“All types of knowledge, ultimately mean self knowledge.”
「私が思うに全ての知識は最終的には自己認識につながっていく」
ブルース・リー
私は武道を一つの哲学として捉えています。全ての知は一つのものとして完結する筈なのです。それが学業であれ運動であれ会社勤めであれ。
しかし例えば多くの学生がそうであるように、ただ学問を学問するような知識の得方では無理。私が学業に今ひとつ熱が入らなかったのはそこにありましたが。点を取れば上に行ける。だから何だと。考えている振りをするなと。
空手においては単に肉体的に強いだけではどうにもならんという事が解り、強さとは何か?という問いが脳にこびり付いております。本当の意味で考えられるといいましょうか。
安直に組手(或いは形)だけに価値観を求める者も少なくありませんが、あんなものは物の一表現に過ぎず。
自分の知を肉体運動を介してどう表すのか、また何処でどのように知を得るのかという処にどうにも離れ難い魅力を感じているのですね。それもいずれは自己循環してゆくのでしょうが。
私はヨガに惹かれるものがあり入門編からマニアックなものまで幾つか書籍も揃えているのですが、それは何故かと考えたところやはり哲学として思想として、様々な形を肉体で表現するところからなのでしょう。全身を澱みなく動かせるようになれる可能性も含めて。
近年溢れている◯◯ヨガといった子供騙しで底の浅いものには嫌悪感しかありませんが。
全く違うジャンルで生きている人同士でも、考えてきた人同士なら話が合い何か得られることもあるでしょう。
浅い者同士だときっと疲れるだけ。
文武両道と言いますが、それは単に勉強もスポーツも満遍なくしなさいという教えではなく、一つの事象から知性的なものと肉体的なものを導き出しなさいという事なのではないかなと思う今日この頃なのです。
冒頭の言葉を残したブルース・リー。彼は哲人でもありました。勿論武道を哲学として捉えていました。
よく本当に強かったのか?と問われていますし、ネット検索でブルースリーと入れると予測検索の中に「強かったのか」と挙がります。幼稚な問いです。
個人的にはイップマンに師事していた事やデモンストレーションの動きからも相当な強さだったと思います。
しかし彼の凄い処はそんな強い弱いというチンケな価値観上にあるのではなく、彼の偉大な処は彼自身の武道哲学を彼の身体で表現し切ったところにあるのだと考えます。
何に従事していようが哲学を持つことと体現する事が肝要なのでしょう。
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「私が思うに全ての知識は最終的には自己認識につながっていく」
ブルース・リー
私は武道を一つの哲学として捉えています。全ての知は一つのものとして完結する筈なのです。それが学業であれ運動であれ会社勤めであれ。
しかし例えば多くの学生がそうであるように、ただ学問を学問するような知識の得方では無理。私が学業に今ひとつ熱が入らなかったのはそこにありましたが。点を取れば上に行ける。だから何だと。考えている振りをするなと。
空手においては単に肉体的に強いだけではどうにもならんという事が解り、強さとは何か?という問いが脳にこびり付いております。本当の意味で考えられるといいましょうか。
安直に組手(或いは形)だけに価値観を求める者も少なくありませんが、あんなものは物の一表現に過ぎず。
自分の知を肉体運動を介してどう表すのか、また何処でどのように知を得るのかという処にどうにも離れ難い魅力を感じているのですね。それもいずれは自己循環してゆくのでしょうが。
私はヨガに惹かれるものがあり入門編からマニアックなものまで幾つか書籍も揃えているのですが、それは何故かと考えたところやはり哲学として思想として、様々な形を肉体で表現するところからなのでしょう。全身を澱みなく動かせるようになれる可能性も含めて。
近年溢れている◯◯ヨガといった子供騙しで底の浅いものには嫌悪感しかありませんが。
全く違うジャンルで生きている人同士でも、考えてきた人同士なら話が合い何か得られることもあるでしょう。
浅い者同士だときっと疲れるだけ。
文武両道と言いますが、それは単に勉強もスポーツも満遍なくしなさいという教えではなく、一つの事象から知性的なものと肉体的なものを導き出しなさいという事なのではないかなと思う今日この頃なのです。
冒頭の言葉を残したブルース・リー。彼は哲人でもありました。勿論武道を哲学として捉えていました。
よく本当に強かったのか?と問われていますし、ネット検索でブルースリーと入れると予測検索の中に「強かったのか」と挙がります。幼稚な問いです。
個人的にはイップマンに師事していた事やデモンストレーションの動きからも相当な強さだったと思います。
しかし彼の凄い処はそんな強い弱いというチンケな価値観上にあるのではなく、彼の偉大な処は彼自身の武道哲学を彼の身体で表現し切ったところにあるのだと考えます。
何に従事していようが哲学を持つことと体現する事が肝要なのでしょう。
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