大化改新の立役者は、その後皇位についた「孝徳帝」といわれる。日本書紀では中大兄皇子(なかのおおえおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)ということになっているが、最近の歴史学では、皇極天皇の弟の孝徳天皇が首謀者との見方が強い。大化改新は最近では「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」と言われる。蘇我馬子や孫の入鹿は律令制度の導入に生涯をささげてきた。最後の仕上げが「公地公民制」の導入だった。これは豪族たちの領土が朝廷に取上げられるということでもある。時の天皇は女帝の皇極天皇であり、実際の政治は蘇我入鹿がおこなっていた。豪族たちから見れば「蘇我氏に領土を奪われる」と思った。日本書紀では聖徳太子が隋にならって律令制度の導入を考えていたと記述されているが、当時の執政者である蘇我馬子による発案と考えるのが自然だ。実際の発案者は馬子のブレインであった高句麗出身僧の「慧慈」と考えられる。慧慈は推古天皇3年(595年)に渡来し、推古天皇23年(615年)に高句麗へ帰国した。その結果、孝徳帝を首謀者として大化改新というクーデターがおき、蘇我宗家は滅びた。
645年の大化改新から30年後、壬申の乱を経て、律令制度導入が実現する。この影には唐の脅威、天武天皇、持統天皇、藤原不比等などの努力があった。同時に彼等は律令制度導入の国内からの反発をおそれて蘇我一族を悪者にしつつ、豪族たちの律令制導入の反発を避けながら実現した。日本書記が悪者にしている蘇我一族とは、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿の三代。蘇我蝦夷は病弱で政治にはあまり関与しなかったが、蘇我入鹿は日本書記ですら称賛するほどの秀才で、実際の執政権は馬子から孫である入鹿に伝えられている。
当時、律令制の導入とは、なにを意味していたか。律令制を導入するとは政治体制を「唐」のようにするということで、事実、新羅は642年の朝廷内政変後は唐の冊封国となり、律令制や朝廷内の服装までも唐風に変えた。日本で馬子が律令制を導入しようとした背景には、中国に隋や唐という巨大な国が誕生したことが理由に挙げられる。その上、隋も唐も朝鮮半島の覇者であった高句麗と戦っている。高句麗は、隋にはかろうじて防戦したが、唐との外交では新羅に大きく遅れをとり、唐・新羅連合軍を構築させてしまった。このことが、高句麗ばかりでなく百済までも滅ぼす原因になっている。これらは600-670年に起きていた。飛鳥時代に国記や帝記ができたのが610年頃だが、この時期に冠位制も導入された。十七条憲法も制定された。冠位制では蘇我馬子は、どの地位にも就いていない。馬子が603年に冠位十二階制度を提案したが、制定の精神は「有能な人材の登用」だった。しかし、当初は基準(科挙試験のようなもの)などが不明確で、拘束力や政治への影響力は、ほとんどなかった。蘇我氏が仏教を導入したことは日本書紀にも記載されている。四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などは馬子の時代に創建されており、日本書紀でも馬子や聖徳太子などの発意によるとされる。馬子が導入しようとしたのは仏教だけではない。十七条憲法にあるとおり、天皇権を強化しようとしていた。
