朝は、45分のランニングマシン。
7時前に目を覚ました龍之介を抱つこして歩いた10分を含み(笑)。
「お化けが来るからねんねして」とか言つたら「怖い」と言つて寝てたのが、
言い方によつては、受けてしまうことになつてしまつて、
一日一日の成長に驚く日々でございます。
日一日と衰えていく自らと較べて、うらやましい限りです。
親としては、本当に楽しみ。
子供の無限の可能性を感じ、この子等のためにどんな環境を準備出来るのか。
市内の学校で教員を務める妻も、危機感を感じている。
私に出来ることはわずかかも知れません。
しかし、私達世代が、宇和島の学習環境を整えなければならない当事者であることは
間違いないのです。
市議会の中でも、これから学校に通う子供を持つ親世代や、孫の居る世代がいて、
教育現場は極めて身近であるはずです。
政治は教育にあまり関われないというムードが支配的で、「文教」(宇和島では教育環境委員会)担当の委員会にでもならなければ
あまり、意見することがないように感じます。もちろん、教育こそ我が得意分野と、強い興味を持つて、
意見する議員も居られますが、どちらかというと少数派であります。
今回の教育委員会制度の改革を機に、政治が教育に関わるところを増やして行かなければならないと思います。
少なくとも、予算審議の議決権は議会にありますから、教育へのお金の使い方については、今以上に「中身」に関わつていかなければならないと思います。
学校の先生方に押しつけていてはどうにもならないような、特異な家庭や児童生徒の存在が全国的に問題となつています。
その異常性もさることながら、出現頻度も幾何級数的に増加しています。
宇和島でも命に関わるような大きな問題が発生するまでに、
政治が教育現場のバックアップをしつかりする姿勢を示し、
市民全体で、宇和島の教育についての危機感を共有させて、
家庭で出来ること(やらなければならないこと)、
地域で出来ること(やらなければならないこと)をしつかりとやつていく社会づくり。
すなわち、当事者として、教育環境・学習環境の整備拡充に努めなければなりません。
宇和島の教育は最高であると、言われるほどに、頑張らなければなりません。
他所の誰もしてくれないわけです。地域の私達が取り組まなければならないのです。
将来、社会的コストがかかるような人間を育てる余裕は宇和島にはありません。
皆が世のため人のために生きる事が当然のまちにしなければなりません。
勤勉で、協調性を持ち、
自己肯定感を基底とした、誰でもが個性を発揮でき、お互いが尊敬し合える豊かな価値観のある地域に
宇和島をしなければなりません。
権利だけ主張し、ごねた者勝ち、自らが義務を果たさずに自由や平等の意味を間違って理解して気ままに生きる、
そんな者をのさばらせてはならないのです。
もちろん、貧困の連鎖をくい止めるため、家庭の在り方に踏み込むことも必要です。
あるときには、家庭と切り離したところで、子供を育てなければならないこともあるでしよう。
そして、向学心を持つ子供には、経済的制約で進学をあきらめなけらばならないような事がないように、
公的な扶助を与えていくことも今以上に必要でしよう。
子供は、地域の宝です。
寝顔を見ながら、キーボードを叩いています。
この子どもたちのために命をかける。
7時前に目を覚ました龍之介を抱つこして歩いた10分を含み(笑)。
「お化けが来るからねんねして」とか言つたら「怖い」と言つて寝てたのが、
言い方によつては、受けてしまうことになつてしまつて、
一日一日の成長に驚く日々でございます。
日一日と衰えていく自らと較べて、うらやましい限りです。
親としては、本当に楽しみ。
子供の無限の可能性を感じ、この子等のためにどんな環境を準備出来るのか。
市内の学校で教員を務める妻も、危機感を感じている。
私に出来ることはわずかかも知れません。
しかし、私達世代が、宇和島の学習環境を整えなければならない当事者であることは
間違いないのです。
市議会の中でも、これから学校に通う子供を持つ親世代や、孫の居る世代がいて、
教育現場は極めて身近であるはずです。
政治は教育にあまり関われないというムードが支配的で、「文教」(宇和島では教育環境委員会)担当の委員会にでもならなければ
あまり、意見することがないように感じます。もちろん、教育こそ我が得意分野と、強い興味を持つて、
意見する議員も居られますが、どちらかというと少数派であります。
今回の教育委員会制度の改革を機に、政治が教育に関わるところを増やして行かなければならないと思います。
少なくとも、予算審議の議決権は議会にありますから、教育へのお金の使い方については、今以上に「中身」に関わつていかなければならないと思います。
学校の先生方に押しつけていてはどうにもならないような、特異な家庭や児童生徒の存在が全国的に問題となつています。
その異常性もさることながら、出現頻度も幾何級数的に増加しています。
宇和島でも命に関わるような大きな問題が発生するまでに、
政治が教育現場のバックアップをしつかりする姿勢を示し、
市民全体で、宇和島の教育についての危機感を共有させて、
家庭で出来ること(やらなければならないこと)、
地域で出来ること(やらなければならないこと)をしつかりとやつていく社会づくり。
すなわち、当事者として、教育環境・学習環境の整備拡充に努めなければなりません。
宇和島の教育は最高であると、言われるほどに、頑張らなければなりません。
他所の誰もしてくれないわけです。地域の私達が取り組まなければならないのです。
将来、社会的コストがかかるような人間を育てる余裕は宇和島にはありません。
皆が世のため人のために生きる事が当然のまちにしなければなりません。
勤勉で、協調性を持ち、
自己肯定感を基底とした、誰でもが個性を発揮でき、お互いが尊敬し合える豊かな価値観のある地域に
宇和島をしなければなりません。
権利だけ主張し、ごねた者勝ち、自らが義務を果たさずに自由や平等の意味を間違って理解して気ままに生きる、
そんな者をのさばらせてはならないのです。
もちろん、貧困の連鎖をくい止めるため、家庭の在り方に踏み込むことも必要です。
あるときには、家庭と切り離したところで、子供を育てなければならないこともあるでしよう。
そして、向学心を持つ子供には、経済的制約で進学をあきらめなけらばならないような事がないように、
公的な扶助を与えていくことも今以上に必要でしよう。
子供は、地域の宝です。
寝顔を見ながら、キーボードを叩いています。
この子どもたちのために命をかける。
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