Kameの独り言

思いついたことをありのままに

南無

2007年10月13日 13時33分08秒 | 仏教

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音大菩薩、南無地蔵菩薩、南無大師遍照金剛)等々、私たちは日常、南無ということばを言い馴れているし、聞き馴れています。
南無とはサンスクリットの「ナーム」で、それを漢字で音写したものです。ナームは「帰依する」ということです。すべてを任すということです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀様に帰依しますということで、浄土宗(じょうどしゅう)、浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)、時宗(じしゅう)などは、六字(ろくじ)名号(みょうごう)といって、このことばを祈りのことばとして、それを称(とな)えることによって、すべての罪も許され、浄土に迎えられると信じます。
南無妙法蓮華経と称えながら太鼓を叩いて勇ましく祈るのは日蓮宗(にちれんしゅう)です。日蓮が釈迦の説かれたお経の中で妙法蓮華経が最もすばらしいとして、それを信仰の中心に据(す)えたからです。
南無観世音は、観自在大菩薩(観音さま)に帰依しますということで、観音さまは現世(げんせ)で我々を幸せに導いて下さると信じ、宗派にとらわれず多くの人々の信仰の対象になりました。
南無大師遍照金剛は、真言宗の人々が称えます。この大師は弘法(こうぼう)大師(だいし)(空海(くうかい))のことです。四国八十八か所の巡礼の時は各札所(ふだしょ)で、必ず、巡礼たちはこれを称えて祈ります。「南無」の会というのが出来て、宗派にとらわれず、僧侶が集まって、仏教を広める運動をして、多大な成果を収めています。「南無」という語はすっかり大衆にとけこんでいて、日本語のように思っているひとさえいます。
中国の求道の心篤い僧侶たちが、国禁を犯して、ヒマラヤの雪山を越え、命がけの苦難の旅をつづけてインドに渡り、そこで仏教を学び、多くの経典を持ち帰りました。
それを中国語に訳したものが、今、私たちが読んでいる漢訳経なのです。それが中国から朝鮮を経て日本に伝えられました。また多くの日本の僧侶たちが命がけで、中国に渡り、経典を写し、持ち帰りました。

南無にこめられた熱い祈り

南無(なむ)ということばにこめられた祈りの熱さは、そうした人々の命がけの尊い努力がこもっています。何宗によらず、信仰の行きつく最後のところは同じだと思います。
「信は任すなり」といいます。任すとは、自我を捨て去って、全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)を仏に捧げ、どうともして下さいと身を投げだして、お任せすることなのです。
 私たち凡夫(ぼんぷ)のはからいなど、たいしたことはありません。人間は生きている上で、考えられないような様々な災難や苦労に遭(あ)います。その時、自分の信じる仏に「南無」といって命も運命もお任せしてしまえば、そしてそれが出来ればどんなに気が楽になることでしょう。そこから必ず道が開けて来るのです。


三世

2007年10月13日 13時26分46秒 | 仏教

 仏教ではこの世を現世(げんせ)と呼びます。私たちは現世に今、生きているわけですがこの現世に生まれる前に、すでに魂があって生きていたと考えます。生まれる前の時間を過去世(かこぜ)と呼びます。過去世は長い長い、無限の時だったと考えます。
 過去世から、私たちは選ばれて現世に生まれるわけですが、生まれたとたん、過去世の記憶は失っていますので、どんな暮らし方を過去世でしてきたか覚えていません。
 現世で、八十年か百年生きたら、私たちは必ず死にます。死んでも、魂は生きつづけていきます。死んだ後の世界を来世(らいせ)と呼びます。来世は過去世と同じく、やはり無限のはるかな時間を持っています。

悠久の時にはさまれた現世

私たちの今生きている現世は、悠久(ゆうきゅう)の過去世と悠久の未来にはさまれたほんの短い時間です。せいぜい長くて百年ばかりです。
たとえていえば、サンドイッチのパンにはさまれてたハムよりも薄い短い時間です。
その短いこの世で、私たちは、あれこれと悩み、煩悩に苦しみ、病苦に責められ、死んでいくのです。
どんな金持ちになろうと、出世栄達しようと、死んであの世に行く時は、財物も名誉も何ひとつ持っていくことはできません。この現世だけがすべてだとしたら、なんとはかないむなしい人生でしょう。
私たちが、この世だけの生き物だとしたら、本当につまら
ない。人間はどこから来て、どこへ行くのか、あらゆる哲学
はここから生まれています、あらゆる芸術もそれを追求しつ
づけてきました。
仏教は過去世(かこせ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)という三つの世を人間は行きつ
づけると考えたのです。これを三世(さんぜ)の思想といいます。
私たちはこの世での快楽だけに満足しようとしたり、この
世で苦労に不平不満を吐いたりしますが、悠久(ゆうきゅう)の三世(さんぜ)の時
間の中では、現世(げんせ)なんて、ほんの一つの点にすぎないものだ
と思えば、心にゆとりが生まれます。
この世の苦労は、来世でよりよい生活が出来るための修行
だと思えば耐えることができるでしょう。
私が出家して横川(よかわ)の行院(こういん)で行をしていた時三(さん)千仏(ぜんぶつ)礼拝(らいはい)という一番厳しい行がありました。
三千仏の名を称(とな)えながら一日に三千回五体(ごたい)投地礼(とうちらい)をするの
です。三千仏とは何かといえば、過去世(かこぜ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)の三劫(さんごう)に出現する三千の仏陀(ぶつだ)だと教えられてきました。三千の仏名はとても覚えられず、教師から口移しに称えながら、無我夢中で五体投地礼をつづけたものです。
三千の仏名はすべて忘れましたが、あの苦しさと、終わったあとの爽快感(そうかいかん)だけは、三十年後の今も、なまなましく身にも心にもありありと残っています。


