昨日だと言うのは分かっていたが中山ラビ2021年7月4日18時46分に死去。
あの日ラビの息子さんから家で飲んでいたら亡くなってからさほど時間が経っていなかったがメールが来た。(息子さんがいるなんて知らなかった)
kitty時代、セカンドマネージャーやってた時があるが、ラビとの仕事が一番覚えているかもしれない。
どのくらいの期間、マネージャーやってたか僕は覚えてなかったが20数年前だったかラビのサイトをミッケて書き込みしたら、担当者がラビに連絡してくれ、ラビから電話がかかってきて、お客が少ないので来てーと言われ吉祥寺のライブハウスSTAR PINE’S CAFEに招待されカノジョ連れて観に行った。(ちょー満員で座れなかった!)。ライブ終了後、旦那さんに僕を紹介する時、『半年マネージャーやってくれた磯田くん』と言ったので知ったが、よく覚えているなーと感心した。
ラビに関して、仕事で写真撮ったのは1度ぐらいだと思うが、そのライブ写真は、まだプロというには恥ずかしいほどレベル低く、買ったばかりのスポット露出計を使った結果、アンダーになってしまい、ある意味失敗したと記憶している。(唯一の失敗ライブ写真だと思う)
ラビの写真はkittyにいた時、2年ほどやってたプロモーター(宣伝マン)の時に撮ったものだと思われる。(マネージャー時代はカメラ持ってないし興味無かったので)
⚪︎窓の前の写真は国分寺のラビの店「ほんやら洞」の前か?。
⚪︎座っている写真はラビのおちゃめなところが出ているが、これは週刊ポストの音楽担当だったノンフィクション作家の宮原安春さんにラビを会わせたら、写真撮ってきたら記事にしてあげるみたいな事言われ「ほんやら洞」の近くで撮影。
⚪︎ライブはどこで撮影したか記憶無い。
あと保存してある写真はポリドールのスタジオでネガカラーで撮影した紙焼きと、モノクロライブ写真ぐらいか。
今でもラビが「磯田くん!」と呼ぶ声を覚えている。
35歳ぐらいだったか、六本木のVOLVOに車見に行った時、セールスマンのNが営業マンぽくないので気に入り240ワゴン買った。
当時、大田区の人間は目黒支店でしか買えないと言うシステムがあるんですと言われたが、VOLVO乗ってるある有名なベーシストの名前を出したら、Nが担当だと言う事でベーシストの紹介と言う事で六本木支店でゲット。
240、2年乗り、740の後継車として940が発売されたので940ターボエステートに乗り換えたのは、当時、鈴鹿や仙台菅生のサーキットに行くのに240だとスピード出なかった為。
Nとは自由が丘や六本木で飲んだくれたり、家に遊びに来たりお客とセールスマンという関係というよりダチだった。
セールスマンぽい所が全く無いので、お客様みたいな接客求める客は、彼から買わないだろーが年間売り上げTOPになりスウェーデンのVOLVO本社からご褒美としてスウェーデンに招待された事があったが、本人行きたくないので僕に代わりに行かない?なんて言っていた。
車持たなくなってから疎遠になったが、時々名前を思い出すので検索したら、いくつかVOLVOの支店長やった後、現在、埼玉のゴルフ場の支配人になっていた。
当時ジァイアンツで活躍していた元木大介選手に似ていて時々言われると言っていたN。
でも奴ゴルフ興味あったのかな!。
(写真はカナダグランプリで撮影。アイルトンセナはすでに表紙になっていたので、こーゆーupの写真は撮らなくていいですと言われたので撮ってない)
おそらく今までで一番緊張した撮影の一つは、筑波サーキットでの鈴木亜久里さんの密着かも。
亜久里さんはまだf-1行く前で、グループA(確か)にスカジで参戦。
何で緊張したかと言うと僕はレースカメラマンじゃないのでピットなど入った事なかったからレースカーがどんな感じでピットに戻ってきて、スタートするのか分からない。なのでピットの一番端でずーっと観察。
ロックなどのlive撮影していたので爆音には驚かなかったので、レースカメラマンの人達がしていた耳栓は必要なかったし、逆にしていると怖いかもと思っていた。
