「労働生産性」とは、労働者1人が単位当たりの時間に生み出す付加価値のこと。より少ないインプット(労働時間)でより多いアウトプット(利益)が得られれば労働生産性は上がる、つまり、労働者の仕事の効率性が増すといという関係になります。
現在、日本の労働生産性は、主要先進国と比べるとかなり低いと言われています。公益財団法人日本生産性本部が昨年12月に公表した「労働生産性の国際比較 2021」によれば、2020年における日本の1時間あたりの労働生産性は49.5ドル(5,086円)で、OECD加盟38カ国中23位とされています。
一方、日本のGDPは、他国と比較してかなり上位(IMFの発表で2021年現在、世界第3位)に食い込んでいます。それでは、なぜ日本は、労働生産性が低いのにGDPは高いのか?
GDPとは一定期間内に国内で産み出された物やサービスの付加価値の総和を指しており、分配面からみれば(大きく言って)①雇用者報酬に②資本家の取り分と③固定資本などの減耗分を加えた額と定義できます。つまり、(他の先進国との比較において)①+②+③が大きいのに①が小さいのは、②と③の割合が大きいからという見方もできるということです。
日本の労働生産性が低い理由として、しばしば従業員の労働の効率の悪さが指摘されあたかも「労働者のせい」のように語られたりもしますが、どうやらそうとばかりも言っていられない。実際、現在、先進諸国と約1.5倍前後の開きが認められる日本の労働者の平均賃金は、GDP比でもかつて15%程度だったものが(現在は)6%程度にまで下がっているとの指摘もあるようです。
さはさておき、低賃金の下でこうしてどんどんと疲弊していく日本の労働者。そして(気が付けば)世界の中で大きく存在感を低下させている日本経済をどのように立て直していったらよいのか。2月2日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」が「一億総貧困化に歯止めを」と題する一文を掲載しているのでここで紹介しておきたいと思います。
数年前、安倍晋三政権の下で「一億総活躍」が政権の目玉政策として打ち出された。少子高齢化に伴う人口減少下で老若男女の誰もが活躍できる社会の実現を目指し、その実現によって国内総生産(GDP)600兆円を目指すものだったと、コラムはその冒頭で振り返っています。
しかし、現実はどうか。600兆円への道のりは遠く、世界に占める日本のGDPシェアは30年前の18%から6%程度に低下し、豊かさの指標ともされる1人当たりGDPは直近で世界24位にまで後退した。アジアでもシンガポールや香港の後じんを拝し、OECDによれば30年にわたり低迷してきた平均賃金も先進国で最低レベルだということです。
これでは、「一億総活躍」どころか「一億総貧困化」と言っても過言ではない。かつては世界をリードする日本企業は目白押しだったが、今やその面影はかすんで見える。多くの利益を生み、世界経済をけん引した多くの日本企業の労働生産性や資本生産性は低下したままで、企業価値向上に向けた動きも緩慢だというのが筆者の認識です。
その結果、株式市場が評価する日本企業は限られ世界企業との格差は開くばかり。国民も心得たもので、少額投資非課税制度(NISA)などで資産形成を始めた人の多くが米国を中心とする外国企業にウエートを置き、日本企業への投資は極めて限定的だということです。
日本経済はおよそ30年もの間、なぜこうした状況に陥ったままなのか。日本企業の低収益性については様々な要因が考えられると筆者は言います。そもそも一つの産業に参入企業が多すぎること、いまだに一括採用・終身雇用が主流で労働市場の流動性が乏しく人材が高付加価値企業に流れにくいこと。さらには、人口減少社会にもかかわらず労使ともに雇用最優先のパラダイムから脱却できないこと、商品やサービスに独自性が乏しくコモディティー競争に陥りやすいことなどが指摘されているということです。
しかし、そうした中でもより重要なのは、「一般国民の精神構造」かもしれないというのがこのコラムにおける筆者の見解です。典型例が「お客様は神様」「おもてなし」の精神というもの。お客様の無理難題に無償で応えている事例も、この日本では現在でもあまた見受けられる。オリンピック招致で有名になった国を挙げての「おもてなし」は貴重な概念だが、過剰奉仕で身をすり減らしているのが実態だというのが筆者の指摘するところです。
おもてなしはタダではない。労働には必ず対価が伴うことを、我々も常に意識しておく必要があるということでしょうか。思えば世知辛い世の中になったと言うことなかれ。今は、一億総貧困化に歯止めをかけられるか、新しい資本主義が問われているということです。
「SMILE=¥0」というのは一つの美学かもしれませんが、「付加価値」はプライスタグがついてこそ意味を持つ。商品やサービスの提供には対価が存在するという当然の意識を国民に定着せねばならないとこのコラムを結ぶ筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。
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