愛別離苦

2007年10月13日 13時23分40秒 | 仏教

 人生では、生老病死の四苦(しく)の他に、まだ四つの苦があります。愛別離苦(あいべつりく)、怨憎(おんぞう)会苦(えく)、求(ぐ)不得苦(ふとくく)、五蘊(ごうん)(五陰(ごおん))盛苦(じょうく)といわれますこの四つと前の四苦を合わせて四苦(しく)八苦(はっく)と呼んでいます。
 愛別離苦とは、愛する人と別れる苦しみです。生別もあれば死別もあります。肉親に死別することも、友人や愛人に死別することもみんな悲しく苦しいことです。また老人が死ぬのは順縁(じゅんえん)といってあきらめもつきますが、自分より若い子供や孫に死なれるのは逆縁(ぎゃくえん)といって、これほど辛いことはありません。
 逆縁にあった母親が気が狂うほど嘆(なげ)き悲しむのは、慰めようもありません。もっと辛いのは、愛する人に自殺されることです。また愛するものが殺されることです。不況のためか年に三万人が自殺している昨今です。残された家族の苦痛はどんなに深いことか。
 北朝鮮の理不尽な拉致によって、家族が引き裂かれ、別れなければならなかった悲劇は、まだ解決を見ないまま、私たちの前に存在しています。生きていれば、いつ、私たちにふりかかってくるかわからない愛別離苦です。
 怨憎会苦(おんぞうえく)は、それと反対に、怨み憎む(うら にくむ)ものとこの世で会わなければならない苦しみです。
 どうしても好きになれない横暴な上司や、生意気な部下と毎日顔を合わせ、厭々(いやいや)仕事をしなければならない場合もあります。
しまいにはいやな気持ちが嵩(こう)じてノイローゼになってしまいます。
 子供の不登校なども、いじめっ子に会うのが原因という場合も多いのです。
 求不得苦(ぐふとくく)というくるしみもあります。これは欲しいものが手に入らないという苦しみです。
 自分はあの人が好きで、こんなに需(もと)めているのに、相手は自分の方をちっとも向いてくれず、他の女と仲良くなってしまったというのも求不得苦です。
 もっと大きな家が欲しい。車を買い替えたい。ブランドのハンドバックが欲しい。ダイヤが欲しい。あの豪華な着物が欲しい。しかし、お金がなくて、何も買えない
 そんな物をプレゼントをしてくれる男が欲しい。しかし一向にあらわれない。人間の欲望は限りなくあるので、欲しいものも限りなくあります。そのほとんどが手に入らないのが、現実の世の中です。それが、苦しい。

欲望が敵(かな)えられない苦しみ

 五蘊盛苦(ごうんじょうく)という苦しみが残っています。五蘊とは人間の体を構成
している五つの要素をさします。つまり、人間の体や心の中で欲望
が燃えさかり、それが敵(かな)えられないので苦しむことです。
 体のかもしだす苦しみといえます。過食(かしょく)、アルコールの依存症(いぞんしょう)、薬物(やくぶつ)依存(いぞん)、セックスの苦しみ、すべて五蘊(ごうん)盛苦(じょうく)です。
 この四つを、前の四苦(しく)と合わせて四苦(しく)八苦(はっく)というのです。
 生きているかぎりついて廻(まわ)るこの世の苦から逃れるには、仏(ぶつ)、法(ぽう)、
僧(そう)の三法(さんぽう)に帰依(きえ)して、八正道(はっしょうどう)を実践するしかないと仏教は教えています。


生老病死

2007年10月13日 13時16分20秒 | 仏教

 釈迦(しゃか)は、この世は「苦の世」だと断定されました。この世はまず、生(しょう)、老(ろう)、病(びょう)、死(し)という四苦(しく)があると教えられました。
 生まれる時のことを覚えている者はいません。でも、狭い産道を通ってくる時、苦しくなかったとは言えません。鉗子(かんし)で頭をはさまれたり、逆子(さかご)で出てきたり、また帝王(ていおう)切開(せっかい)でこの世に生まれてきたり、色々怖いめにあいます。それに苦の世と定められたところに生まれてくるのだから、生まれるということが苦にちがいありません。
 さて、生まれたその瞬間から、人間は老いに向かって歩き出します。いやだといっても、人はすべて老いるのです。体が弱り、不自由になり、目が薄く、耳は聞こえなくなり、肉は落ち、しわが出来ます。頭も鈍くなります。
誰だって老いを恐れ、いやがります。
また生きていたら、さまざまな病気になります。どんな丈夫な人でも、伝染病(でんせんびょう)がはやれば防ぎきれません。SARS(さーず)のような得体(えたい)の知れない病気に脅え(おびえ)なければなりません。
交通事故や天災や人災、戦災で、死なないまでも、ひどいけがや病気になることもあります。長生きしても痴呆(ちほう)になったり寝たっきりになるのは、苦痛でしかありません。
そして人生の最後は、一人残らず死への旅立ちです。
死は誰も経験したことのないない未知のものです。あの世とは果たしてあるのか、ないのか、誰にもわからない。地図のない国への旅立ちは不安と恐れがあるばかりです。また死に至るまでの病苦はたまらない。
生きるということは、これら四つの苦しみで成り立っているのです。
この四苦は、人の身分、貧富(ひんぷ)の差など関係なく味わわなければならないのです。


般若心経について

2007年10月13日 12時23分26秒 | 仏教

「般若心経」は、大乗諸経典の中でもよく釈尊の真意に適っているとして、開祖が、最初期から「金剛禅教典」の一つに加えられたものです.