とにかくタイヤに水をぶっかけスタートする時、リアタイヤをスピンさせながら出ていくので轢かれたらどーしよーと思っていたので、車がピットに戻ってきたら邪魔にならないよーに端に逃げていたと思うが、この時、亜久里さんが優勝し写真が評価され、これ以降、鈴鹿や富士スピードウェイなどで開催されるF-3000全戦にカーレーサーなど撮影する為、通うよーになった。(当時、キグナスのキャンギャルに、まだ無名の飯島直子さんがいたが、この娘は必ず有名になると思った。理由は他のキャンギャルと違って楽しそーに仕事していたのとオーラを放っていたので)
1年目は毎回取材passをサーキットで申請していたが、2年目はレースに貢献しているのが認められ年間passがもらえたので日本のどこのサーキットにもフリーで入れた。(左上のf-1のpassは別だが)
基本カーレースを知らなかったので面白かったが僕みたいなレース部外者photgrapherは他にいなかったので珍しがられたのかレースカメラマン達から親切にされた。
撮影していて思ったのは、音楽と違って、もしかしたら死んじゃうかもしれないと言う事。
なのでレース場での撮影は常に緊張した。
僕が1年密着撮影する事になってた1人、村松栄紀は、当時一番f-1に近いレーサーとも言われていたが、富士スピードウェイでのタイヤテスト中、激突死。
家まで撮影に行き、僕のvolvo240を運転したいと言うので運転してもらいvolovoもよくなってるねと言ってくれた小川等さんもスポット参戦だった鈴鹿でのF3000のレースで事故って亡くなってしまった。
楽しい思い出、辛い思い出色々あったが、カーレース部外者カメラマンの僕を表紙撮影などの為、ベルギー、カナダのF-1まで連れて行ってくれたGPXには貴重な経験させてくれ今でも感謝している。
みんな元気かな?。
横浜中央卸売市場の布施理事長の奥様のおかーさんが東洋英和出身者だと判明。
うちの母親より6歳ぐらい年下なので知り合いではないと思うが、年齢近かったら、共通の知り合いいたかも。
因みに母親のニックネームは「かすみ」
声が霞んでいたのでそー呼ばれていたとか、昔母親が言っていた。
当時おそらく1学年の人数多く無いので母親は上級生や下級生にも仲良い人がたくさんいた。
子供の頃、六本木の東洋英和で開催されたバザーなどに、よく一緒に行っていたので母親の友達は何人も知っているが、たぶん存命の人、いても1人ぐらいかもしれない。(布施さんのおかーさんは元気らしい。)
市場で国学院大出身者には会ったが、東洋英和の話が市場でできるとは思わなかったので嬉しい。
FBには前にもupした写真だけど、僕は英樹がまだ10代の時在籍していたブルーベリージャムと言う横浜(湘南?)のバンドの宣伝担当だったので、主婦の友の「ギャルズライフ」と言う雑誌の音楽担当、中村洋一(漢字合ってるかな?)さんに売り込み行ったらモデルで使いたいと言う話になり即決。
僕の家から車で5分ぐらいの所に住んでいた中村さんから磯田は来なくてもいいよと言われたが会社にいるより外出していた方が楽しかったので「一緒に行きます」と左ハンドルのフォルクスワーゲン シロッコで迎えに来てもらい撮影現場に。
横浜のドリームランドなどで撮影。カメラマンも有名な人だった。なぜかマネージャーの田中(通称ケル)もモデルに。
当時、まだカメラ(ローライ35T)買ったばかりだったので担当アーティストや音楽業界の友達などを撮っていた。これもその時の一枚。(たぶん撮影現場を見たかったのも同行した理由の一つだと思う)
実はその後、カメラマンになり取材に行くまで英樹がC-C-Bのリーダーだと知らなかった。なので会ってビックリ!。すでに売れっ子だった米屋の息子の英樹からは、昔撮った写真公表しないでね!と言われたが、これらの写真英樹には見せてないけど別に変な写真じゃないのでいいでしょ!。
ブルーベリージャムと言うバンドはレコード発売寸前、リードボーカルの伊東ヒロシ君が車で事故って歌えなくなった。
あの時、すぐに病院駆けつけたが、伊東君から何度も「すみません」と謝られた。しかし当分復帰は困難だったので代わりに小室和之君がリードボーカルになった。
全然売れなかったブルーベリージャムだったが関西ツアーに一緒に行ったり楽しかった。