それまでは百済からの天皇、伽耶からの天皇などが王位を占めていたが、どう見ても大和豪族の支援がなければ維持できない王たちであった。日本書紀では馬子は王位を狙っていたといわれるが、当時の皇位継承は必ずしも天皇家だけではなく皇族と何らかのつながりがあれば天皇位につけたとも考えられ、馬子自身が天皇になったとしても不思議ではなかった。事実、継体天皇などは時代の要請に応じて皇族の遠い姻戚でありながら天皇位に就いている。馬子の律令制の導入の目的は、倭国を仏教国かつ軍事大国にすることだった。そうすることが、唐・新羅の連合軍に太刀打ちできる唯一の方法だった。百済も同じで、伽耶と強い関係を持っていた蘇我氏は百済との軍事同盟も結んでいた。その証が「甘樫の丘」だ。日本書紀では、岡上に蘇我氏は宮殿を建築したとされているが、最近の発掘調査で、これは軍事色の強い城郭で、特徴として多くの倉庫が建設されていた。このような城郭は、同じ時期に百済の都である扶余でも作られている。つまり、唐という仮想敵国に対して倭国も百済も軍事態勢を整えていた。仏教国と軍事国とは相反する概念とも思われるが、こうすることが高句麗、百済、倭国が自立できる道でもあった。
軍事国になるということは、生産物や軍事力を中央に集中することであり、まさに、律令制の導入がこの目的を達する方法だった。しかし、馬子時代には完成せず、孫である入鹿の時代に最終的な公地公民制の導入が計画されたが、入鹿は反対勢力に殺害され公地公民制の導入は失敗に終わる。当時の皇極天皇はどのように思っていたか。最近の説に「皇極帝は律令制の導入に積極的であった」と言うのもある。つまり、馬子や入鹿と政治方針は一致していた。ただ、政治バランスが流動的なこの時代に、機会があれば皇位に就こうとする皇子達は少なからずいた。皇極帝の弟・軽皇子もその一人。軽皇子は、普通であれば天皇にはなれない人。皇極天皇の息子の中大兄皇子は大化改新の時は18歳で、4,5年待てば間違いなく次の天皇になれる人。中大兄皇子は大化改新という危険をおかさなくとも皇極天皇の後継者になっていた。
中大兄皇子の「大兄」とは、長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する。日本書記では中大兄皇子の実名を「葛城皇子(かづらきおうじ)」としているが、日本書記の中ではなぜか「葛城皇子」でなく「中大兄皇子」と表している。ここに日本書記の無理がある。中大兄皇子を大化改新の立役者にしたのは実質的に日本書記の編纂長であった藤原不比等(ふひと)だが、中大兄皇子や藤原鎌足らは、大化改新のクーデターでは何もしてなかったという説もある。大化改新の首謀者が中大兄皇子・藤原鎌足という説は日本書記が創作した話だと言う。藤原不比等が日本書紀の中で中大兄皇子を大化改新の立役者にしたのは、中大兄皇子の娘である持統天皇からの要請に応えたものと考えられる。日本書紀は天武帝によって発願されたが、完成したのは天武天皇死後の720年で、持統天皇の権力が大きかった。つまり日本書紀は、持統天皇と藤原不比等による天智天皇(中大兄皇子)系統を賛美するために作られた小説的な書物でもある。持統天皇の夫である天武天皇系にもある程度の配慮がなされている。天武系は天智系を武力で追いやった憎き敵であるが、天武系の時代の飛鳥時代から平城京時代にかけて日本の形が作られ、天武帝の功績が大きかったため、これらを隠すことや無視することはできなかった。皇極天皇は、大化改新で皇位を弟の軽皇子のちの孝徳天皇に取られるが、9年後の654年、今度は皇極元天皇(上皇)がクーデターを起し、孝徳天皇から政権を奪う。この時も日本書紀は首謀者は中大兄皇子としている。首謀者が皇極であることは、その後、誰が天皇になったかを見れば分かる。皇極天皇が、再度(返り咲き)天皇になり斉明天皇となっている。
