僕はこの数年ずっと「成熟」の必要性について語ってきた。なぜなら今の日本社会を見て一番足りないなと思うのがそれだからだと、思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏は近著『街場の成熟論』(文藝春秋社)の「まえがき」に記しています。
なぜに現代社会のものの考え方(の主流)は、これほどまでに「幼稚」になってきているのか。社会が子どもばかりになってその人たちが権力や財力や発言力を持つと、世の中の運営にいろいろな不具合が生じるというのが氏の懸念するところです。
実際は、かなり目減りしているとはいえ今の日本社会にも「大人」の頭数はそこそこいるはず。でも、そうした大人たちを見て、子どもたちが「あんな大人になりたい」と強く願うということが起きていないと氏は言います。そして、その意味するところは、今の日本には「楽しそうにしていない大人」が多いということだというのがこの論評における氏の見解です。
では、それは何故なのか。その理由は、世の中がうまく行っていないのは、「社会正義が実現していない」と考えている人が多いからではないかと氏はしています。
今の世の中の生きづらさや理不尽のかなりの部分までは社会的な欠陥のせいなので、それを修正しなければいけないというのはまったくその通り。でも、「正義を実現する」「間違いをただす」という考え方ばかりしていると、人はつい怒りの激しさによって「諸悪」のスケールと深さを表現しようとしてしまう。つい不機嫌になり表情が険しくなるということです。
もちろんそれはそれで正しい。でも、そればかりしていると、「大人というのは不機嫌なものだ」という印象を子どもたちに刷り込んでしまうと氏は言います。誰も「早く大きくなって、不機嫌な人間になろう」などとは思わない。子どもたちは今の日本の怒れる大人たちを見て、「言っていることはいくら正しくても、そんな大人になりたいとは思わない」と感じているということです。
それよりは、「言っていることは正しくないかもしれないけれど、なんだか陽気で、高笑いしている人たち」を見れば、「ああいうのになってもいいな」と思うようになる。世の中には(確かに)かなり技巧的に「上機嫌」を演じている人がいて、子どもたちや大人になりきれない人たちにアピールしているというのが氏の見解です。
さて、言われてみれば、総理大臣としては異例なほど人気のあった田中角栄氏や小泉純一郎氏、最近ではトランプ前アメリカ大統領なども、いつも案外上機嫌に見える政治家でした。人気のユーチューバーやバラエティ番組のひな壇に並んだお笑い芸人さんたちも、やかましいほど元気で陽気だからこそ、モニターの向こうにいる視聴者にアピールできるというものなのでしょう。
現実社会では、「まっとうな大人たち」は不機嫌な顔をしていて、その一方「あまりまっとうじゃない人たち」はテレビの画面やYouTubeの配信動画でげらげら笑っていると氏はここで厳しく指摘をしています。
彼らは(←誰ということではないが)世の中の「きれいごと」や「建前」を笑い飛ばし、それに代わって、剥き出しの「力」(権力やお金や名声)を求めるのが人間の本性であるという(かなり幼稚な)人間観を繰り返し発信している。そして、子どもたちがそれを見て「成熟への意欲」を削がれているのだとしたら、これはかなりシリアスな問題ではないかというのが氏の見解です。
「言論の自由」が保障された世界のもので、この「政治的に正しくないけれど妙に上機嫌な人たち」にもちろん「黙れ」ということは適当ではない。しかし、この「成熟への意欲を殺ぐ言説」に対抗して、僕たちとしては「大人であることは楽しい」ということをあらゆる機会を通じて子どもたちに伝えなければならないというのが、この論考で氏が最後に主張するところです。
「政治的に正しいことを機嫌よく言う」のは、技術的にかなり難しい。でも、その困難なミッションを果たさないと子どもたちに「成熟することへのインセンティブ」を提供することができないと氏は言います。「正義を実現すること」も大切だが、(長い目で見れば)それと同じくらい、あるいはそれ以上に「子どもたちの市民的成熟を支援する」ことは大切なミッションだということです。
そして、子どもたちが不機嫌な大人を見て、「こんな人になろう」と思うということは決してない。そのことをぜひ理解したうえで、(子どもたちの成熟を支援する「先達」になる意思がある大人たちは)日々笑顔で過ごして頂きたいと内田氏はこの「まえがき」をまとめています。
なるほど言われてみれば、今の日本で少子化や未婚化が進むのも、結婚し子どもが生まれても楽しそうにしていない(不機嫌な)両親の姿を見ていればこそ。管理職になりたい人が減ったのも教員へのなり手が少ないのも、そうした立場で働く人たちがいつもいつも愚痴をこぼして、大変そうにしているからなのかもしれません。
例え日々の暮らしが大変だったとしても、(少なくとも子どもたちの前では)できるだけ機嫌よく毎日を過ごす。そうしたことができる人のことを(もしかしたら)「成熟した大人」と呼ぶのかなと、氏の指摘を読んで私も改めて感じたところです。
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