英樹はいつもニコニコしていて、いいやつだった。
集合写真は関西プロモーションに行った時、機材車の前で撮影。
前列真ん中が英樹。その隣がボク!。
人生で1番退屈だったのは高校時代。2番目に退屈だったのは大学時代かも。文学部は片親(父親は10代の時急死)なので就職不利と言う母親の考えで、受けさせてもらえず、しょうがなくまったく興味無い経済学部受験。
國學院大は受験科目が少なかったので受けただけで、それ以外に理由はない。
出席したのは文化人類学と英語(テスト毎回満点)と当時、テレビによく出て来た樋口清之先生の授業ぐらい。経済はほぼ欠席。なので今でもクラスメートで名前と顔が一致するのは3人しかいない。3年間でほぼすべて単位取ったので4年の時、RCAレコードで半年バイトのプロモーター。これが人生最後のバイト。
最初のバイトは1年の時新宿のpitinn clubの前歩いていたらウェイター募集の張り紙あったのですぐ応募。履歴書が必要だと言われすぐそばにあるアドホックで買って現場で書いた。
これが初めてのバイト(高校時代はバイト禁止)だが目的はギブソンの175が欲しかったから。でも高かったので、その後、いくつか違うバイトし結局fenderのTelecaster Thinline (結果的にこれにして正解だったが)を五反田のTOC内にあった楽器店で購入。この時初めて領収書に「上様」と書くというのを知った。
pitinnのバイト料めちゃ安かったので、さほど長くはいなかったが辞めてからもしょっちゅう顔出し、タダでライブ聞かせてもらった。(皿洗いとか手伝ったのかもしれない)
左隣にイレブンと言うpitinnと同じ経営者が経営していた茶店があり、そこに可愛い女の子がバイトで入って来て、目の前の道路隔てた所に並んで座り彼女のアイシャドウが綺麗だったので褒めたのを覚えている。
あんまり部屋が暑くて辞めたバイト。クラスメートの親戚がやってるタクシードライバー相手のレストランでの皿洗いも、これも嫌ですぐ辞めた。結構続いたのはNHKの小道具係。
テレフィットと言う会社に登録して渋谷のNHKセンターに泊まり込みでスタジオに小物持って行ったりしていた。さほど忙しくなかったのでお料理番組や大河ドラマの収録をスタジオで見学したりしていた。
クラスメート(誰だが記憶無い)の紹介で高輪プリンスホテルの皿洗い。
駐車場が無料だったので車で行ったりしていた。
ほぼ毎日暇だったが、一度だけ結婚式の会館での皿洗い2人で担当だったがドタキャンされ1人で担当。ひっきりなしに皿など洗いもんがくるもんだからたまったもんじゃない。
おばちゃんたちも手伝ってくれたが、めちゃ大変だった。この時、バイトでピアノ弾いてる、たぶん音大の女子大生と少し話したりした。
高輪プリンス内のトリアノンと言う、高級レストランでの皿洗いが一番多かったが、ここは洗い物を機械に通すだけなので楽。ウェイターさんがコーヒー持ってきてくれたりした。
ガラスの小さな灰皿がかっこよかったので一つ拝借。結構長く、家にあった。
この頃にはギター買ってるが基本集団がダメなので家で1人で弾いていた。
この性格は子供の頃から変わってなく、小学生の時、友達がいないんじゃないかと心配した母親が担任に相談した事もあった。
集団嫌いはなぜ出席したのか記憶無いが一度だけ30代の時、高校のクラス会に出かけて行った。この時、なぜか高校時代話した事無い、当時不良だった連中が話しかけて来たのが面白かった。
それと一年の時の担任神田(こうだ)先生に二次会の時、エレベーター前で、みんなと離れて1人で立っていたら、「磯田は昔から、そーだったな」と言われた。
この先生は劇団など主催していて演出していたので観察力が鋭かったのかもしれない。
脱線してしまったが、とにかく高校は先生は良かったが生徒がバカだった。(一番仲良かった通称クラークは賢かったが)
大学は授業出ずバイト優先。でもちゃんと4年で卒業した後、kittyレコード入社。
でも集団が苦手で入社した時から他の仕事考えていた。
しかし母親の実家も渋谷の國學院のそば。バイトしていたRCAレコードも宮益坂上の仁丹ビルの前。就職したkittyレコードは宮益坂下った明治通り沿いのビルの上。