中大兄皇子は当時27、8才であるから中大兄皇子が首謀者であれば、かれが天皇になるのが自然であり周囲の人々も納得する。しかし、日本書紀はまたも無理な書き方をしている。つまり、中大兄皇子が首謀者で母を天皇にしたというストーリーを作りあげた。あくまで、日本書紀は持統天皇の父である中大兄皇子(のちの天智天皇)を美化し続ける。654年(白雉5) 10月10日の孝徳天皇からの政権奪取クーデターの首謀者は中大兄皇子ではなく斉明天皇と考えれば前後のつじつまが合う。27、8才の中大兄皇子が首謀者で、クーデター成功後、天皇にならないというのは明らかに不自然だ。孝徳天皇の后、間人皇女(はしひと)は斉明天皇の娘で中大兄皇子の妹であり、中大兄皇子は間人皇女とともに難波宮を脱出したと言われる。中大兄皇子と間人皇女は母を同じにする実の兄妹であったが恋愛関係にあった。間人皇女は人質のようにして孝徳天皇のそばに置かれたものと思われる。斉明天皇が孝徳天皇を追放できたのは、この時期は唐の影響力が朝鮮半島に及び明日にでも唐が日本に攻め込んで来るという状況だったからだ。日本の豪族たちは、百済支援を唱える斉明天皇のもとで団結して対唐戦に備えた。
日本書記にはこの時期、斉明天皇が飛鳥で大規模な土木工事をしたと書いている。これを斉明天皇の遊興と評しているが、内容を見ると堀や防塁の建設であり、唐の攻撃に備えた飛鳥防衛の建設と見られる。大規模な土木工事を「斉明天皇の狂心の渠(みぞ)」と書いている。斉明天皇が実権を握っていたという最大の証拠は百済支援の派兵だ。斉明天皇は自身が九州まで赴き、対百済支援のための指揮をとっている。中大兄皇子が実権を握っていれば何も女性が戦の最前線まで行く必要はない。斉明天皇が実権を握っていたからこそ女性天皇でありながら九州まで出向き、戦の指揮を執った。斉明天皇は、この地で病没してしまう。中大兄皇子が天皇になり天智天皇となるが、その後の天智天皇は不遇だった。唐の脅威、豪族の反乱、倭国豪族に人気のあった大海人皇子までもが天智天皇を見限って離れて行った。幸いにも唐は日本に侵略はしなかった。朝鮮半島で大規模な反唐戦争が起き、日本に来る余裕がなかった。その後、唐は日本とは和睦政策をとり朝鮮半島での制覇を試みるが達成できず、冊封国としての新羅を認める。そのころ天智帝が京都の山科で殺害され、後を継いだ大友皇子(明治になって弘文天皇の諡号が与えられた)と大海人皇子との間で壬申の乱がおき、日本を二分して古代史上まれな大戦となった。結局、大海人皇子が勝利し天武天皇となるが、後の持統天皇は、天武帝に従い、その地位を築いて行く。
なぜ、天武天皇は勝利することができたか。それは徹底した反唐政策にあった。天智帝のときに唐からの使者が2度ほど日本に来た。天智帝は追い返してはいるが、日本と唐が手を結んで新羅を滅ぼすという軍事同盟、天智帝は、この同盟関係を承諾したのかもしれない。そのことが新羅系の天武が天智天皇を殺害する原因となり、壬申の乱となってゆく。当時、日本には多くの朝鮮半島出身者が居住しており、日本と唐が手を結ぶなど考えられないことだった。これらの反唐勢力を結集したのが天武帝だ。戦は数ヶ月で決着したが、大海人皇子(天武天皇になる)の権力は絶大なものとなり、律令制度導入の下地が出来た。
蘇我馬子から天武天皇までの政権交代を隋、唐、高句麗、新羅、百済、倭国の同盟関係からみると違いが見えてくる。
1、蘇我入鹿・皇極天皇は律令制度導入派であり、孝徳・中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂は反対派。この両者の衝突が大化改新。
2、斉明天皇・中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂などが百済支援派になり、反対派だった孝徳天皇を追い出したのが、白雉5年のクーデター。
3、大海人皇子・九州・東海の豪族達は反唐派だったが、大友皇子や天智天皇親派の大豪族は親唐派。このときの戦いが壬申の乱。
