眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

 ルノアールの少女

2006-09-03 17:33:50 | 人の記憶
先日、久しぶりで金沢に帰った際、実家の近くの美術館で「出光コレクションによるルオー展」をやっていた。たまたま時間があり、何も知らずに入ってみると、「受難」の連作や「ミセレーレ」シリーズの作品が順番に並んでいた。私はこれまで、これだけの枚数のルオーを一度にまとめて観たことがなかったので、突然放り込まれたこの画家の世界に目を瞠った。

私にとっては旅先に等しいような故郷で、さらなる異世界を漂っているような体験をしているうち、私は、昔京都の美術館の中をひとりで歩いていた時のことを思い出した。数々のルオーの小さな絵は、生きている限り永遠に続くかのような人間の苦しみと、その合間に僅かに点在するささやかな幸福をあまりにも的確な筆致で描いていたため、あっという間に30年近い歳月を飛び越えて私を過去へと連れ戻したのだと思う。


大学を卒業した半年後、私は自分で自分を操縦することを諦め、何もかも放り出すようにして京大病院の精神科に入院した。当時は岡山で一人暮らしをしていたが、私が口をきくのを止めると、何か丸いものが坂道を転がっていくように自然に、私をよく知っている友人たちが取り計らってくれて、知り合いの医師のいる京大で入院ということになったのだ。

私は元々、自分の意志や希望を自分で主張するといったことが極端に苦手だったけれど、この時もただ、事態がひとりでに転がっていくのを黙って見ているだけだった。運命の輪などというものが存在するのなら、これがその回る音なのだろうか・・・と、微かな音を聞いていた記憶がある。それまでの荷物を何もかも放り出して楽になったことと、人の顔も声も直接自分に響いてこない静けさの中で、ごくごく微かに軋むようなその音は、入院している間ずっと私を、どこかで支えていてくれたような気がする。いい気なもんだと言えば、本当に無責任というかいい気なものだったのだけれど、私にとっては殆ど生まれて初めての静けさ、平安だったと今でも思う。

当時の京大精神科は、それまでの精神医療のあり方を痛烈に批判し、改革する熱意に燃えている若い医療従事者の砦のような存在だったと、それまでにも医者になった知人から聞いていた。本人の意志に反して閉じこめられたりする危険性も無いだろうということで、友人もわざわざそこを入院先に選んでくれたのだろう。中でも私の居た「神経病棟」というところは建物も小さく、入院患者も少数で、殆どサナトリウムとでも言うべき雰囲気の場所だった。古い木造で、適度に剥げた白っぽいペンキと縦長の木枠の窓が並ぶ広い病室は、紅葉した木立や剥き出しの地面に散り敷いた落ち葉、とても小さなグラウンド、その傍にあるやはり小さな木製のベンチなどと共に、今思い出しても何だか映画の中の風景のようだった。元々、所謂精神病棟というよりは脳神経内科的な病気の人のための場所だったのだろう。内科的な患者がほとんど居なくなった当時も、やはり自由度が高く、外出は玄関のノートに帰院予定時刻と食事の要不要さえ記入すれば、特別な許可は要らなかった。

入院中、私はよく京都の街を歩いた。病院から歩いて行って帰れる範囲は限られていたし、考え事をしながら歩いていると知らない場所に出てしまいそうで、食事をあまり摂らなくなった私の体力のこともあって出かける先は何カ所かに決まっていたけれど、その中には、木々に囲まれて二つ並んで建っている古い美術館も入っていた。

私は、それほど美術に詳しい訳でもなければ、ずっと興味を持っていたという訳でもなかったが、美術館の中を歩くのは嫌いではなかった。学生時代に知り合い親しくなった友人に油絵を描く人がいて、その人を通して私は「絵を見る楽しさ」を知り、それが親に連れられてよく行った「美術館の中を歩く」習慣と結びついたのかもしれない。子どもの頃、「絵」は退屈だった。今でも、興味の持てないような作品をひとつひとつ観ることを強制されるようなことは、苦痛と感じるだろう。絵の前に居ても絵を見ていないことが珍しくないような、時と空間を越えた散歩の出来るような美術館行きが、昔も今も私は好きなのだと思う。