渋谷に縁あるのは間違いない。
※写真は一生懸命バイトして買った、今でも大事にしているfenderのTelecaster Thinline
(写真は書いた内容が嘘じゃない事を証明してますが僕はまだ身長伸びてる最中)
坂本龍一自伝「音楽は自由にする」を読んでいると自分はどーだったかな?と思い出すが、中学1年生の時、確か菊池と言う先輩に部員が少ないからバレーボール部に入ってくれない?と言われ入部。
入部理由の1つ。バレーボール部は部員が少ないから試合が出来ない。基本団体競技や試合嫌いなので好都合。部活にちゃんと出ていたので先輩から褒められたがド下手。やる気が無いのとスポーツ音痴だから。ただ陸上短距離、中距離などは意外と早かった。
水泳も水泳部の連中より早かったが、ある時、プールから上がったら先生に「磯田、顔にブツブツがたくさん出来てる」みたいな事言われ、すぐ帰宅し医者へ。自覚症状ないので痒くも痛くも無かったので人に言われなかったらそのままだったかもしれないが、薬ですぐ治ったと思う。
伊豆で波に揉まれて溺れそーになった事あるし、今まで住んだマンションすべて水回りのトラブルに遭遇。温泉も嫌い。水とはどーも相性が悪いよーである!。
そして入部2つ目の理由は身長伸ばしたかったから。うちは父親も長男も身長160センチ。母親は150㎝ぐらい。なので毎日学校から帰ると庭でジャンプしていた。
自分では記憶無いが牛乳たくさん飲んでいたらしい。170㎝を目指していたが1㎝足りなく169㎝。
自分で言うのも少し気が引けるが、意外と努力家。
やはり中学生の時、太ももが太いのが嫌だったので自分で運動考え毎日やっていたら細くなった。
ついでに書いちゃいますが僕が子供の頃から父親は髪の毛薄かったので高校の時、父親が使っていた養毛剤を付けたりしていた。髪の毛に関しては色々自分で考えてきたが、以前長男の小学校のクラス会に出席した時、兄貴はハゲちゃっているのに弟は髪の毛あるので不思議がられたし、長男がジャズシンガーの綾戸智恵さんのファンクラブやっていた関係で綾戸さんを銀座で紹介された時、
『あんたら親子か!』と言われたし、長男が知り合いだった作家の矢作俊彦さんに会った時「随分、年が離れた兄弟なんだねー』と驚いていたがおそらく15歳ぐらい離れてるんじゃないかと思ったみたい。
まー髪の毛に関しては色々試したが毛穴の脂を指で揉み出してから洗髪。洗髪は100円ショップでも売ってるシャンプーブラシ2個使用し洗う。シャンプー、リンス使わず、固形のオリーブ系の石鹸で洗い養毛剤など使わず無印で売ってるホホバオイルワンプッシュでOK。後はヘアーブラシでマッサージ。これがベストだと思う。
ホホバオイルはネーティブアメリカンにハゲがいないのは沐浴の時、ホホバオイルを使っているからと以前聞いた事あるので試してみたらビンゴ!。
まー試してみてください。
羊羹のとらやの女将さんの黒川さん。勝海舟の孫(ひ孫?)の五味さん。
現在立教大名誉教授で同時通訳者の鳥飼玖美子さんのおかーさん(旧姓田村さんだったのでタムちゃん)。弟さんとは小学低学年ぐらいの時銀座のレストランで一緒にご飯食べた事ある。玖美子さんは現在NHKの『太田光のつぶやき英語』出演中
十八代目 中村 勘三郎のおかーさん。二代目 中村吉右衛門のおかーさん。
おとーさんが駐ハンガリー公使だったので帰国子女の、みど(本名塚原みどり)はチェリストで旦那さんは映画音楽でも活躍し朝日ジュニアオーケストラ((現在のジュニア・フィルハーモニック・オーケストラ)を作った塚原哲夫さん。妹さんはクラシックのピアニストの井上 二葉さんで現在93歳(確か現役ピアニスト)
日産自動車創業者の1人、山本惣治さんの娘さんの山ちゃん(田園調布駅ロータリーの上の方に住んでいたらしいが、山ちゃんは環八沿いにマンション建て一階に中華レストランがあった上に住んでいた)
日本のアンデルセンと言われた巖谷小波(日本児童文学の先駆者で金色夜叉のお宮寛一の寛一のモデル)の息子さんと結婚し長男がフランス文学者でシュルレアリスムの世界で有名な巖谷國士さん(うちではクンちゃんと呼んでいた)のおかーさんのヨシ(旧姓吉村)は、最近まで「守人君元気?」と家に電話かけてきたが、昔と声が変わってないのですぐ誰だか分かった。僕の記憶に間違いなければ、高輪にあった森村学園に土地貸していたと聞いた事ある。