壬申の乱以降(673年以降)天武帝は、律令制の導入を急ぎ日本を天皇中心の国家に作り変えた。蘇我馬子が理想とした律令社会の完成。日本の律令編纂は、668年「近江令」、689年「飛鳥浄御原令」、701年「大宝律令」、718年「養老律令」などがあるが、大宝律令が実態のある律令と考えられる。蘇我馬子が620年ころ律令制度の導入を考えてから70年後、天武天皇によって日本に律令制度が導入された。律令制導入の是非は言うまでもなく、日本の国体を築く大きな原動力となり、その形は現在に残っているものも見られる。
645年の大化改新から30年後、壬申の乱を経て、律令制度導入が実現する。この影には唐の脅威、天武天皇、持統天皇、藤原不比等などの努力があった。同時に彼等は律令制度導入の国内からの反発をおそれて蘇我一族を悪者にしつつ、豪族たちの律令制導入の反発を避けながら実現した。日本書記が悪者にしている蘇我一族とは、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿の三代。蘇我蝦夷は病弱で政治にはあまり関与しなかったが、蘇我入鹿は日本書記ですら称賛するほどの秀才で、実際の執政権は馬子から孫である入鹿に伝えられている。
当時、律令制の導入とは、なにを意味していたか。律令制を導入するとは政治体制を「唐」のようにするということで、事実、新羅は642年の朝廷内政変後は唐の冊封国となり、律令制や朝廷内の服装までも唐風に変えた。日本で馬子が律令制を導入しようとした背景には、中国に隋や唐という巨大な国が誕生したことが理由に挙げられる。その上、隋も唐も朝鮮半島の覇者であった高句麗と戦っている。高句麗は、隋にはかろうじて防戦したが、唐との外交では新羅に大きく遅れをとり、唐・新羅連合軍を構築させてしまった。このことが、高句麗ばかりでなく百済までも滅ぼす原因になっている。これらは600-670年に起きていた。飛鳥時代に国記や帝記ができたのが610年頃だが、この時期に冠位制も導入された。十七条憲法も制定された。冠位制では蘇我馬子は、どの地位にも就いていない。馬子が603年に冠位十二階制度を提案したが、制定の精神は「有能な人材の登用」だった。しかし、当初は基準(科挙試験のようなもの)などが不明確で、拘束力や政治への影響力は、ほとんどなかった。蘇我氏が仏教を導入したことは日本書紀にも記載されている。四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などは馬子の時代に創建されており、日本書紀でも馬子や聖徳太子などの発意によるとされる。馬子が導入しようとしたのは仏教だけではない。十七条憲法にあるとおり、天皇権を強化しようとしていた。
それまでは百済からの天皇、伽耶からの天皇などが王位を占めていたが、どう見ても大和豪族の支援がなければ維持できない王たちであった。日本書紀では馬子は王位を狙っていたといわれるが、当時の皇位継承は必ずしも天皇家だけではなく皇族と何らかのつながりがあれば天皇位につけたとも考えられ、馬子自身が天皇になったとしても不思議ではなかった。事実、継体天皇などは時代の要請に応じて皇族の遠い姻戚でありながら天皇位に就いている。馬子の律令制の導入の目的は、倭国を仏教国かつ軍事大国にすることだった。そうすることが、唐・新羅の連合軍に太刀打ちできる唯一の方法だった。百済も同じで、伽耶と強い関係を持っていた蘇我氏は百済との軍事同盟も結んでいた。その証が「甘樫の丘」だ。日本書紀では、岡上に蘇我氏は宮殿を建築したとされているが、最近の発掘調査で、これは軍事色の強い城郭で、特徴として多くの倉庫が建設されていた。このような城郭は、同じ時期に百済の都である扶余でも作られている。つまり、唐という仮想敵国に対して倭国も百済も軍事態勢を整えていた。仏教国と軍事国とは相反する概念とも思われるが、こうすることが高句麗、百済、倭国が自立できる道でもあった。
