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安全? それとも危険? ドライバーが思わず見とれる「3D道路標識」

2016-05-01 19:10:01 | 日記
安全? それとも危険? ドライバーが思わず見とれる「3D道路標識」

 3D道路標示は、路面に立体的に道路標示をプリントすることにより運転手に注意を向けさせる仕組みだ。だが、逆に運転手を驚かせて急ブレーキをかけたりしてしまい、かえって危険だという批判もある。

仕組み自体は新しいものではないが、その価値(と秘めたポテンシャル)に見合うほど、3D道路標示はいまだ普及していない。

インドでは、グジャラート州で2人の女性が実に驚くべき「横断歩道」を発表した。縞模様のごく普通の横断歩道は無視されがちだが、彼女たちの横断歩道はドライヴァーの目を錯覚させることで、存在感のある「障害」が目の前にあるように思わせるものだ。結果、ドライヴァーは周囲に注意を払い、スピードを落とすようになる。

この仕組みにはネガティヴな意見がないわけではない。例えば、カナダで学校の近くの道路に描かれたもののような極端な場合だ。ボールを追いかけて突然飛び出す少女が描かれているが、本当に突然飛び出してくるように見える。これにはドライヴァーが驚くあまり、急ブレーキを踏んだりハンドルを急に切ったりすることになると指摘された。とはいえ、実際に舗装において段差を設けるよりも、3D標識のほうがずっと経済的なのは事実だ。

また、ドライヴァーの安全にとっても効果はあるはずだ。死亡事故も含む自転車事故は、あまりに多くの犠牲者を出しており、イタリアにおいては、1日あたり死者9人、負傷者は688人というデータが出ている[ACI(イタリア自動車クラブ)とISTAT(イタリア統計研究所)の最新データによる]。

3D横断歩道を見てわたしの頭に最初に浮かんだことは、自転車ライダーにとっての安全性だ。このシステムは、自転車レーンをより理想的なものにしてくれるだろう。最も安全な自転車レーンとは、車道よりも高く盛り上げれられた自転車専用道だとよく言われるが、そのためのコストは高額で、実現するのにも比較的時間がかかる。その点、3D道路標示は素晴らしい代替となる。自転車レーンにクルマを駐車してしまうのを断つのにも有効だろう。

 


【藤本欣也の韓国探訪】36万本が咲き乱れ…軍港・鎮海の桜に秘められた日韓110年の歴史を紐解いた

2016-05-01 15:07:39 | 日記
【藤本欣也の韓国探訪】36万本が咲き乱れ…軍港・鎮海の桜に秘められた日韓110年の歴史を紐解いた


1912年に建てられた鎮海郵便局はロシア風の建築物だ
 日本の桜前線は北海道まで北上し、今年の桜も閉幕を迎えつつある。昔から日本で“花は桜木”といわれてきたように「桜=日本の花」のイメージが強いが、実は、お隣の韓国でも桜を十分に堪能できる。日本的なモノには極めて敏感な韓国でなぜ桜が多いのか。素朴な疑問を抱いて、韓国最大の桜の街、鎮海(チネ)を訪ねた。(鎮海 藤本欣也、写真も)

 韓国南部・慶尚南道の馬山(マサン)からタクシーで30分も走ると、昌原(チャンウォン)市鎮海区の中心部へ至る桜並木に入った。道の両側に延々と桜が続く。

 「この時期は韓国中から人が押し寄せます。桜より人を見に行くようなものですよ」。50代のタクシー運転手が笑った。

 訪れたのは4月3日。1年で最もにぎわう桜のフェスティバル「軍港祭」が2日前に始まったばかりだった。最初の日曜日となったこの日は時折、小雨がぱらつく曇り空。天気が下り坂という予報があったため、前日の土曜日に繰り出した人が多く、「今日の人出は少ない方でしょう」と運転手は予測してくれた。

 とにかく、街の至る所に桜が植えられている。その数、実に約36万本。桜の種類は異なるが、日本随一の桜の名所、吉野山が約3万本というからその規模が分かる。街全体が桜の名所という感じだった。