「不立文字」を旨とする禅宗でも、達磨以来、この経は「観音経」と並んで、よく読誦されています。

 金剛禅では、日常の鎮魂行にも、儀式行事にも「般若心経」を唱和する習慣はありません。

 ただ、開祖が、この経典を数ある諸経の中から選択されて、わざわざ「教典」の中に取り上げられた意義を理解し、この経の意味を学ぶことは大切です。

[参考]般若心経

 仏教の基本聖典で、大乗仏典の一つ。詳しくは《摩訶般若波羅蜜多心経》という。

 サンスクリットの原題は、《プラジュニヤーパーラミター・フリダヤ・スートラ》(般若波羅蜜の心髄たる経典)。サンスクリット原典(大品・小品の2種)のほか、チベット語訳と7種の漢訳が現存する。一般に唐の玄奘(げんじよう)の訳する276字の漢訳(小品に相当)が知られ、同じ玄奘の《大般若経》600巻の精髄とみられた。

 内容は、表題のとおり、広大な般若経典の心髄をきわめて簡潔にまとめたもので、観自在菩薩(観音)が般若波羅蜜多(完全なる智慧)の行を修めて五薙(ごうん/存在の五つの構成要素)が空(無実体)であると悟ったことから説き起こし、仏弟子舎利子に対し、一切の存在が空であることを説き、最後に真言を説いている。

 とくに物質的存在は無実体であり、無実体なるものが物質的存在であるという意味の(色即是空、空即是色)という文句はよく知られる。

 サンスクリット原典は古くから日本に伝えられ、とくに法隆寺に伝わる小品の貝葉(ばいよう/609年将来)は貴重な文化財となっている。《般若心経》は中国と日本を通じて、各派で日課経として誦(よ)まれたため、玄奘門下の慈恩をはじめ、空海の注釈など、多くの注釈が書かれて、その数約300、近代の講義も200種を下らず、今も盛んに作られつつある。

 とりわけ禅では、達磨のものという 《心経疏》をはじめ、古くは四川の智潰と南陽忠国師、日本では大覚禅師、一休、盤珪、白隠のものが特色をもつ。


道訓について

2007年10月13日 12時22分06秒 | 金剛禅

「道訓」は金剛禅運動の実践綱領というべきものです。 「天」と「人」とのつながりを踏まえ、“霊止”としてどう行動すべきかが説かれています。 「道訓」は、「人道」を説いています.「人道」とは、人の踏み行うべき道であり、道徳規範です。

 しかし、「人道」は、ダ←マに発する「天道」の裏付けがあり、一体となってこそ、いつの時代でも、どこの地域社会においても天地に恥じない行動の源泉たり得ます。ある意味では万人共通の「道徳律」ともいえる「道訓」ですが、その奥にはしっかりと金剛禅の教えが息づいていることを忘れないようにしたいものです。

 そして、金剛禅は行動の宗教です.「道訓」は、その実践の具体的な教えであり、行としての規範そのものです。実践してこそ価値があるのです。(意訳) 人の踏み行う道は、人間社会の都合でこしらえたものではなく、宇宙にあまねく大いなるはたらき、即ち大真理・大法則の象徴であり、「天」(ダーマ)に基盤を置くもので、人として等しくよりどころとするべきものである。

 そのような本来の道の在りように気づいたならば、人はまっしぐらに進むことができるが、それに気づかなければ生きる道を踏みはずすことになってしまう。だから、道というものはたとえ一瞬の間でも忘れてはならないのである。

 人間としてこの世に生を受けた以上、この、天道に基づく道を迷わずに歩むことほど尊いことはない。せいいっぱい人道を尽くしてこそ、胸を張って堂々と生きられるというものである。

 仮にも、人間として生まれながら、仁(他者への思いやり)・義(仁を実践する勇気)・忠(自己を偽らない誠実さ)・孝(両親先祖への敬愛報恩)・礼(社会的規範や礼儀の遵守)などの徳を尽くさなかったならば、肉体だけは生きていても、心は死んでいるのも同じである.これはまさに、いのちを天から盗んでいるとしか言いようがない。

 もともと、(ダーマの分霊である)人の心そのものが神や仏なのであり、神仏とは人の本質である「たましい」でもある。心に疚しいことがなければ、なんら神仏にも恥じることはないのである。

 だから、自己のあらゆる行動は、ことごとくダーマと内なる神仏が見守っているのであって、(善因には善果、悪因には悪果)結果は自ずから明らかで、ごくわずかな過ちも見逃さないのである。  それ故、大自然には敬意をはらい、外なる神仏には礼を失せず、祖先には追慕の念を絶やさず、両親には孝養を尽くし、社会の規範には従い、師の教えには背かず、兄弟妹を愛し、友人を信頼し、親族は仲良く、地域社会では互いに協力し、夫婦はともに和やかに添い遂げ、他者の難儀には手を差し伸べ、危急を救い、道を踏み外す人には、正道に戻るよう諭すべきである。