軍事国になるということは、生産物や軍事力を中央に集中することであり、まさに、律令制の導入がこの目的を達する方法だった。しかし、馬子時代には完成せず、孫である入鹿の時代に最終的な公地公民制の導入が計画されたが、入鹿は反対勢力に殺害され公地公民制の導入は失敗に終わる。当時の皇極天皇はどのように思っていたか。最近の説に「皇極帝は律令制の導入に積極的であった」と言うのもある。つまり、馬子や入鹿と政治方針は一致していた。ただ、政治バランスが流動的なこの時代に、機会があれば皇位に就こうとする皇子達は少なからずいた。皇極帝の弟・軽皇子もその一人。軽皇子は、普通であれば天皇にはなれない人。皇極天皇の息子の中大兄皇子は大化改新の時は18歳で、4,5年待てば間違いなく次の天皇になれる人。中大兄皇子は大化改新という危険をおかさなくとも皇極天皇の後継者になっていた。
中大兄皇子の「大兄」とは、長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する。日本書記では中大兄皇子の実名を「葛城皇子(かづらきおうじ)」としているが、日本書記の中ではなぜか「葛城皇子」でなく「中大兄皇子」と表している。ここに日本書記の無理がある。中大兄皇子を大化改新の立役者にしたのは実質的に日本書記の編纂長であった藤原不比等(ふひと)だが、中大兄皇子や藤原鎌足らは、大化改新のクーデターでは何もしてなかったという説もある。大化改新の首謀者が中大兄皇子・藤原鎌足という説は日本書記が創作した話だと言う。藤原不比等が日本書紀の中で中大兄皇子を大化改新の立役者にしたのは、中大兄皇子の娘である持統天皇からの要請に応えたものと考えられる。日本書紀は天武帝によって発願されたが、完成したのは天武天皇死後の720年で、持統天皇の権力が大きかった。つまり日本書紀は、持統天皇と藤原不比等による天智天皇(中大兄皇子)系統を賛美するために作られた小説的な書物でもある。持統天皇の夫である天武天皇系にもある程度の配慮がなされている。天武系は天智系を武力で追いやった憎き敵であるが、天武系の時代の飛鳥時代から平城京時代にかけて日本の形が作られ、天武帝の功績が大きかったため、これらを隠すことや無視することはできなかった。皇極天皇は、大化改新で皇位を弟の軽皇子のちの孝徳天皇に取られるが、9年後の654年、今度は皇極元天皇(上皇)がクーデターを起し、孝徳天皇から政権を奪う。この時も日本書紀は首謀者は中大兄皇子としている。首謀者が皇極であることは、その後、誰が天皇になったかを見れば分かる。皇極天皇が、再度(返り咲き)天皇になり斉明天皇となっている。
中大兄皇子は当時27、8才であるから中大兄皇子が首謀者であれば、かれが天皇になるのが自然であり周囲の人々も納得する。しかし、日本書紀はまたも無理な書き方をしている。つまり、中大兄皇子が首謀者で母を天皇にしたというストーリーを作りあげた。あくまで、日本書紀は持統天皇の父である中大兄皇子(のちの天智天皇)を美化し続ける。654年(白雉5) 10月10日の孝徳天皇からの政権奪取クーデターの首謀者は中大兄皇子ではなく斉明天皇と考えれば前後のつじつまが合う。27、8才の中大兄皇子が首謀者で、クーデター成功後、天皇にならないというのは明らかに不自然だ。孝徳天皇の后、間人皇女(はしひと)は斉明天皇の娘で中大兄皇子の妹であり、中大兄皇子は間人皇女とともに難波宮を脱出したと言われる。中大兄皇子と間人皇女は母を同じにする実の兄妹であったが恋愛関係にあった。間人皇女は人質のようにして孝徳天皇のそばに置かれたものと思われる。斉明天皇が孝徳天皇を追放できたのは、この時期は唐の影響力が朝鮮半島に及び明日にでも唐が日本に攻め込んで来るという状況だったからだ。日本の豪族たちは、百済支援を唱える斉明天皇のもとで団結して対唐戦に備えた。
