山下達郎の「WINDY LADY」↑が入ってるアルバム「サーカスタウン」と桑名正博の「WHO ARE YOU?」。
この2枚が、オイラがプロモーターとして最初にかかわったアルバム。
この「WINDY LADY」
今聴いても、かっちょいー。
ベースはウィル・リー(ある雑誌で表紙撮った事がある)
ドラムはアラン・シュワルツバーグ。
アルトサックスソロはジョージ・ヤング。
レコード会社にバイトで入り「ステーションに行くよ」と先輩に言われ、ステーションがなんだか分らなかったオイラ。(放送局の事)
シュガーベイブ解散して初ソロデビューの山下さん。
ファニーカンパニー解散して初ソロデビューの桑名さん。
東西、こんな凄いアーティストのソロデビューアルバムのプロモーションを大学生アルバイトプロモーターにやらせちゃっていいすか状態。
なにを考えているのかRCAレコード。(理由は分っていたが)
だいたい、こんな一押しアーティストのアルバムを同時期に(発売月覚えて無いけど)出すなんて!。
山下達郎さんに、当時プロモーションビデオを作りたいと言われたが、オイラ、何が何だか分らず、上司に提案出来なかった。(だめな社員。と言ってもアルバイト)
めちゃ時代を先取りしていた、山下さん。
しかしオイラ、仕事していて対人恐怖症なのか、人と話すの、めちゃ苦手な事が判明。(相手によるけど、今でもある)
なのでずーっと前にも書いたが、集英社の月刊プレイボーイの大パーティー(ホテルの会場にバニーガールが仰山いた。大学生には目の毒だったが、ちゃんと目を開けチェックしておりました)終了後、
『お前、酒飲むとしゃべるじゃないか』
と先輩に言われ、そのまま酔っぱらいのオイラ、タクシーに乗せられ、RFへ(ラジオ関東[現ラジオ日本])
そして井上さんと言うディレクターにジュリエットと言う横須賀のバンドを番組ゲストとしてブッキングするのに成功。(しかし酔っていたのに、よく憶えているな)
だけど素面だと、やっぱりしゃべりは苦手。(これじゃプロモーター失格。3年前だったか、赤レンガ倉庫でネット中継やった時も、毎日何かしらアルコール飲んで、しゃべっていたのであります)
辛くなって、半年でRCAのバイト辞め大学戻り卒業してKITTYへ。(やはり音楽関係の仕事をしたいと思っていた)
このレコード会社でも会議中に「オマエ 何言ってんのか分らない」と言われたが、話している自分だって支離滅裂で分らないんだから他人が分る訳ねーよなと心の中で思ったのを憶えている。
こりゃ人前で話す仕事は、やっぱ無理かなと思っていた(人と話さなくても良い仕事なんてあるんかいな)ので、何か違う仕事を密かに考えていた。(ホント相手によるんだけどねー。会議などは、ちょー緊張しちゃって今でも苦手。余計な事言って嫌われる。あーヤダヤダ)
でも、バカな企画を考えるのは好きだったよーで、RCサクセションの「雨上がりの夜空」のプロモーションは飴(雨)、お茶(上がり)持ってステーション回りなどした。(これは当時CBSソニー[現ソニーミュージック]が得意としていたやり方)
オイラは、雨上がりなんだから靴磨きセットがいいじゃないのと提案したが、確か予算の関係で却下されちゃった。
まっ基本、宣伝関係嫌いじゃない。
なので今でも、TWITTER、FACEBOOKなど活用しネット中継告知を、バカなコピーを書いたりして宣伝している。
さて。KITTY時代のある日、先輩(青木さん)がカメラ買いに行くというのでヨドバシ同行。
なぜかオイラ、ローライ(ドイツ製)の小型カメラ購入。(カメラ欲しかったのか)
青山学院の横にあったバー『ブラックバード』で毎晩飲みながら友人、同僚、業界仲間を撮影。
この頃から、カメラマンになりたいと思っていたが、回りからは止められた。
ある人に「いい年して」と言われた。
今では考えられないが、20代でそんな事言われる時代だったのね。
転職なんて、ほとんどしない時代だったのかも。
今まで積み重ねてきた仕事の実績を無駄にするなみたいな事をFM東京(現TOKYO FM)の外部制作会社にいたOと言う男に言われたが、別に大した実績なんたー無いと思っていたオイラにとって、どーでもよかった。(Oとは、その後、嫌な事があったので決別した)
カメラマンだったら、しゃべらなくてもいいんじゃないのと思っていたのと、1人で出来るのがいいなと思ったオイラ。
キャノンのF−1購入。
当時、まだまだニコン全盛期。
なので担当アーティストの取材で来たプロのカメラマンに、見せてと言われた事もある。
「ホントはニコンが欲しかったんでしょ」と言われた事もあるが、その後、キャノンが主流の時代に突入する。
KITTY4年で、とっとと退社。
退社する前、有給休暇すべて使って1月2日に成田を経ち、パリへ。
そのままパリに居着いたってーんだったらカッコいいけど、2週間後に帰国。
「オマエはプロモーターであって、カメラマンではない」とトップに言われて、さっさと辞表。
バカなトップだと思ったね。
自社のアーティストのライブなども撮影していたんだが、その写真を宣材に使えば、わざわざプロに頼む事ないじゃん。
週刊ポストは中山ラビの記事が掲載された時、オイラが国分寺で撮った写真を使ってくれたんじゃなかったかな。
ロッキング・オンにはRCサクセションの写真が掲載されたし。
会社の先輩達にはオイラの写真の評判よかったんだけどね。
まー、ワンマン会社だったので、どーしよーもなかったけど、今はレーベルしか残っていないんじゃないかな。(もちろん、当時のスタッフ誰もいない)
退社した後、2ヶ月アシスタントした後、なーんも写真、カメラの事など分らないのに仕事来ちゃった。
失敗だけはするなと親分に言われていたので、ストロボの使い方など色々変えて撮影。
今でも憶えているけど、何処かのホテルでアイアン・メイデンのギターリストを撮影した時、
「面白い撮り方するね」と言われたが、失敗しないよーに、色々試行錯誤して撮っていただけ。
しゃべるの苦手なオイラでもカメラ構えていると意外と話せた。
ある意味、オイラにとってカメラは性格改善手段だったかも。
カメラがあれば出不精なオイラでも外出する事多くなるんじゃないかと思っていたし。(引きこもりの人にカメラ持たせると、いいんじゃないかなと思ったが、そんな簡単な事ではないか)
そして時が経ち、I-MAC購入。
回りにMACユーザーしかいなかった。
PCなんて,誰かに教えてもらわなければ、なーんも分らん。(今でも分ってないので、分らない事はすぐ聞く)
PC買って、何が一番良かったかというと文字が書ける事。
オイラ、メチャ字が汚いので、PC買うまで文章なんて書いた事無い。
別に国語が得意だった訳ではない(むしろ苦手か)が、今こーやって文章書ける事がとても嬉しい。
色々思い出したら、長文になっちゃったよ。ゴメンおやすみ。