MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1389 理系の価値と文系の価値

2019年06月26日 | 社会・経済


 柴山昌彦文部科学大臣は4月17日、高校学校教育において特に普通科で文系の生徒が大学入試に不要な理系科目を勉強しようとしない現状を踏まえ、文系と理系の枠組みを超えた教科横断的な教育を推進することについて中央教育審議会(中教審)に諮問したと報じられています。

 文科省では今後、「文系」と「理系」に分断されがちな高等学校のカリキュラムの内容を抜本的に改めるなど、普通科教育の改革を進める方針だということです。

 また、4月22日に行われた経団連と大学による「産学協議会」では、春の新卒一括採用に偏りすぎている企業の採用慣行を見直すとともに、大学では文化や歴史、数学など文系と理系の良さを併せ持つ「文理融合教育」に力を入れるべきとの方向性が示されたとされています。

 振り返れば今から4年ほど前、国立大学法人評価委員会が発表した「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」という報告がきっかけとなって、(いわゆる)「文系学部廃止」問題が話題を呼んだのも記憶に新しいところです。

 もちろん、大学における文系教育が(仕事に)役に立っていないとか、文系卒の学生が企業で「使えない」というわけではないでしょうが、少なくとも現在の「文系教育」の在り方について各界から改善が求められているというのは事実のようです。

 理屈ばかりこねて合理性に欠けるバリバリの文系や、技術や細かな部分に注目しがちで大宗を見ようとしないガチガチの理系ばかりでなく、双方のよい部分を身に着けた冷静で広い視野を持った柔軟な人材が求められているということでしょう。

 そうした状況を踏まえ、4月25日の日本経済新聞の連載コラム「大機小機」には、今後求められる高等教育の在り方について『文系の「価値」』と題する興味深い一文が掲載されています。

 世界の大学ランキングを見てもトップ100にランクインする大学は42位の東大と65位の京大の2校のみ。アジアに限っても、東大・京大は今やシンガポール、香港、中国の大学の後塵を拝しており、「日本の大学に問題あり」とする声は依然大きいとコラムはその冒頭に記しています。

 平成の30年間にノーベル賞を受賞した日本人は17人と米国に次ぎ世界第2位で、理系の研究者は世界でも頑張っている。しかし、そうした大御所たちが口をそろえて訴えているのは、日本の科学技術の将来への危惧だということです。

 それとは別に、(理系はまだよいとしても)問題は文系だと筆者は厳しく指摘しています。

 実務が重んじられる昨今、そもそも文系の学問に「価値」はあるのかという議論が喧しい。理系の学問は経済成長に貢献するが文系の学問は何の役にも立たない…こうした見解が産業界の様々な人から陰に陽に様々な場で披瀝されているということです。

 しかし、このような「誤った認識」こそが日本経済の弱みにほかならないというのが、このコラムにおいて筆者が主張するところです。

 国内総生産(GDP)の基にある個々のモノやサービスの「価格」は、われわれがそれぞれのモノやサービスにどれだけ主観的に「価値」を見いだしているかを表したものにすぎない。したがって経済にとっては、結局のところ「価値」が全てだといっても過言ではないと筆者は言います。

 しかし、それにもかかわらず、理系の学問はこの(肝心の)「価値」について語ることはできない。価値は(あくまでも)文系の学問の守備範囲だというのが筆者の指摘するところです。

 例えば、ファストフードに対してスローフードというコンセプトがあるが、理系の学問はファストフードを可能にする機械を発明することはできても、それだけではスローフードをビジネスとして立ち上げる力にはならない。

 「技術」には、価値を実現する力はあったとしても、価値そのものを創造するのはあくまで人間の感性だということでしょう。

 創造的なイノベーションを促すのはあくまで人間の発想であり、そこの弱さゆえ日本経済が欧米の後塵を拝しているのではないか。確かに日本の企業文化は、その辺がまだよくわかっていないのかもしれません。

 単純化していえば、理系はハード、文系はソフトということになるだろうと記事は説明しています。文系はダメというのは、何のことはない、とうに卒業したはずの「経済はハード、ソフトはタダ」という古臭い考えの亡霊にすぎないと結ばれた記事の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。



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