 このように心を尽くして人道を歩み、仮にも過ちに気づいたならば、新たな心でやり直し、よこしまな思いを断ち切り、あらゆる善事を敬虔な心で実行すれば、たとえ他人は誰も見ていなくても、自己の心にある神仏には、すべて見通しで、幸福へ向かう原動力ともなり、身心ともに健やかとなり、子孫への良き手本ともなり、思い患って、わざわいや病に侵されることも少なくなろう。これをダーマに守られるというのである。 ダーマと「天」「神仏」「霊」  「道訓」では、末尾の「ダーマの加護を…」という表現以外は、「ダーマ」の語は用いられていません。その代わりに、「天」「神仏」「霊」など、東洋思想 (中国・朝鮮・日本等東アジアに通底する思想・信仰などの精神文化)の用語が用いられています。

 しかし、「道訓」は、行じるべき「道」(実践)の「訓え」です。儒教や道教の教典などではありません。 <思想としての普遍性>

 これらの用語が用いられているのは、一つには、金剛禅はおろか、仏教という枠さえ越えた、思想の普遍性によるものです。

 それは、どのような信仰の対象を持っていようと、人がみな大いなるはたらきによって生かされている事実は変わらない。「天」であれ、「神」であれ、「仏」であれ、大いなるはたらきの根元は一つである。人は、この偉大なるものの「分霊」として存在する。という開祖の考えによるものです。

 <開祖の体験を反映して>

 もう一つは、金剛禅が開祖の全体験から発する宗教だからです。開祖は、幼少のころから大陸にあこがれ、長じては中国大陸を縦横に馳せ、中国人とともに過ごしました。その風土、生活、思考など、総じて東洋文化のエキスが開祖の思想形成に大きく作用したであろうことは疑いありません。

 しかも、開祖は達磨を祖師と仰ぎ、達磨ゆかりの行法を主行と定めています。達磨の思想は中国において開花結実したものにほかなりません。達磨に始まる中国禅は、儒家や道家の思想と互いに影響しあい、やがて広い意味での東洋思想の一翼を担うに至ります。「道訓」の背景には、達磨と開祖を通じて、東洋思想の影響も強く存在する所以です。  よって、「道訓」には、「儒家」や「道家」が多用する文言が使われてはいますが、それらは、東洋思想に共通する「漢字」本来の語義として用いられています。

 金剛禅の教義は、あくまで釈尊の悟りの本質「ダーマ」を中核とします。だから、東洋思想の根元ともいえる「天」も、開祖にとっては「ダーマ」の同義語であり、「霊」も死後の「霊魂」を否定しつつ、「ダーマの分霊」のように、生身の人間の存在を規定する語とするのです。また、「人心は、即ち神なり、仏なり」の句も、大乗禅たる達廉の「見性成仏=悉有仏性」と重なり、ダーマの無限の可能性を主張しているのです。

“人道’’と“天道”(道徳と宗教)

  人間社会にとって、道徳が極めて大切であることはいうまでもありません。昨今の世相を見るにつけ、何とかしなければ、人類に、日本に未来はないと考える人々は、先ず道徳復興、道徳心の向上を叫びます。

 しかし、いくら声高に叫んだからといって、自然に道徳心が広がり深まるというわけではなさそうです。実際、何年も何年も前から言われ続けているのに、退廃はいっそう進行しています。何故でしょう。

 結論からいえば、「天(宗教)」に基盤を持たない「道(道徳)」には限界があるからです。

 道徳は、特定の時代、特定の社会で、その構成員で決められた、いわば人間だけのルールです。現代社会には現代社会の道徳があるように、たとえば封建時代には封建時代の道徳がありました。そこには、士・農・工・商の差別があり、斬り捨て御免の特権さえ認められていました。人間扱いをされない人々は道徳の範疇外だったのです。

 古代の奴隷も同様でした。現在でも、正義や人道という道徳の名の下に、戦争でさえ正当化されかねません。

 また、人間だけの約束事なら、悪いとわかっていても、人が見ていなければそれでいいという風潮もあります。  これが、「一動一静、総て神仏の監察する処」で、「人見ずと錐も、神仏既に早く知りて」だとしたら、衿を正さずにはおれないはずです。「道は天より生じ」とは、このことを言うのです。そして、これこそが、宗教の世界なのです。

 とりわけ仏教では「すべて悪しきことをなさず、善きことを実践し、自己の心を浄むること、これ諸々の仏の教えなり」(『七仏通戒偈』)といって、人が見ていようと見ていまいと、悪事はなさず、善事をなし、そのことを通して自己の心を向上させるのが仏教の基本であると説いています。

[参考]道徳 人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体.法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。(『広辞苑(第五版)』)