そんなある日、私は2枚の不思議な肖像画に出会った。

その日、そこに並んでいた絵の中には、様々な画家の作品が混在していたと思う。私の興味を惹くような絵はあまり無く、私はぼんやりと眼だけで絵を見ながら、頭の中では他のことを考えて歩いていた。展示の最後に近い場所まで来たとき、ルノアールの肖像画が2枚あるのに気づき、立ち止まった。私がルノアールを特別好きだった訳ではない。ただ、その時目に入った2枚、黒髪に黒い瞳の少女と、もう少し年嵩の、それでもまだうら若い金髪の女性の半身像は、そこだけに光が当たっているかのように、周囲からくっきりと浮き上がって見えた。私は、しばらくその2枚を見ていた。そして帰りに、その2枚のポストカードを買い、病院へ戻った。

空きベッドが目立つ広い病室の中で、自分のベッドに腰掛けて、私はよくその小さな2枚の絵を眺めた。このルノアールに惹かれた理由として、ひとつだけ思い当たることがあった。「黒髪に黒い瞳の少女」が、同じ病棟で知り合った女の子にどこか似ていたのだ。

その病棟には、ほんの十数人しか入院者が居なかったと思う。その女の子も他県の人で、当時は病院から夜間の定時制高校に通っていた。学校から帰ってきてから、取っておいてもらった夕食をひとりで食べている彼女は、決して他の人との会話に加わろうとはしなかった。人と話したがらない、或いは極端に無口な感じのする人は珍しくなかったが、他の人とは違って、彼女は明らかに他人を避けていながら、しかも尚、何か、誰かを待っているような風情を私に感じさせたのだと思う。私は、どうしたら声を掛けられるのか判らないまま、それでも「時」が来るのを何とはなしに待っていた。なぜ自分がそういうお節介なことをしようとしているのかは、自分でも判らなかった。

その「時」は突然やって来た。ある日、私がひとりで洗濯場に居ると、彼女も自分の洗濯物を抱えて入ってきたのだ。彼女は人が居るのに一瞬驚いたようだったが、いつものように無表情に洗濯物を空いている洗濯機に放り込み、動き出すのを確認してから、部屋を出て行こうとした。私は、何と言ったらいいのか判らないまま、ただその時自分が思っていたことを口にしたのだと思う。「私、洗濯機が回ってるの、見るの好き。」彼女は一瞬足を止めたが、何の反応も見せず、そのまま出て行った。私は、自分の不器用さに自分でもちょっと悄気た。やっぱり無理なのかな・・・と思った。

ところが数日後、私の主治医からコーヒーでも飲みに行こうと誘われた(治療の一環として、散歩や喫茶店に誘われるのは珍しいことではなかった。)際、「Y子ちゃんも一緒でいいか?」と尋ねられた。あの女の子の名前だった。私と彼女は主治医が共通だったのだ。後から、私を一緒に誘って欲しいという彼女の希望だったのだと聞いた。主治医は一緒にコーヒーを飲んだ後、私達を店に残して仕事に戻った。

向かい合って坐った彼女からは、病棟で普段見せている鎧の厚さは全く感じられなかった。私がいつも眼にしていた彼女は、北風に真正面から顔を向け、小柄な身体で背筋を伸ばして、早足で歩いていく人だった。なんとなく「凛々しい」という形容詞が最初に浮かぶような、「弱音を吐くのを本気で嫌う」女の子に見えた。しかし、二人きりで話し始めてみると、彼女は「柔らかな」感触の、非常に正直な人だった。数日前の洗濯場でのわたしの言葉を聞いて、「私も同じ事思うけど、わたしの周囲の人は、私がそんな事言ったら、あんた何言ってんの、バカじゃない?ってしか言わないと思う。それを口にする人がいるなんて、信じられなかった。」と思ったという。だから、私もお茶に誘うよう、頼んでくれたらしかった。声を掛けても迷惑じゃなかったんだ・・・と思い、私はちょっとだけほっとした。

