昨日はお寺参りに行ってきました。
お寺さまは仏事、法事事ではいつもお世話になる処と言う理解でいましたが、春夏秋そして冬と門徒としての取り組みも結構色々とあるようです。
これまでは両親そして、今は母が毎年取り組んできてたものですがこの1年家にいてお寺さんがいつでも近いものだなと感じたりしています。
宗派は「浄土真宗」だそうで、西光寺と言うお寺さまになります。
昨日はその西光寺で親鸞聖人への「報謝講」という法要があり、参座させていただきました。
法要のあとに説法での講話があり、報恩と老いの話がありました。
とてもわかりやすい良い話でした。言葉の意味や象形文字などを検索して言われてたことの理解を深めようと帰宅してHPなどで検索してみました。
(HPからの抜粋)
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
現代人は、モノの豊さだけでは究極的に幸せにはならないということを気づきはじめています。むしろ、「みずみずしく生きたい」とか「意味のある人生を送りたい」とか「人間らしく生きてゆきたい」という願い・・・
報恩とは・・・
「頂いている恩に気づく事(知恩)」が出来たら、今度は「自分も誰かに恩を送ること(報恩)」をします。つまり自分も誰かに自分の出来る事で「恩を送る」という行為が大切です。
「恩」を自覚したら、今度は「恩」を送って「恩の循環」をしてあげましょう。それは巡り巡って自分を幸せにする行為です。
「ありがとう、と言おう」「ありがとう、と言われよう」と意識して行動する事が大切です。
※これはHPから切り取りしてきたものです。が、このようなことを言われていました。
老いについて・・・老という字は象形文字で「腰を曲げて杖をつく老人」からの文字だそうです(以前にも別の機会に文字の作りは聞いたことがありますが調べるのは初めてです)
「腰を曲げてつえをつく老人」の象形から「としより」・「老人」を意味する「老」という漢字が成り立ちました。
参考:「老」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 (okjiten.jp) ←こちらからの抜粋
話の中で医学、医療の進歩で人は150歳まで生きていられるようになる可能性があるそう。更には老いも克服して若返ることも可能になってくるかも知れないそう。
はてさて、健康寿命で生きていたいとは思い願うが、人はそこまでの長生きを望むものか・・・というもの。
人生50年と言われた時代がから、僅か30年で人生80年となり、今は人生100年とも言われてます。
年は取りたくないものですが、自分を支えてくれてた骨にも、新たに支えてくれる杖にも感謝なんですね。
たぶんそのことに気づくのが自分自身がそのような状態になってからなのかもしれません。
親への恩もそうかもしれない。親がいなくなってああすれば、とか思うこともあるのでしょう。
恩はいただいたその相手に返すことだけでなく、他者に送ることも出来ると考えればいつでも自分が出来ることで誰かが喜んでくれるかもしれないことを知ることは生きる目的、生き甲斐にもつながるかもしれない。
心の中に留めてこれからの歩みの糧に出来たらいいなと思いました。
老いること。誰も好き好んで老いているものではない。
「生と死」は生きるものとしての自然の摂理で老いるということも同じことなんだろう。
老いも受け容れて。自分が出来ることを精一杯にやり遂げていくことがいつの日か「よい人生だった」と思えるのかも知れない。いつの日かは誰にもわからないことだから。
とりあえず、今は母に思いを傾けで「老老介護」ガンバロー( *˙0˙*)۶
あっ(°д°)お孫ちゃんにも。子供たちにも。そしたら奥さんにも。思い傾けて・・・いけるかなぁ(笑) 無理しないで出来る範囲でいいんだよ
12/8 16時38分