毛津有人の世界

毛津有人です。日々雑感、詩、小説、絵画など始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

30年の変遷

2025-01-23 08:46:41 | 貧乏について

油彩 26x36cm 2016年

僕は東南アジアのあちこちの国で仏像を見て来たが、日本の仏像に関してはこの像に非常な愛着を覚えた。それで一気に描いてしまった。毎日見ているが一向に飽きが来ない。30年も前に中国を訪問した時は文化大革命の後遺症で上海市内の仏教寺院は修復がたいへんだったようだ。蘇州の有名な古寺寒山寺を訪ねたら本堂が土産物売り場になっていて興ざめしたのを覚えている。そのころ喫茶店に入っても汽車に乗ってもお茶を頼めば、ガラスコップに茶葉を一つかみ入れて大きなやかんから熱湯を注ぎ入れただけのものを提供された。もちろん有料である。驚いたのは南京の最期の夜同行の中国娘三人を連れてカラオケに入ったら、これがみなこのお茶をすすりながらカラオケを楽しんでいたことだ。少しもアルコールがなかったように思う。同行の中国娘から中国に残って日本語の教師にならないかと打診されたが、聞いてみれば彼らの一か月のサラリーの平均は自分の年齢の日本人サラリーマンに比べて60分の一しかならないのだった。30数年前まではどこへ行っても日本人の境遇はだんとつであって、お隣の韓国なども最貧国の一つであり、若者の男性たちはみな停戦下ということで迷彩服を着ていたし、自分が宿泊した外国人用ホテルのすぐ隣ではまだ七輪を使って朝晩の煮炊きをしていた。ところがそれから30数年経過してみれば、それらの貧しかった国々が日本を追い越しているのだから全く諸行無常、明日のことはわからないという気持ちにさせられる。

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ある日本ドラマを観て 1/23

2025-01-23 07:06:38 | 日記

 

昨日は気になっていた絵に加筆を始めた。あるTVドラマをYouTubeでみて昔描いた女優の絵が気にかかったからだ。2021年に二つとも描いているのだけどどちらも似てないなあと思って修正を思いついた。この頃はなぜか昔描いた絵の90%が未熟に見えてきて加筆修正しなくては気がすまなくなっている。修正しても前より良くなる保証がないし、またいつ仕上がる当てもない未完成品ばかりをどんどん増やしているようにも思えて、気もそぞろの状態になっている。こんなことではならぬ、後期高齢者になった以上はもう少しのんびりしようと決めていたにも拘わらず、今年はどうしたことかまた忙しくしている。何をしても中途半端に終わりそうな心配が多いにも拘わらず、しかしやりたいことはやらずにいられない毎日を送っている。今年はいちにち一日を大切にしたいと思って大奮発をして大きな日めくりカレンダーを買ったにも拘わらず、いつも二日分三日分を一度にめくるという羽目になっている。2024年は仕事の量を大いに減らしたので本がたくさん読めたが今年はどうなるのだろう。ときどきはすべてが無駄なあがきと見えて空しくなることもある。根気がなくなったのでこの二つの絵もいつ完成するか見当もつかない。

1月23日午後3時25分、高峰秀子の『わたしの渡世日記』上、346頁を読み上げたところだ。実に面白い、下手な直木賞受賞作より面白い。これから下の部分360頁も一気に読みたい。昨日までの予定では今頃人口温泉につかって週二回のくつろぎの時間を楽しんでいるところだったのに、予定が変わってしまった。これから昼寝をして6時ごろ目覚めたら家の風呂に入ることになるだろう。今日は一日一時間の絵の時間も取れずに終わるようだ。あんなに夢中で読書を愉しんだのだから仕方がないだろう。

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摸写 study after Émile Munier (1840–1895) French

2025-01-23 05:44:20 | 貧乏について

oil 40x50cm 2010

2009年に帰国して真っ先に会いたいと思っていた長年の友人に電話したら事務所にも自宅にも繋がらなかった。業界紙時代に同じ職場で懇意にしていた友人で二人とも小説家になりたいと思っていたから話があった。その彼がバブルの時代に独立して企業のPR 誌の企画編集出版業を営むようになった。大変実入りのいいように聞いていたので僕は嬉しかった。その彼に真っ先に会いたいと思っていたのだが、電話が繋がらなかった。住所を知っていたのだから訪ねていけば何か情報を得られたかもしれないのに、僕はアパートへも事務所にも足を向けなかった。そしてそれっきり彼との関係は終わってしまった。ところが彼のことはいまだに完全に忘れ去ることができないでどうかして再会できる手立てはないものかと考えるのだけど、今は昔と違って電話帳も機能しないから、探しようがないわけである。可能性があるとすればSNSなのでフェイスブックやGoogleなどで調べてみたが、どこにも彼の名前は見出せなかった。バブルが弾けて彼がやっていたような紙産業は一番初めに淘汰されたことは容易に想像がついたのだけど、随分と実入りの良い暮らしをした後では一からサラリーマン稼業への復帰も難しいだろうから、それを思うと今どうしているのか案じられてならないのである。無事であってほしいと願うばかりである。

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