その時をきっかけに、私は彼女と親しくなった。普段は互いに別行動のままだったが、時々一緒に散歩に出たり、お茶を飲みに行ったりした。彼女は県下で有数の進学校の生徒だったが学校に行けなくなり(当時は登校拒否と言う言葉ですら、決して一般的ではなかったと思う。)、色々な経緯を経て近県の京大に入院することになったらしい。三人姉妹の長女である彼女は、妹さん達との関係もあったのだろうか、お母さんと二人でアパート暮らしもしたと言った。家の中に居たたまれず、しかし実際にはアパート暮らしも長くは続けられない・・・といった中で、彼女は灯油をかぶって自殺を図ったこともあったという。知り合ってから随分たって、色々な話を聞いた後、彼女はそんな事にも触れたのだ。「あとは火をつければいいだけなのに、どうしても出来なくて、マッチ持ったままでお母さんを呼んじゃったの。お母さん、助けてって。ばかみたい。あの時火をつけてれば、それで済んだのに・・・。」淡々とした口調で話しながらも、彼女は困ったような弱々しい笑顔を見せた。「お母さん、呼べて良かったね。ほんとにそれで良かったのよ。」と言いながら、私は彼女の歩いている所の危険さが目に見える気がした。

入院して2ヶ月、自分の退院間近の頃に、私は彼女と外を歩いた際、彼女が吸い殻などの小さなゴミを拾ってはそっとポケットに入れるのに気がついた。私の視線を敏感に察知して、私が何も言わないうちに、彼女は「何でもないの。」と例の笑顔を見せた。その頃には、彼女は「お金を持ってると食べるもの買って使っちゃうから、お金預かってもらってるの。」と言い、コーヒー代も私が一時立て替えたりするようになっていた。食べ出すと止まらないから・・・と言いながら、私の方をチラッと見て「最初の頃、いつも外出してて、とっても元気そうで、この人どこが悪いんだろうって思ってたけど、ご飯は丼の片側に寄せて半分食べたみたいに見せてるし、揚げ物の衣は剥がしてるし、あ、この人も食べないんだって判って、なんか・・・それで気がついたの。」と、ちょっと愉しげな顔をしたりもした。

私はいつも、そういう彼女を見ているだけ、聞いているだけだったような気がする。彼女も私の話を真っ直ぐな眼で聞いてくれたけれど、19歳の彼女には、私は6歳も年上の大人にしか映っていないのがよく判り、わたしはちょっと淋しかった。私の側から見れば、彼女と私はそれほど違ったところにいるのではなかった。先の全く見えない細い道を、片手は片側の岩壁をなぞり、もう片方は断崖絶壁という状態で、なんとか落ちないようにと歩いている者同士でしかなかった。確かに、年の差以上に、私の方がそういう道を歩くのに慣れてはいたかもしれない。少なくとも私は、自分がそういう道を歩いていることを、「どうしてこんなことに・・・」とは思っていなかった。子どもの頃から、どこかで予想していたと言ったら大げさに聞こえるかもしれないけれど、私にとっては歩いてきた一本道の幅がだんだん細くなったに過ぎないようなところがあった。しかし、彼女にとってはそうではなかったのだろうと思う。彼女は「お母さん、助けて!」と叫ぶことが出来る人だったのだから。私には、彼女が放っておけずに拾ってしまうゴミの一つ一つが、彼女をこの世界に繋ぎ止めてくれているような気がした。人間に出来ないことを、それらが代わりにしてくれているように見えたのだ。

病棟で最後に会ったとき、彼女は実家での外泊からお母さんと一緒に戻ってきたばかりだった。それより以前に、社会福祉の方に進みたいという彼女に、私はそういう分野での仕事に就いている私の父親に相談して、そういった関係の本を何冊か貸していたが、泣き腫らした顔で彼女はそれを返してくれた。私が退院して居なくなるというので返してくれたのだけれど、私はそれらの本を彼女にあげるとは言えなかった。むしろ、いくら彼女の希望だったとはいえ、こんなものを今の彼女に貸してはいけなかったのだと感じた。私は黙って受け取り、彼女のお母さんは笑顔で私に礼を言われた。泣き腫らした顔をしてはいても、お母さんの傍で、その時の彼女は落ち着いた穏やかな顔をしているように見え、私にはそれだけが救いに感じられた。

間もなく私は退院し、友人と一緒に自分のアパートへ戻った。

その後、何日くらい経ってからだろう、入院中の主治医から電話を貰い、彼女が亡くなったと知らされた。外泊で家に帰っていた時、夜中に自分の部屋で、ステレオの電気コードを首に巻いて・・・と彼は言い、「遺書もなかったし、不審死ということで警察を呼んだ。おたくには知らせとこうと思って電話した。」と、穏やかな声で付け加えた。私は主治医に、気を落とさないでといった意味の事だけ言って、電話を切った。