娘さん(ナナちゃん)が聖路加国際病院名誉院長の日野原重明の息子さんと結婚したヨっちゃん(環八沿いに住んでいたと思う)。亡くなる何年か前に家に電話がかかり、「イクタニです」と言われたので「あっヨッちゃん」と言ったら、すごく喜んでくれた。ヨっちゃんが亡くなった事はナナちゃんが電話で知らせてくれたが、ナナちゃんはおそらくお互いちっちゃな時にしか会ってないので記憶無い)
環八沿いには、もー1人住んでいた。旦那さん(とてもいい感じの人だった)がエクアドルやオーストラリアの大使だったミリコ。早死にしちゃったが長男はボーイ、次男はポーキー(太っていたから)、長女はジョイスと呼ばれていた。全員本名知らないが、ジョイスはアイルランド人と結婚してアイルランド在住。彼女とは今でも連絡取れるが、あとの2人もヨーロッパ在住だと思う。小学生の頃、ミリコが運転するでかいアメ車で久ヶ原の家に遊びに来たし、僕も田園調布の家に遊びに行ってる。近所に昔、清水ミチコさんがバイトしていた「pate屋」さんがあり、今の奥様(東洋英和出身)のおかーさんとミリコは仲良かったと母親に聞いていたので以前「pate屋」さん行った時、今の奥様にその事話したら覚えていますとの事だった。
目黒区三田に住んでいた岩立エミさん(漢字不明)の祖先はペリーと一緒に日本に来た人だと聞いた事がある。お墓は横浜山手にある横浜外国人墓地にあるらしい。エミのご主人、岩立 一郎(イワダテ イチロウ)さんはジャーナリストで日本テレビ放送網報道局顧問となり「NNNワイドニュース」キャスターを務めた事があり父親とも仲良かった。カッコいい紳士だったのを覚えている。三田のマンションは坂の上にあり見晴らしがよかったなー!。
写真好きだがカメラに興味が無いと言うかよく分からない。つまりメカ音痴。
なのでCP+行っても大して面白いと思った事がないので、今年はパス。
何年か前、CP+行き販売店で皮のネックストラップを500円で購入。
あとでヨドバシで調べたら4000円もするものだったので、めちゃ得したなと思ったぐらい。(翌年にも行ったが、その手の物は売ってなかった)
とにかくメカ苦手な人間なのでフィルム時代も日芸写真学科出身の従兄弟に、何買ったらいいかと尋ねたらnikon全盛期にCANONF-1が良いと言われ買い、フィルム時代はCANON一辺倒。
デジタルに関しては、橋本さんから『MoiMoi。さん(僕の事です)はSONYがいいんじゃないかな?』と言われコンデジからずーっとSONY派。
コンデジ買った当時、CANON一眼は液晶画面がチルト出来る商品なかなか出さなかったのもCANON離れの理由。
CANONは写真はファインダーを覗いて撮るもんだと言う、ステレオタイプ(固定観念)があったんじゃないかと勝手に思っているけど結果的にミラーレスなど考えるとSONYにして大正解だったと今のところ思っている。
どっちにしてもミラーレスのような小型高性能のデジカメが出現しなかったらコンデジレベルのデジタルカメラで今でも撮っている事でしょ!。
初めてのミラーレスはSONY NEXT5T。買って1年と1ヶ月でレンズぶっ壊れ修理に出したら買った方がお得と言われヨドバシ横浜にいた顔見知りのソニー派遣のIさんに相談したらα6000をヨドバシ価格より大幅に値引きしてくれたのでゲット。
これも後で考えたら、めちゃラッキー。
α6000買っていなかったら、今のように仰山写真撮ってないと思う。つまりお散歩カメラ程度にしか写真撮ってないと思う。
NEXT5Tはあげちゃったので、現在使用しているミラーレスは、α7Ⅳとα7IIIがメインで、お散歩カメラとしてα6000。
α6000はバウンス出来るストロボ内蔵と言うのがめちゃ便利。
α7Ⅳはフィルム時代やってたピント合わせが瞬時に出来るのでめちゃ気にいっている。これに85㎜(f1,8) α7IIIに20㎜(f1,8)を随時装着して撮影している。ミラーレスはゴミが入りやすいので、レンズ交換したくないのも理由だけど。
