MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1523 「竹内まりや」という存在

2020年01月03日 | テレビ番組


 昨年の暮れ、何かの拍子にテレビを付けたところ、NHKの特集番組として女性シンガーソングライターの竹内まりやさん(以下、敬称略)の40年間の活動の軌跡をたどるドキュメンタリー番組の再放送が始まったところでした。

 恐らくは、大晦日の紅白歌合戦の特別ゲストとして彼女が出演するので、話題を盛り上げるために企画されたものなのでしょう。

 ちょうど時間もあったのて、見るともなく見始めたら止まらなくなり、結局1時間半余りの時間を最期までテレビの前から離れることができなくなってしまいました。

 白状すれば、それ今まで「竹内まりや」という人のミュージシャンとしての活動について、そんなに注目したことはありませんでした。

 しかし、確かに世代が近いこともあって、番組中に流れたデビュー曲から他の歌手に提供した曲まで、私自身ほとんどすべての楽曲を知っていることに今さらながら驚かされたところです。

 竹内まりやと言えば、(多くのオジサンたちにとっては)デビュー当初の「化粧品のコマーシャルソングを歌っている上品なお姉さん」という印象が強いのではないでしょうか。

 実際、当時の芸能界には珍しかった「慶応大学英文科の女子大生」「アメリカへの留学経験」などというブランド力もあって、デビュー当初からコマーシャリズムというか、マーケットに上手く乗った人というイメージが強かったのも事実です。

 思えば、若者文化の中から学生運動や四畳半フォーク的な情緒が次第に失われ、車やレジャー、ファッションなどの「消費」に若者の目が向けられるようになった1970年代の終わり頃。いかにも「苦労知らずのお嬢様」といった屈託のなさを携えてブラウン管(当時)に登場した彼女の姿は、同世代の私たちにはそれなりに新鮮なものでした。

 一方、当時の多くの男性たちにはただただ眩しい「高嶺の花」のように見えた彼女も、(今から思えば)特に同世代(あるいはそれより少しだけ年下の)の若い女性たちには、当時流行っていたan・anやnon-noなどのファッション雑誌から抜け出たような、もっと身近でリアルなロールモデルに映っていたようです。

 確かに、高度経済成長の果実としての豊かさの中を育ってきた、(何を考えているかわからないという意味で)「新人類」などと揶揄されていた「団塊の世代」の次の世代にとって、彼女はさらに「本物の豊かさ」を体現する貴重な存在でした。

 コンサバティブで品のあるお洒落なファッションに長い髪。恐らくは小さなころから習ってきたであろうピアノを器用に弾きこなし、ポップなメロディに合わせて極めて正しい標準語で恋の歌を唄う。

 これが男であれば、(当時であっても)「なんだあのお坊ちゃまは」とか「正義の見方みたいなフリしやがって」などと、その徹底した「正統派」ぶりに散々な言われようだったかもしれません。

 しかし、彼女が次々とリーリースしていった「ドリーム・オブ・ユー」とか「不思議なピーチパイ」といった(よくよく聞くと意味不明な)曲たちは、「アンノン族」に代表される消費時代の気分に上手く乗って、多くの女性から(ある種の憧れとともに)支持されていきました。

 竹内まりやという存在が纏う世界観は、(カテゴリー的に言えば)彼女よりひとつ前の世代に当たるユーミンこと荒井(松任谷)由実が持つイメージに近いものがあったのかもしれません。

 しかし、ユーミンが一歩先の時代を颯爽と駆け抜けていく(飛びぬけた)「先達」であったのに対し、竹内まりやというアイコンはもう少し身近な、半歩先を行く存在として(ある種の)親しみを持って若い女性たちに受け入れられていたような気がします。

 さらにそればかりでなく、その後の(自ら選んだ)活動休止や(実力派として知られた)ミュージシャンの山下達郎氏との結婚、子育ての中での様々なジャンルの歌手への楽曲提供などにより、「竹内まりや」という存在が、現代を生きる女性のひとつの確立したロールモデルとしてリスペクトされていったことは、恐らく間違いありません。

 そして今、シンガーとして、ソングライターとして、また母として、さらに一人の女性として歳を重ねた彼女が生み出す楽曲の数々は、確かに地に足の着いた「大人の女」として安定感のある魅力を放っています。

 かなり昔に作られた曲であっても(今、聴いても)全く「古臭さ」のようなものを感じさせない、非常に普遍性の高いものであるといえるでしょう。

 夫の山下達郎氏は番組中、彼女の作り続けている楽曲の魅力を、「誰にでも受け入れられるミドル・オブ・ザ・ロード(王道)」を歩んでいるところにあると分析しています。

 そして、「何よりも全ての作品に通底している人間存在に対する強い肯定感が、人々に長く受け入れられている大きな要素ではないか」と話しています。

 確かに、竹内まりやの生み出してきた「詩」の数々が、曲中の女性が抱いた感情を大切にし、彼女たちの様々に揺れる気持ちに「寄り添う」ものであることを、山下氏の言葉から改めて確認させられます。

 例えば、同じ時代を多くの人々に支持されて自分の世界観を作って来たシンガー・ソングライターに「中島みゆき」という人がいます。

 彼女の音楽も(同じように)多くの人に「寄り添う」ものではありますが、それは決して社会や人間関係、そして何より自分という存在に対する「肯定感」に満ちたものではありません。

 けれども、理不尽さに直面したり、呵責や葛藤に苛まれたりして傷ついた人たちをまとめて「受け止めて」あげることで、(竹内まりやのそれとは違った形で)ファンの心をわしづかみにし普遍性を放っていると言えるでしょう。

 さて、誤解を恐れずに言えば、一方の「竹内まりや」というカリスマが放つ存在感は、「今、この時」を一生懸命、自己肯定感を持って真面目に努力することができる(ある意味まっとうに育った)女性たちの「共感」によって裏打ちされているのではないかと改めて感じるところです。

 また、そういう意味で「竹内まりや」という女性はまさに「王道を行く人」であり、逆に言えばそのように生きていくことを宿命づけられた、優しく、何より強い人と言えるのかもしれません。



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