【アルサブティ事件】歴史を知っていると、大抵のことには驚かないですむ。科学史も趣味で少し勉強しているので、科学上のスキャンダルには驚かない。STAP論文に関しては、データの改ざんや他論文からの盗用が指摘されているが、上には上がある。
史上最大の論文捏造事件は、1977~80年にアメリカで起こった「アルサブティ事件」であろう。イラクのバスラ大学医学部を卒業したアルサブティはアメリカに渡り、まずブリュッセルの国際会議で知りあったフィラデルフィアのテンプル大学微生物学教授フリードマンのもとを訪ね、無給研究員のポストについた。(この辺は野口英世みたいである。)
アルサブティはヨルダンで「白血病ワクチンの開発に関わっており、白血病治療に著功がある」という触れ込みだったが、まったくの嘘であり、研究に関する基礎的知識ももっていないことが暴露され、1年足らずでこの研究室を立ち去った。
1977年暮れ、彼は市の反対側にあるジェファソン医科大学のウィロックの微生物学教室に移った。ここで「臨床がん研究計画」の一員に加わったが、がんに対する基礎的な知識に欠けていること、研究室で実験データを捏造したことが明るみに出て(技師の内部告発による)、研究室を追い出された。その際、彼はウィロックによる論文の手書き原稿のコピーを盗み出した。
1978初夏、アルサブティはテキサス・ヒューストンのMD アンダーソン病院の無給研究員のポストに就いた。彼はここで本格的な論文捏造を始めた。やり方は簡単で一流国際誌に掲載された論文のデータはそのままで、本文を写し換え、必要な引用文献を付加し、論文のタイトルを変え、著者を自分と架空の共同研究者にして、日本や東欧など審査の甘い欧文誌にそのまま投稿する、というものだった。
この方法で約40本の論文が投稿されたが、一度も見つからなかった。ジェファソン医科大学のウィロックから盗んだ論文は1980年になって、アルサブティの名前でチェコの医学雑誌に掲載されているのが発見された。
同じく1979年に、アルサブティは雑誌社から査読を求めて送られてきた原稿を、査読者が死亡しているのをよいことに、病院の郵便受けから盗みだし、内容はそのままで著者名だけを自分と架空の共同研究者に書き換え、日本の雑誌に投稿することまでやっている。
しかし、論文捏造が発覚し、アルサブティはMDアンダーソン病院を辞め、ヒューストンの別の病院に勤め先を見つけ「アメリカ・カリブ大学」に入学、9ヶ月後にPh.D.の称号を得た。
1980年には、ヴァージニア州ヴァージニア大学に移り、大学病院での教育職についた。この頃になると、論文を盗用された著者からの「怒りの手紙」が主な雑誌編集部に殺到し始め、雑誌「サイエンス」が特集記事を載せたこともあって、「アルサブティ事件」は広く知られるようになった。
ヴァージニア大学を辞めたアルサブティはボストンに現れ、ボストン大学の附属病院であるカーネイ病院に職を求めた。ところが、1980年7月医療関係の雑誌を読んだ職員が、新任のアルサブティが「アルサブティ事件」の本人であることに気づき、病院長に通報したため、ここも解雇された。
その後のアルサブティは歴史の闇の中に消えた。彼が捏造した論文は約60篇と見られる。
アルサブティは長身で、身なりはパリッとしており、いつもキャデラックを乗り回していた。外交的でそつがなく、話の端々にヨルダン王室と関係があるというようなことを匂わせた。また組織の弱点をよく承知しており、組織はスキャンダルの公表を好まないこと、誰も言い出しっぺにはなりたがらないということを、熟知していた。
アルサブティはこの組織の隠蔽体質を利用して、捏造がばれると他の研究機関に移動し、ひたすら捏造を繰り返していた。彼が直接に目標としていたのは、Ph.D.の取得と履歴書の上での論文数を増やすことであったが、最終的な目標が大学教授としての地位であったのか、研究者としての名声であったのか、お金であったのかはわからない。
またアルサブティのパーソナリティについての、精神病理学的な研究もないようだ。
この事件は「捏造犯」をインターネットで公開する、NIHの科学研究費申請資格を停止する、などを骨子とした「ORI(研究公正局)」の発足につながった重要な事件であるので、やや詳しく紹介した。