仏教の経典

2007年10月13日 12時20分52秒 | 仏教

仏教の経典 仏教の典籍(書物)は、通常、「経」「律」「論」の三種に分類されます。「経」は釈尊の教説をまとめたもの、「律」は出家僧侶の生活規則を定めたもの、「論」は教義上重要な項目に解釈や解説を施したものを指します。 釈尊の入滅後、弟子達は、釈尊の教えを正しくとどめるために、「けつじゅう結集」という経典編纂会議を開いて、教えの定型化・共有化を図りました。このとき成立した最初期の経典群は、“伝承された教説”を意味するアーガマの漢訳語で「阿含」と呼ばれます.金剛禅の「聖句」の二句は、ともにこの阿含経典群の一つの「小部」に属する「法句経」から開祖が選ばれたものです。 仏教経典には、この「阿含」経典群だけでなく、膨大な数の経典が伝えられています。その大部分は、釈尊から数百年後に成立した大乗仏教の時代になって作られたものです.仏教が、出家僧侶中心の学問仏教となり、人々を救済する布教力を失っていったことに猛反発して、世俗の悩める多くの人々を救済してこそ真の仏教であると興起したのが大乗仏教でした。 大乗仏教は、釈尊の真意を明らかにしようと次々と多くの経典を生み出しました。そのためか、ほとんどの大乗経典(「般若経」「維摩経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」等々)は、「仏説」と銘打たれ、釈尊の法話を直接聴聞したという形式をとっています。「如是我聞(このように私は聞いた)」です。[参考]宝諒の経典 中国・朝鮮・日本など東アジアヘは、大乗仏教が伝わりました.大乗経典群もほとんどが漢訳され、これらの大乗経典をもとにして宗派が成立します. 中国の仏教者たちは、インドから伝えられる大量の経典のすべてを、釈尊自身によって説かれたものと見なしました.ところが、それらの経典群の内容を検討すると、教義的に矛盾する点があるのに気づきます。そして、その理由を釈尊の「応病施薬」(人々の能力や悩みに応じて、それぞれにふさわしい教えを説く)の結果であると判断しました。そこで、すぐれた他教者たちは、自身の抱えている問題意識をもとに、経典を分類し位置づけしたのでした。 このように、すべての経典を釈尊一代の説法として、それぞれの形式や内容を分類し、体系づけ、価値を決めて釈尊の真意を明らかにしようとすることを「教相判釈」といいます。また、それによって、これこそ釈尊の本意中の本意であると判断した経典を「正依の経典」又は「所依の経典」とし、その経典を拠り所として各宗派が誕生していくのです。 なお、このような経典の扱い方は、以下のように日本の各宗派にも受け群がれています。<日本の主要宗派の「正依の経典」> 天台宗‥・法華経 真言宗‥・大日経(他に金剛頂など四部) 浄土宗…無量寿経・観無量寿経・阿鉢陀経(浄土三部経) 浄土真宗…  〃  (特に無量寿経) 日達宗・日蓮正宗…法華経 臨済宗・曹洞宗・黄檗宗・‥「不立文字」の故に、特に定めないが、金剛経・大般若理趣分・般若心経等を用いる。


鎮魂行について

2007年10月13日 12時19分43秒 | 金剛禅
1.教典を唱え、調息して身心を整える   鎮魂行は、金剛禅における「内修」の実践の一つです。教典を唱えて教えに心を向け、自らの行いを省みます。鎮魂行は、持戒、反省の行でもあります。   そして、調息して身心の統一を図り、しかるのち、少林寺拳法の修練に入ります。一同で教典を唱和することが、同じ道を歩む同志であるという意識の形成にもつなががります。   鎮魂行を行うに当たっては、参座する者の気を散らさないよう、その場に集中でききる雰囲気づくりが大切です。  2.金剛禅の「教典」 教典には、我々が目指すべき目的地と、そこへ向かうための道筋と、そのための実践行動の在りようが、具体的かつ明確に示されています。 「経典」でなく「教典」  金剛禅では、「聖句」、「誓願」、「礼拝詞」、「道訓」、「信条」をあわせて「教典」と呼びます.  一般の仏教のように「経典」としないのは、釈尊の教説(経)をまとめたものではなく、「聖句」以外は開祖が金剛禅のために自ら定められた教えだからです。もっとも、金剛禅は、“釈尊の正しい教えを現代に生かす”教えですから、教典すべての底流に釈尊の教えが息づいていることは言うまでもありません。 自分自身に唱え聞かせる  教典を唱えるのは、その内容を心に刻むためです。意味も解さずに、ただ唱えれば良いというものではありません。 一般の仏教における「経典」も、本来は、読んで、理解して、信じて、実践するための基本となるものであり、開祖も、『教範』(第一編・四「仏教軽視の原因と読経僧」)でこの点を強く指摘されています。  教典は、誰のためでもなく、自分自身に唱え聞かせるためのものです。