今思い出してみても、あの時の自分の平静さが信じられない気がする。私にとって、彼女の死は周囲が予想し心配してくれたほどショックではなかった。私は本当に「何も感じなかった」のだ。私はただ、「ああ、彼女は終わったのだ」と思っただけだった。可哀想に・・・とは思ったけれど、痛切に嘆くような気持ちにはなれなかった。当時は、自分なりのいつもの自己防衛のためかと漠然と思う一方で、自分のこういう冷たさ、薄情さのようなものが嫌ではあったけれど、それが事実である以上仕方がなかった。

それでも、私はその後、折に触れては彼女のことを思い出した。そしてそれは、なぜかいつも、あのルノアールの「黒い髪、黒い瞳の少女」の絵を思い出すところから始まった。

その絵は真正面を向いた短い髪の少女の半身像で、走り書きのような粗いタッチが、ルノアールらしいようなそうでないような、ちょっと変わった印象を与えるものだった。少女は観る者に何かを語りかけてくるようだったが、その大きな瞳は自分の世界だけを見ているかのようで、私は「夢」を語るというのは、きっとこういうことなのだろう・・・と、いつも見ながら思った。将来の希望という意味の「夢」も、眠っているときに見る異世界である「夢」も、今この時点での現実には存在していないという意味では、同じ「幻」なのだということが、その絵を見ていると感じ取れる気がした。「夢」という言葉の本来の意味を、そのまま伝えてくるようなものが、その絵にはあったのだと思う。

その絵の少女があの女の子に似ていると思ったのは、短い髪に黒い瞳で地味な色調の服装という外見だけでは勿論なかった。しかし、その「夢見るような表情」のせいでもなかった。実際の彼女がそういう表情を見せたことは無かったと思う。彼女の語ることは現実世界での話であり、「将来の希望」も「夢見るような」内容ではなかった。だからだろうか、私は買ってきたポストカードも、彼女に見せた記憶が無い。

それでも、今この文章を書きながら、私は初めて後悔している。私は、あの小さなカードの絵の中の少女と同じ表情を、やはりあの女の子の中にも見ていたのだと、今頃になって漸く気がついたからだ。現実の彼女の顔には浮かんでいなくても、私にはあの時見えていたのだと。

私は、彼女にあのカードを見せて、「あなたに似てる。」と言っても良かったのだ。私に何かを語る時、あなたはこういう表情をしているんだと。あなた自身には見えなくても、いつかその「夢」が姿を現すだろうから、今はただなんとか息をしているだけでいいんだと。福祉関係の本なんかより、もしかしたら彼女にはずっと必要なものだったかもしれないのに、私はそれを考えつきもしなかった。そしてそれがなぜなのかも、今は自分なりに解る気がしている。

当時の私は、自分の感じる事にはそれなりの根拠も価値もあるのだということを知らなかった。自分の感じること、思うことは、それが浮かんだ瞬間に即「間違っている」と判断して消してしまう習慣がついていた。殆ど間髪を入れずその作業が行われてしまうため、私は時として自分がその時何かを感じたのだという事自体にさえ、気づかないこともあるくらいだったと思う。私は、現実の外界で自分の身に降りかかることに対処するだけで精一杯だったこともあって、自分の内側は、本や映画といった「自分の現実からは切り離された世界」の中にしか無いような状態だった。私はその限られた内面世界をそれほど大事にもしていなかったくらいだから、ましてそれを外側の現実と繋ぐ方法など考えもつかなかったし、そもそもそういうものの必要性にも気がつかなかった。そういう発想自体が、あり得なかったとでも言うのだろうか。だから「外界」で知り合った彼女に、ルノアールの絵の表情のような微妙な話をすること自体、本当に考えもつかなかったのだ。

あの時のルノアールのもう一枚の方の絵には、「黒い瞳の少女」の「夢」を象徴するようなものを、当時の私は感じ取ったのだと思う。あの長い巻き毛の金髪を波打たせて明るい色彩で描かれていた美しい女性には、観る者をそのまま納得させてしまうような、ごくごく自然な存在感があった。生きていることが当然で、存在することも当然・・・というような、しかも決して尊大ではない魅力に溢れたひとりの女性の肖像だった。