(W.ブロード、N.ウェイド「背信の科学者たち」,講談社ブルーバックス, 2006)
史上最大の論文捏造事件は、1977~80年にアメリカで起こった「アルサブティ事件」であろう。イラクのバスラ大学医学部を卒業したアルサブティはアメリカに渡り、まずブリュッセルの国際会議で知りあったフィラデルフィアのテンプル大学微生物学教授フリードマンのもとを訪ね、無給研究員のポストについた。(この辺は野口英世みたいである。)
アルサブティはヨルダンで「白血病ワクチンの開発に関わっており、白血病治療に著功がある」という触れ込みだったが、まったくの嘘であり、研究に関する基礎的知識ももっていないことが暴露され、1年足らずでこの研究室を立ち去った。
1977年暮れ、彼は市の反対側にあるジェファソン医科大学のウィロックの微生物学教室に移った。ここで「臨床がん研究計画」の一員に加わったが、がんに対する基礎的な知識に欠けていること、研究室で実験データを捏造したことが明るみに出て(技師の内部告発による)、研究室を追い出された。その際、彼はウィロックによる論文の手書き原稿のコピーを盗み出した。
1978初夏、アルサブティはテキサス・ヒューストンのMD アンダーソン病院の無給研究員のポストに就いた。彼はここで本格的な論文捏造を始めた。やり方は簡単で一流国際誌に掲載された論文のデータはそのままで、本文を写し換え、必要な引用文献を付加し、論文のタイトルを変え、著者を自分と架空の共同研究者にして、日本や東欧など審査の甘い欧文誌にそのまま投稿する、というものだった。
この方法で約40本の論文が投稿されたが、一度も見つからなかった。ジェファソン医科大学のウィロックから盗んだ論文は1980年になって、アルサブティの名前でチェコの医学雑誌に掲載されているのが発見された。
同じく1979年に、アルサブティは雑誌社から査読を求めて送られてきた原稿を、査読者が死亡しているのをよいことに、病院の郵便受けから盗みだし、内容はそのままで著者名だけを自分と架空の共同研究者に書き換え、日本の雑誌に投稿することまでやっている。
しかし、論文捏造が発覚し、アルサブティはMDアンダーソン病院を辞め、ヒューストンの別の病院に勤め先を見つけ「アメリカ・カリブ大学」に入学、9ヶ月後にPh.D.の称号を得た。
1980年には、ヴァージニア州ヴァージニア大学に移り、大学病院での教育職についた。この頃になると、論文を盗用された著者からの「怒りの手紙」が主な雑誌編集部に殺到し始め、雑誌「サイエンス」が特集記事を載せたこともあって、「アルサブティ事件」は広く知られるようになった。
ヴァージニア大学を辞めたアルサブティはボストンに現れ、ボストン大学の附属病院であるカーネイ病院に職を求めた。ところが、1980年7月医療関係の雑誌を読んだ職員が、新任のアルサブティが「アルサブティ事件」の本人であることに気づき、病院長に通報したため、ここも解雇された。
その後のアルサブティは歴史の闇の中に消えた。彼が捏造した論文は約60篇と見られる。
アルサブティは長身で、身なりはパリッとしており、いつもキャデラックを乗り回していた。外交的でそつがなく、話の端々にヨルダン王室と関係があるというようなことを匂わせた。また組織の弱点をよく承知しており、組織はスキャンダルの公表を好まないこと、誰も言い出しっぺにはなりたがらないということを、熟知していた。
アルサブティはこの組織の隠蔽体質を利用して、捏造がばれると他の研究機関に移動し、ひたすら捏造を繰り返していた。彼が直接に目標としていたのは、Ph.D.の取得と履歴書の上での論文数を増やすことであったが、最終的な目標が大学教授としての地位であったのか、研究者としての名声であったのか、お金であったのかはわからない。
またアルサブティのパーソナリティについての、精神病理学的な研究もないようだ。
この事件は「捏造犯」をインターネットで公開する、NIHの科学研究費申請資格を停止する、などを骨子とした「ORI(研究公正局)」の発足につながった重要な事件であるので、やや詳しく紹介した。
(W.ブロード、N.ウェイド「背信の科学者たち」,講談社ブルーバックス, 2006)