 軍港祭という名前が示す通り、鎮海は韓国海軍の要衝である。海軍士官学校があるほか、海軍を統括する作戦司令部も、2007年に釜山に移転するまでこの地に置かれていた。そして日本の統治時代には、旧日本海軍の基地が築かれた軍事拠点だったのだ。

 街並みと海を見渡せる高台で車を降りた。日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った連合艦隊は、まさにこの鎮海湾から出撃していったのだという。

 軍歌「同期の桜」や特攻兵器「桜花」など、日本の軍隊と桜は切っても切れない関係にある。至る所に桜が植えられている理由が分かったような気がした。しかし-。

 「ええ、日本人が植えたのは事実ですが、解放(終戦)後にそのほとんどが切り倒されたのです」と運転手。ということは、街中の桜は一体、だれが、なぜ?

    □ □

 鎮海の中心部にある軍港郷土歴史館を訪ねると、「日帝(日本統治)時代に植えられ、解放後に伐採された桜の切り株」が展示されてあった。

 「日本人たちが植えた桜の木は解放後、植民地の残滓(ざんし)を清算するという名分で瞬く間に切り倒された」との説明文が付けられていた。経済難の時代だっただけに、生活の燃料用に使用されたことも多かったようだ。

 だが、今の桜は誰が、どういう経緯で植えたのかが分からない。地元紙、嶺南日報の記事に手がかりがあった。

 「1966~80年代中盤、在日同胞と日本人たちが桜の苗木約6万株を鎮海へ寄贈した」(2012年8月31日、電子版)

 在日同胞とは、在日韓国・朝鮮人を指す。在日韓国人の全国組織、在日本大韓民国民団の資料には、植樹に関して以下のようなくだりがある。

 「日本帝国主義の植民地支配と同族相殺の韓国戦争(朝鮮戦争)で荒廃した祖国の発展に尽くそうと、祖国のセマウル運動(農村振興運動)に歩調をあわせた1973年の『60万人のセマウムシムキ運動(“新しい心を植える運動”と称された植樹運動)』では、祖国の山々への苗木植樹や150カ所の郷土集落との間でセマウル姉妹結縁を結びました…」

 在日韓国人たちを中心に韓国各地で植樹運動が展開されたようだ。ただ、戦後の鎮海ではどのようにして桜が植えられ、ここまでの規模になったのか。具体的な事柄が知りたかった。

 当時、桜の苗木を鎮海に贈った組織の1つ、在日本東京鎮海有志会の寄贈趣意書が残されていた。

 「鎮海を世界的な桜の街に整備し、(桜を好む)日本人の観光客を韓国に誘致する端緒にしよう」(2008年1月22日付の韓国紙、世界日報電子版)。故郷の発展と日韓関係の改善に役立てば-との思いから寄贈したのだという。寄贈後も、何度も鎮海に足を運んでは肥料をまいたり、害虫対策に助言を与えたり、アフターケアに従事する人もいたらしい。

 そうはいっても、「日本的なモノ」として一度伐採した桜が再び植樹されることに、住民たちの抵抗はなかったのだろうか。

    □ □

 鎮海の歴史に詳しい、鎮海近代文化遺産保全会の元事務局長、崔(チェ)ハクジュン氏(64)に話を聞いた。

 --鎮海の桜は日本人が植えたのが始まりだそうですね

 「はい、1910年から25年までの間に、都市美化の一環でおよそ11万本の桜が植えられました」

 --戦後、そのほとんどが伐採されてしまったと聞きました

 「日本の支配から解放された後、桜は日本の花だということで伐採されるようになり、消滅の危機に直面したのです」

 --それを救ったのが在日韓国人たちの植樹運動だったのですね

 「在日同胞が桜の苗木を寄贈してくれたのは事実です。それと同時に、韓国の植物学者により、鎮海の桜の原産地は済州(チェジュ)島であることが知られるようになり、桜の植樹が進みました」

 崔氏が指摘した「鎮海の桜の原産地は済州島である」というのはどういう意味だろうか。

 鎮海の桜はほとんどがソメイヨシノである。

 ソメイヨシノとは、幕末に江戸・染井の植木屋から出たという園芸種で、エドヒガンとオオシマザクラの雑種とされる。生長が速く、花つきも良いため、今では日本の桜の8割を占めているという。