達磨の教え「二入四行論」

2007年10月13日 12時17分02秒 | 金剛禅
達磨の教え「二入四行論」から拳禅一如を見直してみる  先ず教範で開祖の教え「拳禅一如」を見直し、そこから達磨の教え「二入四行論」に当てはめて考えてみましょう。「拳は動功であり、禅即ち座禅は、静功である。拳は又肉体を意味し、禅は精神をあらわしている。  人間は本来、霊肉一如のものであって、霊魂と肉体は離すべからざるものである。故に、霊のみの修養によって、真実の救いや、人世に於ける真の大安慰が得られるものではなく、又肉体のみの修練によって、真の人格が完成したり、真の悟りが得られるものではない。  身と心、動と静、この相反するが如き二つのものは天地、陰陽の両相と同じく、別々には存在価値のないものである。故に正しい修養の道は、先ず霊の住家である肉体を養いながら、心即ち霊を修めるものでなくてはならぬのである。修養と云う言葉の意味は、心を修め、身を養うと云うところからきていることを知らなければならない。人間の心と身体の関係は、玄妙の極みである、心と体は二つのもののように見えて、実は一つである。心が主でもなければ、肉体が主でもなく、肉体が在っての心であり、霊があって始めて肉体は意味があるのである。・・・・・・(中略)・・・。  別々に離すことが出来ないものとするならば、その修養はあくまで霊肉一如でなければならぬ筈である。しかるに、現在多く行なわれている各種の修養法と称するものは、そのほとんどが精神偏重である。はなはだしいものは、足がくさる迄座禅せよと教えたり、絶食をさせたり、寒中滝に打たれる等の苦行をさせ、肉体を苦しめることによって、精神の安らいや悟りを得るのである等と説いている。長期の座禅や断食その他の苦行は肉体を弱化させて、枯木の如き人間をつくっている。  又各種の武道やスポーツ等は、勝敗が第一であり、精神修養とは名ばかりで、実質は技術第一、記録第一と特種な肉体を練成することに専念しているのが実状である。・・・・・・(以下略)。」  さて、拳は肉体を意味し、というところを考えてみてください。 この肉体を意味しと言う所を,単に肉体の鍛錬と考えてしまうと、単なる武道に精神論を加えたものが少林寺拳法という事になってしまうのです。それを金剛禅と呼ぶには余りにも浅すぎるのではないでしょうか。  人間の身体は鍛えても衰えるものです。若い間は力任せでも何とかなっていたものが、年をとれば何とも成らなくなってしまう、だから引退しなければならなくなってしまう。それでは武道やスポーツと変わらなくなってしまいます。  私は、体術において理法を追い求める事によって、腕力で行なっていたものを他の方向や角度、呼吸法、気の用いかたという能力によって転換する事を考えました。これは、達磨の教えた理入(りにゅう)にあたるものと考えれば、拳は肉体の限界を悟り、物事を理に応じて進める事の大切さを知る事なのではないでしょうか。だからこそ、これを禅の三祖 僧粲大師は「動中の功は、静中の功に百千倍する」と説かれた所以であり、北修禅の流れを組む我々が、拳と禅の二道に重きをおく理由と考えるべきではないでしょうか。   体の駆使と悟りから理を知り考える事を理入。様々な心構えから物事の真理を知り悟る事、称法行(しょうほうぎょう)四行の目的と考えれば、この二入の理と行が、拳と禅に置き換えられる事に気が付かねばならないのです。この二面から理を悟り万物の普遍の法則である法(ダーマ)を悟る事が拳禅一如の深い意味であると感じるのです。 「ダーマ」を物理学的宇宙観から説明する。(自説)    ダーマを説明しろと言われてなにも知らぬ人になるほどと納得いただける説明をできますか。大光明・大霊力・大真理と聞けば、なるほどなにかすごいものなんだなーという感覚を受けるかもしれませんが、それと同時に宗教的な感覚を感じとるのではないでしょうか。ここで言う「宗教的な」とはあまり良い意味ではありません。いわゆる得体の知れないものという感覚で、よく言えば神秘的な、悪く言えば曖昧な感覚のことです。  そもそも宗教は心のよりどころ、「曖昧な表現があってもそれが宗教観ではないか」と言う人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。なぜなら金剛禅では釈迦の正しい教えを説いているからです。  そこで私は宗教とは全く反対の分野を切り口にして皆さんが金剛禅の信仰の中心になっているダーマを理解できるようにご説明させて頂きます。  現代の宇宙論として通説になっている量子論と相対論という現代物理学の2大理論から導かれた宇宙論をまず紹介します。東大教授佐藤勝彦 著『宇宙は我々の宇宙だけではなかった』を引用しましたので是非ご覧になってください。  宇宙は時間も空間もエネルギーも全くない無から量子論的「トンネル効果」によって創世され、この宇宙は後にたくさん発生する「子宇宙(チャイルド・ユニバース)」、「孫宇宙」「曾孫宇宙」などの「親宇宙」に当たるが、ただ一つだけ生まれたのではなく、この段階でも沢山生まれたと考えられる。 「親宇宙(マザー・ユニバース)」は十のマイナス三十四乗センチメートル(プランクサイズ)程度の閉じた宇宙。創世と同時に内部エネルギー(真空エネルギー)によってインフレーション急膨張を起こし何十桁、何百桁も引き延ばされてマクロな宇宙になったそのさなか、宇宙のあちこちでは相転移が起こり、お湯が沸騰したときの様なボコボコした状態のなかから「子宇宙(チャイルド・ユニバース)」が誕生した。また子宇宙でも同じように「孫宇宙」が生まれ、「孫宇宙」でもまた「曾孫宇宙」が生まれると言うように無数の宇宙が生まれた。 この相転移のプロセスの中で宇宙のエネルギーは一挙に開放される。そして、相転移後の宇宙は開放されたエネルギーで満たされ「火の玉」となった。この瞬間が「相対論的宇宙論」でいうところの「ビッグバン」です。  こうして無数に誕生した宇宙の一つが我々の宇宙に進化した。もちろん他にも無数の宇宙が我々の宇宙と同様に進化している。すなわち、宇宙は我々の宇宙だけでないと言うことがはっきりしたわけです。 