今となると私は随分長い間、人の生と死、或いは「人を生に繋ぎ止めているもの」について、考えてきたのかもしれない。と言うより、考えざるを得なかったと言った方が正確だろう。彼女はきっと生きていたかった人であり、私はもしかしたら生きていたいとは思ったことが無いかもしれない人間だった。にもかかわらず、彼女は死に、私の方が生き残った。なぜなのだろう、何が彼女と私の行く先を分けたのだろう・・・と、私はいつもどこかで考えていたような気がするし、おそらく今も考え続けているのだと思う。

彼女が亡くなって27年が過ぎたけれど、私の記憶の中の彼女はあのルノアールの少女のままで、今も私の中に生きている。



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6 コメント

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Unknown (お茶屋)
2006-09-05 19:36:59
過ぎたり、足らなかったり、言葉で後悔することは多いですね。後悔はつらいけど、お釈迦様でもない限り、後悔のない人生はありえませんね~。それに後悔とか反省がない人は、周りが迷惑するし。と自らを慰める日々をムーマさんにも分けて差し上げます(笑)。充分、間に合ってますか?(汗)



ルノアールって、どの絵も温かく優しいですね。昔はそのよさがわかりませんでした。ぬるい感じが嫌でした。

それが、『C階段』というフランス映画で、初めてルノアールのよさに気づいた次第。だから、ルノアールがイマイチと言う人には『C階段』をすすめていますが、ムーマさんにはその必要がないなあ(残念)。



出光美術館でルオーも見たことがあったけど、今度見るときは「永遠に続くかのような人間の苦しみと、その合間に僅かに点在するささやかな幸福」を意識して観てみます。

大昔に友だちがルオーの道化師の模写を誕生日にプレゼントしてくれたんですよー。ルオーもいいですねぇ。

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どうもありがとう! (ムーマ)
2006-09-06 07:21:43
お茶屋さ~ん、もうそのお気持ちだけで十分です(笑)。



ルノアールは、私も眼に「心地よすぎる」絵に見えて、若い頃はあまり興味がありませんでした。(あの2枚をああいう状態で見ることがなかったら、その後もあんまり興味ないままだったかも。)不思議なものですね。



「C階段」、見たくなりました。私の持ってる「お茶屋さんリスト」に書いておきます。



私は、先日美術館ホールで観た「モディリアーニ」の終盤、ちょっとだけ出てくる晩年のルノアールおじいさんが好きです。映画自体も良くできていて、当時パリに集まっていた有名な芸術家達が沢山出て来て、しかも実物に似てるの。あんなに可愛らしいピカソを初めて見ました(笑)。お茶屋さんは、ご覧になりましたか?
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観たけれど (お茶屋)
2006-09-07 18:35:26
『モディリアーニ』は、あんまり印象に残ってないんです。スミマセン。アンディ・ガルシアが、タイトルロールを演じた作品ですよね。

ピカソと決闘(?)していたのは覚えていますが、ルノアールおじいさん・・・・。う~ん、思い出せません。ごめんなさいね。映画の観すぎか、年の取りすぎか・・・(ぶつぶつ)。
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アハハ、ワカル気もする・・・(笑) (ムーマ)
2006-09-07 21:46:52
お茶屋さ~ん、「あんまり印象に残ってない」のは、何となくワカル気がします。高校の美術の時間に観てもいいような映画だった気もする(笑)。



私は、オジイサンが好きなので・・・ちょっと見境が無いのかも。



でも、最後のシーンが良かったの。思いっきり憎めないピカソの面目躍如!でした。そういえば、いつかお茶屋さんが彼の創作の秘密を描いたドキュメンタリー風の映画が「とても面白かった」と書いておられましたね。(例によってタイトルは思い出せない。何とかピカソって言ったんだけど・・・。)あれは見たかったな~。
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タイトルは (お茶屋)
2006-09-09 07:44:16
『ミステリアス ピカソ 天才の秘密』ですね(^o^)。
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そうそう、そうでした! (ムーマ)
2006-09-10 08:00:33
お茶屋さ~ん、どうもありがとう~

またまたリストが一段増えました(笑)。



でも、ああいう映画って、私は観るの好きなんです。観たら、ピカソの絵を見る自分の目(というか気持ち)が、またちょっと変わりそうな予感がします。
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