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高岡町のシンボル

2012-09-04 11:19:25 | 日記

2012年9月4日、私の農作業場から見える高岡町のシンボルを調べてみました、高岡町の地名は慶応5年(1600年)島津義弘が関ヶ原の戦いから帰国後に島津領を伊東氏  

から防衛するために築城した城を天と名付けたものです島津が最も信頼する地域の家臣(約730人)強制的に高岡郷(旧久津良地区)に移住させ高岡の守りを固めた、     

高岡町は城を中心に栄えた町です。

島津が最も信頼した地域家臣

   薩摩、大隅 272戸(伊集院99戸

   豊後 11戸

   肥後 11戸

   日向 222戸(佐土原地区47戸)

家臣の珍役職(上級役職除く)

   牛馬役、横目,行司、中宿、医者、絵書地下者、深屋,善哉坊、金細、虫クイ、鉄細工、大工、加治屋、貝細工、紙屋卸番坊、浮世人女房烈子,牢人山伏、宮内社人、  

    染屋、研師

 

 

高岡町高浜地区のみかん畑は昭和26年3月からの道路工事(上坂、下坂、原坂の)の完成で、今のミカン畑が本格的に栽培されたのでは、当時の工事は車も土木機械もない時代で、もつこ、かますにひもを         

付けていだり引張って工事を進めたので難工事だったと思われます、高浜地区の発展にはかくことのできない工事として(開墾碑)に記されてます。)

 

 

高岡ミカンは島津家と深い関係があるようです江戸時代(慶応5年天ケ城築城により鹿児島から多くの家臣が強制移住させられたおりに、武家屋敷にミカンが植えられたのが始まりとか、

温州ミカン*****原産地は鹿児島県の出水郡長島町とのこと、島津家臣が高岡町に移住してきた時に武家屋敷に移植された(高岡の多くの苗字は薩摩藩の名字が多い、 特に高浜地区に多くみられる)

鹿児島から山ミカン,雑柑類の苗木を導入し、それからミカンの町としても知られるようになりました。

高岡文旦*****昭和40年頃に久津良文旦(武家屋敷植えてあったもの)が再認識され、高岡文旦として復活し県内唯一の文旦生産地です。

ポンカン ****インド原産地、中国~台湾から1896年(明治29年)苗木を鹿児島県に送ったのが日本に最初の導入されたとのこと

日向夏ミカン***1820頃宮崎県赤江町曽井で偶然発生として発見されたもの。

大淀川は明治の初めまで赤江川でした、江戸時代は陸上交通発達してない時代で、運搬は船を使って運んでました、都城から大淀川河口まで上流の特産品木炭,和紙,櫓木,などを船で運び赤江港から大阪、  

戸に送らていました。

当時豪商は船での運搬に携わっていた

     高城(後藤五郎) 高岡 (清水八郎左ヱ門) 高岡 (田丸平助)

  現在の大淀川は清流とは言えないが、川魚の種類,量とも激減してます。けれどもアユ釣りの好きな人でにぎわっています、中には数十匹釣る釣人もおられます。