで、突然ですが、ホ・オポノポノというハワイの伝統的な問題解決法があるそうです。それは「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」という言葉を唱えるだけらしいのです。あまり詳しくは知らないのですが。これらの言葉を唱えることによって自分の記憶をクリーニングする、とのこと。「自分の記憶」というのはつまり、「自分がその状況に対して感じたことの記憶」で、それをクリーニングするということなのではないか、とふと思ったのです。ある状況に対して、別になんとも思わなければいいのに、つまらない、とか、意味がない、とか、きっとうまくいかない、とか、自分でいつのまにか評価を下している、その記憶をクリーニング。もっと言えば、上記の4つの言葉を唱えていることで、マイナスな言葉を自分に考えさせないようにする方法なのではないかな。
そう考えてみると、これまたつい最近ふと本棚から取り出して読んでいたサリンジャーの『フラニーとゾーイー』の中に出てきた本のことも思い出します。カバーの紹介文によると「アメリカ東部の小さな大学町、エゴとスノッブのはびこる周囲の状況に耐えきれず、病的なまでに鋭敏になっているフラニー」が胸に大事に抱えて、さらに実践もしている『巡礼の道』と『巡礼の道は続く』という本の中にある「イエスの祈り」を絶えず祈り続けよ、という教えも、結局はそういうことなんじゃないか、と本の中の話なのですけど、ひたすらに何かをするということも結局はそういうことなんじゃないか、と勝手に結びつけて、納得してさわやかな気持ちになった夏の朝なのでした。『フラニーとゾーイー』はなんだか嫌味な感じがして、実はいまはあまり好きではないのですけど。
要するに、詩情はいいけど私情はよくない。私!私!と言っていろんなことを評価し始める左脳的な私情は生活にはほんの少しでいいのでしょう。私情の私はほんとは公私の私だから使い方が間違っているけど、詩情にひっかけたくて使いました。私情を退けて詩を書くぞ!と決意を新たに今日を過しましょう。『情熱大陸』で谷川俊太郎さんの密着取材も見られたしね。
これはなんでしょう?
雨の夜の車の中
窓をつたうしずくが車の中に描き出す模様
中にいる私たちの上もしずくの影がすべっていきます。
こういうときは、評価する私はなりを潜めてただそのときを楽しみます。
洗車機の中も大好きです。
以前、職場で「自分の状況を改めて考えてどんよりしてしまうときはいつか」という話になって、話し始めた人は「夜が一番」だったのですが、私は「絶対に朝!」なのです。朝、目覚めた瞬間こそ恐ろしい。夜というのは一日自分の理屈で固めていったいわば自分の城のてっぺんにいるときなので、現状について心の耐性ができている。ところが朝はまたふりだしに戻って、城の建つ丘のふもとからやり直し、城の門まで登っていく道の木々のシルエットや城の中のコウモリやクモの巣、おばけにも初(うぶ)になってしまっているので、もう一度恐怖を味わわなければいけないのです。ところで、ここでなぜ「城」という喩えが出てきたかと言うと、数日前、本棚にあったコリン・ウィルソンの『フランケンシュタインの城』が目に留まって久しぶりに読んでいたからなのでした。
目が覚めると、いまの私はどういう状況にいるんだっけ?と考えます。今日一日の楽しみは?私の元気の素は?ないない、ない、ない、ないよー。となってしまうのです。本当はあるはずなのです。それなのに、一番、そういったことを感じられない、まだ感じるエンジンがかかっていない状態で探してしまうものだから全てが砂を噛むように味気なく感じられてしまうのです。まさに『フランケンシュタインの城』のテーマではありませんか。
ところで、最近ようううううやく気が付いたこと。気持ちが行き詰る時、なんだか調子が良くないなぁと思う時、というのは、どうやら自分のことばかり考えているらしいということ。こういうときに少し外に目を向けると急に気持ちが羽が生えたように軽くなったりします。私の精神的エネルギーの乏しいのは、きっと自分のことばかり考えていられる状況だったからなんだなぁと苦笑します。そうはいっても、長年の癖、簡単には治りません。『フランケンシュタインの城』の、栞も挟んでいないのに異様に開きやすくなっているページで、なぜかすぐに目に留まる一節。
