MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯333 少年法改正の論点

2015年04月16日 | 社会・経済


 今年2月に起きた川崎市の中学1年生殺人事件を受け、未成年者に対して原則として家庭裁判所が保護更生のための処置を下すことを規定する少年法の改正を求める声が大きくなっているようです。

 新聞報道によれば、自民党の稲田朋美政調会長と公明党の石井啓一政調会長は2月27日の記者会見で、未成年の刑事事件の手続きなどを定めた少年法を改正し対象年齢を20歳から18歳に引き下げたり、加害少年の氏名を報道することを禁じる規制を見直したりする可能性を示唆したということです。

 また、3月14日には、与党自民党が成年年齢に関する特命委員会の初会合を党本部で開き、少年法の適用年齢を「20歳未満」から「18歳未満」へ引き下げる改正の是非について、5月中に結論を出す方針を確認したと報じられています。

 PHP研究所が発行する 情報誌「Voice」の5月号では、このような世論の動きを踏まえ、批評家の小浜逸郎(こはま・いつお)氏が少年法の改正(対象年齢の18歳への引き下げ)の是非に関するいくつかの論点を提供しているので、備忘の意味でここに整理しておきたいと思います。

 今回の事件では、前述のように「未成年(少年法で規定された20歳未満)だからといって、残虐な犯行を犯した者をかばうような扱いはおかしいのではないか」、「実名や顔写真を公表することによって加害者に社会的制裁を受けさせるべきではないか」といった議論が、様々なメディアなどを舞台に行われています。

 一方、小浜氏はこの論評において、少年法の年齢規定を18歳未満にまで下げる理由を、被害者への同情心とか、被害者になり代わって応報や復讐や制裁をしてやりたいといった「感情的」なものに求めるべきではないとしています。また、「厳罰を科さなければ更生できない」、「厳罰を科すことで犯罪を抑止できる」といった単純な「厳罰主義」からも脱却するべきだというのが、この論評における小浜氏の立ち位置です。

 そもそも刑法は、被害者の報復感情の代行をするためにあるのではないというのが、この問題に対する小浜氏の基本的な視座となります。

 国家の法はその本質として、いかにして社会の公正な秩序を維持し国民に安寧を保障するかというところに眼目が置かれている。そして、少年法に関して言えば、それは非行少年に対して性格の矯正と環境の調整のために「保護処分」を行なうというところにあるということです(第1条)。

 「少年」は「成年」に比べて未熟だからこそ「可塑性」を残しているというのが、少年法の前提です。そのため、14歳以上20歳未満の「少年」が犯した刑法犯罪に対しては、「懲戒」よりはむしろ「矯正」に重きが置かれているのだと小浜氏は指摘しています。

 一方、現在の日本におけるこの年齢の少年たちは、肉体的には大人顔負けの体力をもち、性的にも成熟していることは明らかです。しかしその反面、彼らは家族による庇護・管理下から自立の途上にあって、精神的に不安定な時期に当たっています。

 社会人としての責任意識が十分に身に付いていない少年たちが、親や教師の目を逃れて犯罪に手を染める可能性が高いのは、昔から若者の常だと小浜氏は言います。まして今回のように、学校の枠組みからからはみ出し、だからといって仕事にも就かずに親もその状態にお手上げになっているような「少年」の場合には、そのリスクがもともと大きかったとのではないかということです。

 そこで問題となるのが、社会状況の変化に伴い「少年」と「成年」との法的な境目を「どこ」に置くかという論点です。小浜氏は、この問題を考えるに当たって押さえておくべき、いくつかのポイントを指摘しています。

 その一つは、近年、少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)は実は減り続けているという事実です。少年犯罪がマスコミによりセンセーショナルに報じられ一方で、少子化の影響もあり若者の犯罪は確実に減少しつつある。つまり、ある個別の事件があったからといって、それを根拠に「厳罰化すべき」というのは、現実を離れた短絡的思考に過ぎないということです。

 次に、厳罰化による犯罪の抑止効果は(科学的に)実証されていないという指摘です。氏によれば、少年犯罪には構造的な社会的要因が複雑に作用していることから、厳罰立法が必ずしも抑止効果をもたらさないことが最近の研究から明らかにされつつあるということです。

 一方、日本人の平均寿命が延び、そのぶんだけ大人になるのに時間がかかるようになったという議論があることも、認識しておく必要があるかもしれません。もしもこれが事実なら、法的な「成年」年齢の引き下げの動きに逆行する視点をもたらすものになるでしょう。

 小浜氏は、現代の日本において若者が大人になるのに時間がかかるようになったのはある意味で事実だとしても、それは、平均寿命が延びたからではないと考えています。

 そもそも何をもって、(自らの行為に責任を持つべき)大人になったとするのか。

 氏は、「大人」の概念は、「生理的大人」、「心理的大人」、「社会的大人」の三つに分けられ、文明が進めば進むほど、「生理的大人」と「社会的大人」との乖離は大きくなると説明しています。

 社会の仕組みが複雑になるにしたがって(「一人前」になるための)学習に要する期間が延び、親から経済的・精神的に自立するのに時間がかかるようになる。職業人や家庭人として社会の中で責任を果たせるようになるまでに、場合によっては20年以上の期間を要するようになっているということです。

 出生、成人、結婚、そして死などの人間が成長していく過程において、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼的な行為を、一般に「通過儀礼(イニシエーション)」と呼んでいます。古来、(一人前の)成人になるためにはこうした一種の儀礼的経験を経る必要があり、そのことによって人(少年)は社会の中で身分の変化を承認され、(大人としての)新しい役割を獲得することができるというものです。

 現代の日本の社会においては、こうした大人への「通過儀礼」として、「学校」が重要な意味を持っていると小浜氏は考えています。

 ところが、今回事件を引き起こした少年たちは、その学校からも疎外されていた。つまり、学校という現代版通過儀礼の場所と時間帯にまったくなじめなかったために、社会的な大人になるきっかけを失っていたということです。

 通過儀礼としての学校は、成績の良い子、学習意欲のある子供に対してはそれなりに意味を持つとしても、そういうモチベーションをもたない子供には、通過儀礼として機能していない。しかし一方、現代日本の社会制度にもとでは、高校を卒業しなければほとんど社会人として承認してもらえないのが現実だということです。

 違法行為にまで走らないとしても、生き方が定まらず、(ある意味「少年」の感覚のまま)あてどなくさまよう若者は現代日本に溢れかえっていると小浜氏は言います。そのため、勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいというのが、この問題に対する小浜氏の認識です。

 高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。氏は、少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、こうした大人化への道を明確化させる工夫(通過儀礼)の一つではないかと指摘しています。

 「君は今日から大人である」という社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずだ。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地から言ってももったいないと小浜氏はこの論評で述べています。

 現在、選挙権年齢の18歳への引き下げが具体的に議論されていますが、大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることに他ならないというのが小浜氏の見解です。

 運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかるように、車を運転する自由を獲得するということは、同時に道路交通法を遵守する義務と責任をその身に負うことに直結することになります。

 少年が大人になるには何よりも「きっかけ」が必要で、そうした重要な「通過儀礼」のひとつとして、成長の段階を見失った少年たちに対しても、(高校卒業年齢である)18歳を契機に「権利」と「責任」を(法的にも)しっかり与えるべきだとする小浜氏の見解を、社会の変化を見据えた現実的な視点として私も改めて感じたところです。




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