小学生低学年の時、父親の友達だった森繁久彌さんが日本テレビの番組に出演(おそらく父親が出演依頼したものだと思う)するので一緒に行った事があるが当時、親が自分の勤めている会社に子供を連れて行くなんて珍しかったんじゃないかな。
この時、部屋で森繁さんに「趣味は何かな?」と聞かれ「何でも趣味です」と言ったら会話終了してしまったが、今考えてみても間違った答えでは無かったように思われる。
日本テレビのすぐそばにあった寿司屋にもよく食べに行ったので結構何度も行っているのかもしれない。
当時まだテレビ塔もあった。永六輔さんが日本テレビの下に家があったみたいな事をラジオで言っていたけど、それは覚えない。
父親がクレージーキャッツの犬塚弘さんは感じがいい人だったよみたいな事を言っていたのを覚えている。
父親は芸能ではなく報道局だったが当時は局員も少なく、人気番組「光子の窓」のプロデューサ、井原(高忠)さんや「11pm」のプロデューサー後藤(達彦)さんの名前などは家でも聞いた事がある。
松崎 真さんと言う、後に笑点で座布団運び役で話題になった俳優さんと仲良かったみたいで、どこかの駅で父親を見かけ「磯田局長ー」と大きな声で呼ばれた事を楽しそうに話していたのを覚えている。
とにかく友達が多い人で、いろんな会社の社長などとも交流あったらしい。
この性格を僕はまったく受け継いでいなかったので、どっちかと言うと1人でいる方が好きだったが、横浜引っ越してきてから性格変わったみたいで人と会うのが苦手では無くなったかも。
なんて事を思い出している今日この頃。
(写真は父親のお通夜に久ヶ原の家に来てくれた森繁久彌さん。葬式は日本テレビの社葬だったので写真も日本テレビの人が撮ってくれたので色々残っている)
16年前のこの時期引っ越し場所を探している最中だと思い昔のこのブログを読んでみると大倉山、菊名近辺歩き回っている。
22000歩以上も歩いたなど書いている。
とにかく気に入った場所に住みたかったが、これと言ってイメージ無く東横沿線新丸子駅から菊名まで徘徊したがビビっと来なかった。
最終的に不動産屋さんの細田さんが探してきたのが横浜の今のマンションだが、東京に近い川崎近辺で探していたのでここまで来るとは考えてなかった。
でも段差もなく、机なども角が丸くいろんな面で条件一致。
さっさと引っ越さないと久ヶ原の家の取り壊しの時期が迫っていたので結構焦っていたかも。
たぶん引っ越した翌日には取り壊されたと思う。
6月6日に横浜に引っ越してきたけど、この年の前半は精神的にも肉体的にもそーとーキツかった。
時々思い出し音楽業界のダチ(東京時代はダチは仕事仲間しかいなかった)などに当時の事を話すと、まーみなさん、ひでーとんでも無い事に巻きこまれたなと驚いている。
ただ流れに任せて逆らわなかった事が逆によかったんだと思う。あとで知った事だがあの年は僕にとって12年に一度の大ラッキー年だと判明。
次の12年目には何も無かったが、、、。
写真は僕が生まれ育った久ヶ原の家の跡に建てられた家。
音楽本、アート本、写真家本、歴史本、脳関係本、小説など何冊か同時に読んでいるが、この本が一番重い。
曾祖父小山松吉が司法大臣になる前、検事だった時期に担当した「大逆事件」(1910年, 明治天皇暗殺を計画したという口実で幸徳秋水 らの社会主義者が 処罰された事件 )
読み方「たいぎゃく」なのか「だいぎゃく」なのか知らないぐらいなんも知らなかったが、だいぶ前に買ったこの本よーやく読み始めた。
幇助犯の幸徳秋水についてはこれを担当していないとウィキペディアには書いてあるが無実の人がたくさん死刑になってる。
偶然だけど解説を法政大学総長の田中優子さんが書いているが、曾祖父さんも司法大臣辞めた後、法政の総長やってる。
おそらく読み終わるのに時間かかると思うが、以前、佐野眞一さん著の「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」(上)を読み終わるのにも、かなり時間がかかった(「下」はまだ読んで無い)が、これは父親(磯田勇)が毎日新聞社会部記者から日本テレビ開局と同時に転職し、報道局長、編成局長など経て常務になったが、毎日新聞から読売系の日本テレビの社員になり取締役になれたのは正力さんに可愛がられたからと母親が言っていたのが気になったので。