「私はつねに自由を欲していた。食うために働かなくてはならない無味乾燥な必要からの自由、精神生活を生きる自由を。だが、土曜日の朝、自分の部屋で目がさめて、これから丸二日のあいだわがものにすることのできる〈自由〉が眼前にひろがると、私は妙に生ぬるい無関心の状態に閉じこめられている自分に気づくことがある。せっかく〈意味〉に割いてやれる時間がもてたそのとたん、〈意味〉が鬼火のようにすっと消えてしまうのはなぜなのか。」
もうすっごくわかる!!休日こそ自分の人生の意味なのに、休日にはすべての意味が消失してしまう。
そして、ここ数日、なぜなら夏休みだから、気が付いたこと。言葉が邪魔をしているのではないか。私の言葉が。
つまりですね、いまどういう状況か、考える。楽しみはあるか、あれとこれとそれ、どれも興味を感じないみたい。意味なんてないみたい。って。ようく考えてみれば、そんなこと、考えなくていいんですよね。別に評価なんてする必要ない。気付くと朝だけでなく、いつもそうやって考える癖がついているんです。いまはどういう状況?私の楽しみは?希望は?意味は?って。考えなくていいのに。今は今があるだけなのに。そこになにも意味はないのに。あ、それは無意味の意味じゃなくて、別に価値を付けたり意味を付けたりわざわざしなくていいという意味で。気付けば私にはそういううるさい虻みたいな意識がずっとくっついてまわっていたみたいなのです。
それで、突然ですが、ホ・オポノポノというハワイの伝統的な問題解決法があるそうです。それは「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」という言葉を唱えるだけらしいのです。あまり詳しくは知らないのですが。これらの言葉を唱えることによって自分の記憶をクリーニングする、とのこと。「自分の記憶」というのはつまり、「自分がその状況に対して感じたことの記憶」で、それをクリーニングするということなのではないか、とふと思ったのです。ある状況に対して、別になんとも思わなければいいのに、つまらない、とか、意味がない、とか、きっとうまくいかない、とか、自分でいつのまにか評価を下している、その記憶をクリーニング。もっと言えば、上記の4つの言葉を唱えていることで、マイナスな言葉を自分に考えさせないようにする方法なのではないかな。
そう考えてみると、これまたつい最近ふと本棚から取り出して読んでいたサリンジャーの『フラニーとゾーイー』の中に出てきた本のことも思い出します。カバーの紹介文によると「アメリカ東部の小さな大学町、エゴとスノッブのはびこる周囲の状況に耐えきれず、病的なまでに鋭敏になっているフラニー」が胸に大事に抱えて、さらに実践もしている『巡礼の道』と『巡礼の道は続く』という本の中にある「イエスの祈り」を絶えず祈り続けよ、という教えも、結局はそういうことなんじゃないか、と本の中の話なのですけど、ひたすらに何かをするということも結局はそういうことなんじゃないか、と勝手に結びつけて、納得してさわやかな気持ちになった夏の朝なのでした。『フラニーとゾーイー』はなんだか嫌味な感じがして、実はいまはあまり好きではないのですけど。
要するに、詩情はいいけど私情はよくない。私!私!と言っていろんなことを評価し始める左脳的な私情は生活にはほんの少しでいいのでしょう。私情の私はほんとは公私の私だから使い方が間違っているけど、詩情にひっかけたくて使いました。私情を退けて詩を書くぞ!と決意を新たに今日を過しましょう。『情熱大陸』で谷川俊太郎さんの密着取材も見られたしね。
これはなんでしょう?
雨の夜の車の中
窓をつたうしずくが車の中に描き出す模様
中にいる私たちの上もしずくの影がすべっていきます。
こういうときは、評価する私はなりを潜めてただそのときを楽しみます。
洗車機の中も大好きです。
気持ちがほわっとしました。