先日、"あなた、エニアグラムのタイプ何?"という質問を受けた。
何度か繰り返すが、僕は一貫して4番である。
※ちなみにこれを聞いてきた人は6番だった。
最初にこれをやったのはこのBlogに手を染める前だったのだが、
白百合女子大の文化祭に行った先、ふらっと立ち寄った教室で友2人となんとなくやった思い出。
3人ともタイプ4だった気がするが…果たして真偽のほどはどうだったのかね。
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"あらゆることを、個人的に解釈し、自分の世界に没頭して孤立します。
非現実的になり、どんな圧力も受けない幻想の世界に生きます。"
なんて言われちゃっている4番の人。
このあたりは2008/1/30でも話題にしている。この歳になって改めてやった結果、何番だった…
という話ではなく、昔やって4番だったという結果が、昔と今とで別の意味を持って感じられるという話。
昔は、真実はともかく自分にとって心地の良い言葉、たとえば"芸術家肌"みたいな褒め言葉とかを、
実際は何も持たない自分への励ましみたいな形で使っていたと思う。
今は、"自分の世界"という言葉が使われていることの意味を考える。
"自分の世界"というけれど、それって何ですかという話。
"自分の世界"を持っている人が、自分の心の働きの一部を観察して、
"あっ、このことを周囲で自分の世界と表現されているのか"などと洞察しているとは限らないのである。
目に見えることなのか、匂いのするものなのか、甘酸っぱいのか、
さらさらふんわりしているのか、ざわめいているのか。
何を中心にイマジネーションを繰り広げていくと答えに辿り着くのか。
それから、人は誰でも自分の世界を持っているものではないのか。
そんなことを考えながら、自分が没頭すると言われる世界とやらを整理した。
僕の場合は以下のような構造を持っているようだ。
よって、タイプ4と言われたときに、確かにそういう世界は持っている、ということになる。
"そういう世界"
ひとつの部屋があり、そこに入れ替わり立ち替わりで人が出入りする。
鮮やかさ(大方期待感を形にしたようなもの)を結晶させた鍵だけがドアを開ける。
部屋の中の人は現実非現実関係なく出入りするし、一度に入れるのはせいぜい数人。大抵一人。
ドアを開けた先も広さや風景は決まってなく、ドアを開けたら同じフロアに螺旋階段が広がることもある。
10代後半くらいから、ひっそりとドアが建ったことを悟り、決して廃れず今に至る。
本業が希望に満ちていればこの部屋は本業での希望に満たされる。
現実はなかなかそうはならないのであれば、
外部からの暖かな夢を呼吸してこの部屋に閉じ込める。
この行為は現実逃避的だが、
現実に立ち向かう人の中で明るい光や夢を他に示せない人が一定数いることを思うと、
単なる無駄の塊ではない。
自分の世界のドアを開けてどこかの惑星の花束を人に差し出すことが自分の役割なのだと思った。
だから僕は夢の呼吸を続けていかなくてはいけないのだと思った。
◇
似たようなことを考える人が、たぶん、世界の9人に1人、いるのかどうか…いないかな。
なんだか恥ずかしい話だけど、やっぱりこの手の記事になると筆が進む。