詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

分かる話(分からない話)2

2016年04月19日 | 雑記
先日の「分かる」の話の続きです。

でも実はこの分かるの感覚について書きたかった時、というのは、ほんとにもうあきれるくらいずっとずっと前なんです。たぶん二、三ヶ月くらい前?もっとかな?

よくわからなくなっているくらい前なんです。

でもおぼろおぼろ過ぎて、逆に要約しやすくなったような気もする「分かる」の感覚とは、まさにおぼろ豆腐のような感じなのでした。本当はもっと、子どもの頃に砂をぬらして作ったお団子くらいの固さがあったのですけど、なにせ時が経ち過ぎて曖昧になってしまって「おぼろおぼろ」などと言っているうちに、豆腐でいいやっなんていいかげんになことになってしまいました。

というのも、その時は固さの感覚も大事なように思ったのですが、今となってはそれを崩す感覚がなにより大事だったようなような気がするからです。

「分かる」の感覚とは、塊と思っていたものを握ると、土で作ったお団子や、おぼろ豆腐のように崩れていく、という感覚だったからなのです。指と指の間から土や豆腐がにゅっと出てくるような。

その時は、保坂和志さんの『小説の自由』『小説の誕生』『小説 世界の奏でる音楽』を読んでいる日々で、読みながらふむふむ、ふむふむ、ふむふむふむふむ、と思いながら、自分自身の考えごとが混ざったりしているうちに、自分がこうだろうと思っていることが、そうでもないんだな、これはこういう塊なんだろうと思っていたことが、そんなことなくて、実はどんどん分割可能なことなんだな、と体感、じゃないけれど感覚を体のうちに覚えたのです。ここは当然こうだろう、とか、これはこういうふうにしかできないだろう、と思っていたことが単なる思い込みなんだな、と。それが何かは具体的に思い出せないのですが……。

そこで、あ、分かるって、分かつなんだ、と思いました。恣意的に分けるのではなく、分かれば分かつことが分かるんだ。「分かつ」という言葉を恣意的に使ってますけど……。「分かつ」は「分ける」よりも自律的なイメージ(私の中で。勝手に)。分かれた部分部分が葉っぱみたいにくるっと丸まってしまう感じ。

話がどんどん逸れていくようですが、そのとき、私はいくつかのことについて、理解が進んだ気がして、あ、これってもっと自由なんだ、もっとこういうふうにもできるし、こういうふうにもできることなんだ、と思ったのでした。その感触をイメージできるほどに。

つづく

このあと、「分かる」は危機的状況に?!


ほんとはいま春なの








だけどほんとは春だって厳しいんだ。
自然なのだから。

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