日本書記にはこの時期、斉明天皇が飛鳥で大規模な土木工事をしたと書いている。これを斉明天皇の遊興と評しているが、内容を見ると堀や防塁の建設であり、唐の攻撃に備えた飛鳥防衛の建設と見られる。大規模な土木工事を「斉明天皇の狂心の渠(みぞ)」と書いている。斉明天皇が実権を握っていたという最大の証拠は百済支援の派兵だ。斉明天皇は自身が九州まで赴き、対百済支援のための指揮をとっている。中大兄皇子が実権を握っていれば何も女性が戦の最前線まで行く必要はない。斉明天皇が実権を握っていたからこそ女性天皇でありながら九州まで出向き、戦の指揮を執った。斉明天皇は、この地で病没してしまう。中大兄皇子が天皇になり天智天皇となるが、その後の天智天皇は不遇だった。唐の脅威、豪族の反乱、倭国豪族に人気のあった大海人皇子までもが天智天皇を見限って離れて行った。幸いにも唐は日本に侵略はしなかった。朝鮮半島で大規模な反唐戦争が起き、日本に来る余裕がなかった。その後、唐は日本とは和睦政策をとり朝鮮半島での制覇を試みるが達成できず、冊封国としての新羅を認める。そのころ天智帝が京都の山科で殺害され、後を継いだ大友皇子(明治になって弘文天皇の諡号が与えられた)と大海人皇子との間で壬申の乱がおき、日本を二分して古代史上まれな大戦となった。結局、大海人皇子が勝利し天武天皇となるが、後の持統天皇は、天武帝に従い、その地位を築いて行く。
なぜ、天武天皇は勝利することができたか。それは徹底した反唐政策にあった。天智帝のときに唐からの使者が2度ほど日本に来た。天智帝は追い返してはいるが、日本と唐が手を結んで新羅を滅ぼすという軍事同盟、天智帝は、この同盟関係を承諾したのかもしれない。そのことが新羅系の天武が天智天皇を殺害する原因となり、壬申の乱となってゆく。当時、日本には多くの朝鮮半島出身者が居住しており、日本と唐が手を結ぶなど考えられないことだった。これらの反唐勢力を結集したのが天武帝だ。戦は数ヶ月で決着したが、大海人皇子(天武天皇になる)の権力は絶大なものとなり、律令制度導入の下地が出来た。
蘇我馬子から天武天皇までの政権交代を隋、唐、高句麗、新羅、百済、倭国の同盟関係からみると違いが見えてくる。
1、蘇我入鹿・皇極天皇は律令制度導入派であり、孝徳・中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂は反対派。この両者の衝突が大化改新。
2、斉明天皇・中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂などが百済支援派になり、反対派だった孝徳天皇を追い出したのが、白雉5年のクーデター。
3、大海人皇子・九州・東海の豪族達は反唐派だったが、大友皇子や天智天皇親派の大豪族は親唐派。このときの戦いが壬申の乱。
壬申の乱以降(673年以降)天武帝は、律令制の導入を急ぎ日本を天皇中心の国家に作り変えた。蘇我馬子が理想とした律令社会の完成。日本の律令編纂は、668年「近江令」、689年「飛鳥浄御原令」、701年「大宝律令」、718年「養老律令」などがあるが、大宝律令が実態のある律令と考えられる。蘇我馬子が620年ころ律令制度の導入を考えてから70年後、天武天皇によって日本に律令制度が導入された。律令制導入の是非は言うまでもなく、日本の国体を築く大きな原動力となり、その形は現在に残っているものも見られる。
また、皇極天皇は、大化改新で皇位を弟の軽皇子のちの孝徳天皇に取られるが、9年後に皇極元天皇(上皇)がクーデターを起し、孝徳天皇から政権を奪う。この時も日本書紀は首謀者は中大兄皇子としている。首謀者が皇極であることは、その後、誰が天皇になったかを見れば明白で、皇極天皇が再度(返り咲き)天皇になり斉明天皇となっている。これが歴史の真実ですか。