まだまだ続くと思ってページを空けておいたのに、あらためて時間をおいて読み直してみると、完結しているような気がしてしまうから奇妙だ。さらに書きたかったことはなんだったのだろう。
こうしてお気に入りのボールペンで文字を書くときに、ペンの先端に意識を向ける、紙とペンが接する先に意識を向けると書き心地が格段に良くなる。それはボールペンが変わるからではなく、自分の意識が変わるから、もっと言えば、意識を向ける先が変わることで、文字を書くときに力を入れる箇所が変わるからなのだと思う。
秋の陽の中を歩いていったとき(様々な斜辺をくぐり抜けたあとで)、この時間の美しさを言葉にするだけでは足りないのだと思った。充実した中身の伴った言葉が必要だと思った。
詩はそのものとして綾取りではだめなのだと思う。レースにうっとりしても、たとえばテーブルクロスの縁取りとか、衣服の裾の縁取りのように、主体となる1つの堅固な役割があってこそ、その装飾に技術を感じる。レースが、用の美を果たす。
詩は役割を求めるのに、もっともふさわしくないものかもしれないけれど、本当に美しさが輝くためには、覚めていなくてはいけない。
そういう確かなものを、少しつかめたように思ったのに、時間と共に消え失せた。それともはなからはかないものだったのかもしれない。
実態とは、またあいまいな言葉のようだけれど、詩の実体とは、書くべきものを、はっきりと掴んでいる、ということなのかもしれない。
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