 韓国南端の済州島にも、よく似た桜が自生していることは日本統治時代から知られていたらしい。1962年に韓国の植物学者が、済州島の漢拏(ハルラ)山(標高1950メートル)でそれを確認した。韓国では以後、ソメイヨシノの原産地は済州島で、ソメイヨシノは韓国から日本にもたらされたものだという異説が唱えられるようになる。

 韓国においては、済州島のその桜を王桜(ワンポンナム)と呼び、日本のソメイヨシノにも王桜という同じ名前を付けている。

 前出の世界日報によれば、60年代以降の韓国社会では「なぜ日本の国の花を植えなければならないのか」「日本のやつらのカネを受け取るのか」といったような「桜の植樹に批判的な世論が形成されていた」。こうした世論を黙らせるには格好の説だった。

 つまり韓国人の側から見れば、桜(ソメイヨシノ)は日本の花だと思って伐採したが、韓国原産ということであれば切る必要はない、ということになる。

 韓国各地に桜の植樹が広がった理由はしかし、それだけではなかった。

    □ □

 1977年4月に、鎮海の桜並木の下で撮られた1枚の写真がある。

 スティックをつきながら歩いているのは当時の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領だ。5・16軍事クーデターで政権を奪取してから約16年、独裁政権との批判を浴びながらも、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げていた。側近に暗殺される2年半前のことである。

 「朴正煕氏が鎮海を訪問した際、鎮海に桜を植えるように指示したのです」。鎮海近代文化遺産保全会の元事務局長、崔ハクジュン氏は話す。海軍士官学校があり、周辺に夏の保養地もあった鎮海を朴元大統領はしばしば訪れている。

 軍港歴史館の資料にも、それを示すくだりがあった。

 「鎮海では1960年代から再び桜を植え始め、1976年、鎮海を世界第一の桜の都市に育てよという大統領の意志に従い、本格的に桜が植えられるようになった」

 朴元大統領は戦前、日本の陸軍士官学校で学んでいる。桜に特別な思い入れがあっても不思議ではない。

 「いや、聞いたことがないですね、朴正煕氏が桜を植えろと指示を出したという話は…」

 朴元大統領に関する著書があるジャーナリストの趙甲済(チョ・ガプジェ)氏は、ソウルの事務所で首をかしげた。

 --朴元大統領には桜への思い入れがあったのでしょうか

 「桜は嫌いではなかったでしょう。でも、むしろ桜の生長が速い点に注目したのではないでしょうか」

 朴元大統領は絵を描いたり、写真を撮ったりするのが趣味だった。70年代には自然保護運動も提唱している。華やかな桜を好んだのも、郷愁というより、詩心をくすぐられたか、その実用性に重きを置いたためなのかもしれない。

 現代の韓国人は桜に何を思うのだろうか。鎮海の軍港祭で聞いてみた。

 慶尚南道の晋州(チンジュ)市から恋人と一緒に来た大学生の男性(25)

 「この桜は済州島が原産地なのですか? 知らなかったですね。でも、やっぱり桜には日本の花のイメージがあります。春が来たという感じを受けますね」

 鎮海に嫁いで20年以上たつという大邱(テグ)市出身の主婦(57)

 「桜は『春に降る雪』という感じかな。毎年、花見をしていますが、桜を見ても、日本の花だとは思いません。韓国の花ですよ」

 忠清南道の牙山(アサン)市から来た写真家の男性(56)

 「鎮海の桜は済州島の花だと聞いています。毎年この時期に訪れますが、満開の桜は本当に美しいですね。ただ、10日で散ってしまうのが残念な気がします」

 桜は韓国でも春を象徴する花として定着した感がある。ただ、ソメイヨシノは数十年で生長をやめ、樹齢は短い。戦後、鎮海で植樹が始まってすでに50年。第3世代の桜が咲き誇る時代、日本と韓国の関係はどうなっているだろうか。

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 【藤本欣也の韓国探訪】では、首都ソウルではなく地方から韓国や日韓関係について考えていきます。

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