そしてビッグバンを経てわれわれの宇宙は膨張進化を続ける。光に満たされていた宇宙では温度が下がるにつれて、物質が誕生し、銀河ができ、星がうまれ、太陽系ができ、地球が生まれます。さらに生命が誕生し、人類に進化し、現在、われわれが知恵を総動員して宇宙の「来し方行く末」を考えているわけです。  しかし、進化した宇宙は、遠い将来、収縮に転じ、やがて「無」の中に消滅してしまうと思われます。宇宙はこのように、常に生成と消滅を繰り返していくのです。そして、われわれの時空を超えたところでも、無限個の宇宙がやはり生成と消滅を繰り返していると思われます。      __以上引用文 ________________________________________  この本を読んで驚かされたのは時間は物質の存在により進む速度が変化し、重力の極限状態では空間は極限まで曲げられ時間の進み方も極限まで遅くなり凍結されてしまうということ、そして何より宇宙の膨張にも終わりがあり、最後は消滅するということでした。宗教観が宇宙観を作り上げていた時代ではかんがえられないことだったとおもいます。しかし、釈迦の宇宙観はこれを素直に受け入れられるのです。無からの誕生そして膨張という育みの中で新しい芽を生み、そして迎える死。宇宙を支配するこの法則は生・育・死であり、宇宙ですらこれを繰り返していることがわかります、実は我々の営みこそが宇宙の営みとなんら変わらないことに気づくのではないでしょうか。  人の言う生をうけたものも、そうでない大地に育まれるように、直接的に生産する部位と間接的に育む部位が存在します。それと同じ様に我々も子孫を残すと同時に様々なものを間接的に育てたり破壊したりしています。死は生の為にあり、生は自らを育み新しい因子を生み死を迎えます。すべてのものはこの法則的行為のもとに互いに関わり合うのです。  超高質量の世界では時間は流れず、とまってしまいます。我々の宇宙の誕生の前がこの時ですが、これが育む段階になって時間が流れはじめます。時間は物質の存在によって変化しています。つまり時間は育みを行うために流れる時間を変えているのです。我々は死を糧として育むためにいきています。だから我々は死を拝み、また関わるお互いを拝みあい、時の中で新しいものを育んでいます。子孫に悪因を植え付けると子孫にはかならず悪果をもたらしますから、時の流れの中で良い因子を積み上げなければなりません。これが宇宙の本能であり、万物の本来の姿。宇宙と同じ呼吸なのだと思います。つまりダーマとは宇宙の本能であり、我々が時の流れの中でしなければいけないことを告げているのです。 中道の精神から不殺活人という理想を考える   単に勢力を争ったり、自分の主義主張で、我を通すために戦いを求め、各々の正義を主張して争いをはじめる。腕力や兵力で相手を叩き伏せねば気の済まない者がいるから戦いになり、多くの悲しみをつくり、怒りが蔓延する。   武の本来の意味はいたずらに人を傷つけ殺すためのものではなく、あくまで争いを止める事にある。『力愛不二』の真の意味である、「力」の表わす理智による自己確立と、「愛」の表わす慈悲をもった自他共楽を兼ね備えた姿勢がなくしては、この連鎖する憎しみを断ち切る事が出来ないのである。   人を傷つければ憎しみが生まれる、例えそれが相手の理不尽から始まった事と思えても、相手にも相手の考え方があっての行動であると思えば、負けたという悲しみが、憎しみに変わる事を理解しなければならない。この憎しみをあおり、さらに、大きな戦いへと持ち込もうとするものがいる事は、最近の世界情勢の中でまざまざと見せ付けられている。   自分の考えのみが正しいと考えるから他がゆるせなくなる。善も悪も無い、人それぞれの立場や考え方、環境で善悪の尺度などどうにでも変わってしまう事を理解する事だ。   右があれば左もある。自分が左だと思っていても、自分を右だと見る人もいる。   相手の意見が気に入らないと潰しに掛かるのではなく、お互いが共存できる道を探すことが重要なのである。   理不尽に身にふり掛かってきた災難を腕力ではなく、理智を持って対処し、粗暴な行為を抑え諭すこと、それが少林寺の拳士に求められる拳の用い方であり、誰もが行なえるためにも理の活用の重要性を説く理由なのである。 力愛不二という考えかたについて  力は理智を表わし、愛は慈悲を表わしている。理智と慈悲、力と愛、この相反する二つのものの調和、統一された状態こそ。人間生活の思想や行動の中心でなくてはならないと云うのが、少林寺拳法の第二の特徴であり、考えかたなのである。   さて、これを「力なき正義は無力であり、愛なき力は暴力である」とばかり解することが多いが、さらに深く考え、我々の日常にあてはめて考えるのならば、次のように解釈してみればよいだろう。   力とは自分に対する信頼であり、責任感を貫き通す真の勇ましさに他ならない。この力が自分に機会という場を導き出す事になる。与えられた機会の中から努力し、一つ一つ着実にこなしていく事で、他者からの信頼を得る事になる。   ただし、力だけでは世の中に通用しない。それ以上に必要なものがある。それが愛である。愛とは他人を愛する事と同時に、他人から愛されるだけの魅力を持つという事、求められるという事でもある。自分に与えられた機会をただこなすだけではなく、魅力のあるものに仕上げる事が出来る人間こそ真の信頼を得ることが出来る。   この力と愛を一つにした行動こそ、社会に求められ、自分の道を開くものである。力に任せた惰性な行動や、求められる事を見抜けないような意識の低さでは駄目だということである。   自他共楽、『 半ばは 自己の幸せを  半ばは 他人の幸せを  』という開祖のことばが答えを示している。 修羅(シュラ)の道と阿羅漢(アラハン)の道 人間の脳には二つの心が同居している。よくドラマやアニメなどでおなじみの天使と悪魔のささやきがこれで、人間を始め動物が持ち合わせている本能の働きと、人間しか持ち合わせない、理性の心の働きの二つのことである。中国では前者を魄(ハク)後者を魂(コン)として区別している。