12・12・19
今、毎朝天風師の誦句集を一章
ノートに書き写している。
大晦日には「修道大悟の誦句」を書き写し、
感動を味わいながら今年を終ろうと思っている。
天風師の安定打坐考抄の後半部分「無我一念」を
ノートに丸ごと書き写して以来、
露伴の「五重塔」樋口一葉の「十三夜」「にごり絵」を
書き写した。
書き写すことには目で読むのと違う
別の何かが働き、
理解度が数段深いような気がした。
次に何を書き写そうか…、と考えていたが、
決まるまでの繋ぎとして
天風師の誦句集を書き写すことにした。
一〇分か二〇分程度で書き写し作業は終わり、
文章も完結してしまう。
書き写し作業として取り上げるのは
短すぎる気がした。
従って短篇小説ぐらいの分量が適当だろうと思っていた。
かぼちゃの絵が描けたのは
絵を見て描いたからだと、思った。
かぼちゃを絵として捉え、絵に表現する。
捉え方、表し方を真似ることで理解できた、と考えると
天風師の誦句集も天風師が捉えた宇宙真理を
天風師の言葉そのものを書き写すことで捉え方が分かる。
小説を書き写すように描写の仕方、進め方など
身に着けようと思って一冊丸ごと書き写す。
誦句集は分量としては二〇行か三〇行、
深く入り込む以前に終わってしまう、と
今日まで考えていた。
実際は全く反対のこと、率直に語られていて
スッと入り込むことが出来る。こうしたことが、
かぼちゃの絵が描けたメカニズムを
気付かせて頂いたように思う。