正力さんは、かなり強引なところがある人だったよーだが、うちの父親は猛烈社員と言う感じの人では無く、優しい人だったが激務だったせいか心臓痛め常にニトログリセリンを持ち歩いていた。
医者が心臓に関してもう大丈夫だと言うので友達と静岡県に釣りに行き、旅館に帰って来た途端、庭で倒れたと友達(仲良かった西岸良平(3丁目の夕日の原作者)さんのお父さんだったかな?)から聞いた。
最後の言葉は「だいじょうぶ」
僕はこんな事があったので、ずーっと医者を信用しなかった。
当時、日本テレビの相談役だったと思うが、生きていれば、一番の部下だったドキュメンタリー映像作家の牛山純一さんの会社「日本映像記録センター」の会長だったか顧問になるはずだった。
僕が父親の姿を最後に見たのは、釣りに行く時、迎いに来たタクシーの後部座席に座った父親の後ろ姿。
葬式は日本テレビの社葬だったので家族は何もしなかった。
父親が亡くなる少し前、母親に葬式は立教のチャペルでやりたいと言っていた。
なんとなく予期していたのかも。
大学は早稲田だが(その頃からの友達は森繁久彌さんや韓国のサムスン創業者の李秉喆さん)中学は立教だった。
誰が手配してくれたのか分からないが、立教のチャペルで葬式出来たのは父親が洗礼を受けていたからだが、これに関して母親も知らなかった。(クリスチャンネーム マルコ)
自宅でのお通夜及び立教チャペルでの葬式写真も日本テレビの人が撮ってくれアルバムにしてくれた。(お通夜には森繁さんが、葬式には大島渚監督がいらしてくれた)
お通夜の時、家の前を通行止めにしたのは知っていたが、この写真見るまでどーゆー状況かは知らなかった。(左に見える三角の屋根が久ヶ原の自宅の玄関)
僕が父親から毎日新聞時代に出した朝鮮動乱の号外の話など聞いたのも、たぶん亡くなる少し前だと思う。
実は、この号外を昔から探していたが、なんと横浜日本大通りにある新聞博物館で何年か前に朝鮮動乱展があり、展示室入り口入った所に展示してあった。事情を説明したら博物館がコピーしてくれ送ってくれた。非常に貴重な号外だとメールに書いてあったが、向こうも号外出した時の話をメールで送ったのでびっくりしたと思う。
これも横浜引っ越してなかったら出会えなかったものだと思う。不思議な縁を感じる。
曾祖父さんの話より父親の話の方が長くなってしまったが、父親が亡くなって51年。
父親は多分自分が死んでいると思って無いんじゃないかと思うのは、横浜引っ越して来る時、奇跡が起こったから。
詳しい事は書かないが、これは父親が僕と母親を守ってくれたからだと思う。
パパに感謝!。
『2001年、海外でリリースされたパワーポップのオムニバスアルバムに日本人として唯一収録されたことから欧米で注目され、近年、若い世代からも「パワーポップの先駆者的な存在」と再評価されているThe BADGE』と書いてあった。
そーなんだ!。
で、このバンドThe BADGE(バッヂ)のファーストシングルのジャケ写を1982年、横浜赤レンガ倉庫で撮ったが、今回4曲入りアナログ版が発売され僕が保管しておいた別バージョンのモノクロ写真がジャケ写に採用(たぶんこっちの方が僕は気に入っていたんだと思う)。そして現物が送られて来た。
(これが昔発売されたシングル)
The BADGEのプロデューサーだった保科君とは去年多分35年ぶりぐらいに再会したけど、まだphotographerになりたてで名刺すら作ってない僕によくこんな写真を撮らせてくれたなと今でも感謝。
保科君に言わせると横浜赤レンガ倉庫で撮ろうと言ったのは僕だと言う。覚えてないけど間違い無いでしょ。
とにかく僕にとって初めてのジャケット撮影。横浜赤レンガ倉庫周辺歩き回って何カットも撮影したと思う。
手元には写真残ってないが『ジャストワンキッス」の3人ドアの前に立っている写真も覚えている。
うちにはレコードプレイヤー無いので聞けないのが残念だが、とってもうれしい。