MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2168 勇気ある者

2022年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 哲学者の岸見一郎氏が、ライターの古賀史健氏と共に著した『嫌われる勇気─自己啓発の源流「アドラーの教え」』は、2013年に出版され、2014年にビジネス書ランキングの年間2位、2015年には1位を獲得し、世界の累計で約500万部、国内だけでも国内230万部を売り上げた大ベストセラーとして知られています。

 その人気は今も衰えず、保険マンモス株式会社が普段本を読む男女120人に調査した「ビジネス書に関するアンケート調査(2022)」の「読んで人生が変わったおすすめのビジネス書」でも、発売から10年近くを経た本書が堂々の2位にランクインしています。

 『嫌われる勇気』は、一言で言うと「アドラー心理学」をごく分かりやすく読み解いた解説書です。いわゆる「自己啓発本」の体裁をとっていますが、その内容は(当時の)日本ではあまり知られていなかった、オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラー(1870-1937)が唱えたパーソナリティ理論の入門書と言った方がよいかもしれません。

 いまさら本書の内容を辿ることは避けますが、アドラーが研究の末にたどりついた結論のひとつは「全ての悩みの原因は対人関係である」というもの。そして、その悩みの解決方法が『嫌われる勇気』であるということです。

 その際に重要なのは、「世界がどうあるか」ではなく、「あなたがどうであるか」ということ。他者からの承認を求め他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。つまり、承認欲求を捨て去ることが自分を解放する唯一の方法だというのが本著の指摘するところです。

 自由とは、専ら他者から自由になることを指す。人は他者の期待を満たすために生きているのではないのだから、自分ために生きることで人の悩みはおのずと解決するということです。

 さて、私自身は、その後様々に紹介されることとなったアドラー心理学にそれほどの影響は受けませんでしたが、この『嫌われる勇気』が現在まで読み継がれるロングセラーになっている背景には、あふれる情報の中で価値観が多様化した、21世紀の日本の不安定でストレスフルな社会状況があるのでしょう。

 格差の拡大や階層化、そして何よりも「空気を読む」ことが求められる人間関係の中で生き抜くには、自分を見失わないよう心の支えになるものが必要とされていたのかもしれません。

 ネット上の「GWに読むべき本」の書評を見ながらそんなことを考えていたところ、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、4月7日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に「勇気について」と題する一文を寄せているのが目に留まりました。

 先日若い人たちと話す機会があり、「今の日本人に一番足りないものは何でしょう」と訊かれた。少し考え(思いつきもあって)「勇気じゃないかな…」と答えたと氏はこのコラムの冒頭に綴っています。そしてそう言ってから、確かに氏が子どもの頃、マンガや小説を通じて繰り返し「少年は勇気を持つべし」と刷り込まれてきたことを思い出したということです。

 1950年代の少年に求められた資質は、まず勇気だった。勇気というのは「孤立を恐れない」ということ。自分が「正しい」と思ったことは、周りが「違う」と言っても譲らない。自分が「やるべき」だと思ったことは、周りが「やめろ」と言っても止めないことだと氏は言います。

 そして氏はその時、戦中派の大人たちが私たち戦後生まれの子どもたちに向かって「まず勇気を持て」と教えたのは、(実は)彼ら自身の「自分には勇気が足りなかった」という深い慙愧の念があったからではないかと思い至ったということです。

 戦前・戦中において、自分が「正しい」と思ったことを口に出せず、行動に移さず、不本意なまま大勢に流されてついには亡国の危機を招いてしまった。そうしたことへの痛苦な反省があったからこそ、戦中派の人々はわれわれ戦後世代に「まず勇気を持て」と教えたのではないかというのが氏の見解です。

 また、だとすれば、この世代の子どもたちが長じて学生運動に身を投じた時に、「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンに情緒的な反応を示したのも当然だということです。

 どうして(現在は)「勇気を持て」という教えが後退したんでしょう?」と重ねて訊かれたので、(これもその場の思いつきで)『少年ジャンプ』のせいかなと答えたと氏は話しています。

 『少年ジャンプ』が作家たちに求めた物語の基本は「友情・努力・勝利」というもの。 最初に来るのが「友情」だが、私見によれば、友情と勇気は相性が悪いというのが氏の認識です。

 友情というのは理解と共感に基づくもの。周りの友人たちに理解され、共感され、支援されることだと氏は言います。一方、「勇気」というのは、周りからの理解も共感も支援もないところから始めるために必要な資質である。(即ち)「すべてはまず友情から始まる」という世界には、「孤立を恐れない少年」の居場所がないというのが氏の指摘するところです。

 『孟子』に「千万人と雖も吾往かん』という有名な言葉がある。しかし、「友情」と「勝利」が優先的に求められる世界では、この「吾」はただの「空気の読めない奴」として遇されるしかないということです。

 一方、勇気が最優先の徳目であった時代、それ続く徳目は「正直と親切」であったと氏は話しています。

 「勇気・正直・親切」と「友情・努力・勝利」はまるで違う。正直や親切というはパーソナルなもので、目の前にいる生身の人間に対してどう向き合うか、こちらの真率な気持ちが相手にどれだけ伝わるかという、顔と顔を見合わせた倫理次元の問題だと氏は説明しています。

 それは「何か」を達成するための手段ではない。でも、「努力」は違う。努力にはとりあえず相手がいない。努力するかどうかはあくまで自分一人の問題のはずである。一方、ほんとうに「努力」したかどうかは「勝利」したかどうかで事後的に、客観的かつ外形的に検証されるもの。なるほど、時代はそうやって遷移したのかと私は深く得心したと氏はこの一文に記しています。

 求めるのは「結果」ではなく、自分の心と直感に従う勇気をもって物事に望むこと。日本人に今一番足りないのは、自分の感性に正直に、生身の人間として人(や社会)に相対していく誠実さを貫く勇気だということでしょうか。

 宮沢賢治が人知れず手帳に書き残した「雨ニモマケズ」。彼が「ワタシハナリタイ」と記した「サウイフモノ」は、褒められもせず苦にもされない、皆に「木偶の坊」と呼ばれるような人でした。

 共感も尊敬もされなくていい。孤独でもいい。「勝利」とは最も遠い場所にいるのが彼のような人でしょう。ただ自分の心をよりどころに(清々しく)生きていける。そういった勇気を、(私自身)どこかで失ってしまっているのかもしれないと、氏の指摘を読んで改めて感じたところです。

 



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