我々の行う修行とは本能の働きを抑制制御し、ダーマの分霊として備わる魂を養うことなのである。   我という字は手と戈の二つの文字が合わさって出来た会意文字。つまり我とは手に戈を持った状態であり、これを行使する心の持ちようで善にも悪にもなりうるのであるから、苦悩の根源である欲求つまりは本能の働きを修め、より理性的な行動を心がけなければならない。人の霊止たる、我の我たる真諦を極め人間は何のためにこの世に生を受けているのかを悟らなければいけないのである。   行という字は、人が人をおぶって向かい合った姿からできている。我々の行いが世のため人のために役立たなければ意味がないのである。自己確立は自他共楽のためであり、決して自己満足で終わってはいけない。己の強さを誇示しようとして他人を傷つけてはいけない。傷つけるものは傷つけられる。悪因があれば必ず悪果がもたらされるのが道理。これはまさに修羅の道。武の意義をはきちがえたものの行為である。二つの戈を止めるという意義を片時も忘れずに己を修め、己に克ち、人をいかして己も生きる済世利民の道、つまりは阿羅漢(仏)の道というより険しく遠い道を我々は選んでいるのである。利己的で安易な道に流され本道を見失ってはいけない。 欲こそ苦悩の根源 生の意義を自覚せよ 三宝印   我々の人生は悩みの繰り返しではないでしょうか。若い人であれば恋愛の悩みというのもあるだろうし、受験生には将来の悩みというのもあります。そんな君たちに知っておいてほしいことがあります。それはどんな人も必ず死を迎えるということです。  皆はまだ若いから死について考察したことなどないと思います。あるとすれば自殺したいと漠然的もしくは衝動的に思ったくらいではないでしょうか、私の言う死にたいする考察とはそういうことを言っているのでは在りません。生きたいという誰しもが持つ生存欲の果てに待つのは必ず死であるという矛盾が苦悩を生み出すのであり、死を認め人生の意義を知ったとき人は苦悩から開放されるということです。すべての悩みは事実と期待が矛盾することに始まります。期待するから失望があるのです。自分の思うままにならないから悩むのです。期待しそれが順調に行っても最後に迎えるのは死、報われない努力。だったら期待するのを止めればいいのです。この世の中は絶えず変化しています。それは生滅を繰り返し、お互いに影響を与え色々な形を生み出し常に変化を繰り返しています<諸行無常>レポートの最初にも取り上げましたがこの宇宙自体がその繰り返しなのです。その中で生・育・死の三つが宇宙の本能としてあると言うお話をしました。そして育こそが生と死の意義だとときました。直接的に育むものもあれば間接的に育むものもあり、良い因子を正しい方法で育成すればそれは次の世代に良い結果や新たな良い因子として継承されるが悪い因子や正しくない育て方をすると淘汰、排除されてしまうという宇宙の法則があるのです。  先日ある拳士が私に質問しました「年をとったり病気をして死んでしまう人がいるのは悪い原因があったんだな~って思えるけどまだ何も汚れていない赤ん坊が事故とかで死んでしまうのはなぜなんでしょう」それは先ほども書きましたが、全てが自分の持つ因や、直接的な縁によって決まるのではなく、縁はお互いに影響しあうものであり、他のものと接したり近づくことによって縁が絡む(生ずる)からなのです。決して前世の因縁(輪廻転生)がもとで死んだのではなく、事故を起こした親には事故をおこした原因があり、また経過(縁)があった結果の事故であり、その人が親であり(因)、一緒にいた(縁)からそのこは死んだのに違いありません。ところでこの親が事故してしまう原因が例えば居眠り運転で、その居眠りの原因がこの子の夜泣きだったとしたらどうでしょう。まさに近づくことで影響しあっていることが想像できると思います。私達は常にいろいろな要因にさらされ、その中で一瞬一瞬を生き抜いているのです。自分の事であって自分だけのことでない、他人のことであって、他人事でない全ての変化は相対的であり関連性の連鎖なのです。<諸方無我>だとするならば、我々は自らによい因と縁をもたらすためにも接する人にもよい因と縁を持たせねばならないのです。半ばは自分の幸せを 半ばは他人のしあわせを考え行動することで周囲を良い因子で満たし、これを直接的に、また、間接的に継承してよりよい世界を作り上げていくものでなければならないのです。そしてそこにこそ安心と安息があるのです。<涅槃寂静>そして、これこそが人間の生の意義であり、イコール宇宙の本能<ダーマ>なのです。 金剛禅と少林寺拳法の原点 開祖の意図したこと  少林寺拳法の原点は単なる武道やスポーツではなく自己確立の為の行であるということ。開祖が戦中から敗戦を迎える中で感じ取った「人の質」の重要さ、そして、この質の向上こそが祖国復興の鍵との信念の中から少林寺は誕生している。  道義も人情も廃れ跡形もなくなってしまっていた当時の日本。正しい事を正しいといえる人間を作ること、自信と勇気と行動力があってなおかつ正義感と慈悲心を持ち合わせた若者を作るために開祖がよりどころとしたのは、釈尊の正しい教え(*1)と達磨の遺法(*2)であった。それは開祖の実体験の中でまさしくこの世の中の無情とそして、相関性を痛感されたからだろう。開祖はこの涅槃寂静を死後の世界ではなく、現世に理想境を建設することと素直に捉え、廃退した仏教を本来ある形に押し戻し、自己確立と自他共楽こそがそれを導き出す唯一の手段であるとした。そのためには釈尊の教えた八正道の実践と真理を導き出すための動功として達磨が残した阿羅漢の拳の復興こそがテーマとなったに違いない。教範の文面や、文の構成、タイトルの付け方からもそれが読みとることが出来る。、開祖の思惑の中では当初から行としての少林寺拳法は確立されており、人集めのためのエサであってエサでなく、それは真意を知って行うことによって悟りが開ける一つの完成された行であることを知らなければならない。ようするに金剛禅とは仏教の始祖釈尊の正しい教えの、少林寺拳法は禅の祖師達磨の遺法に基づく開祖、宗道臣の解釈と実践の形なのである。 *1 釈尊は初法転輪と呼ばれている悟りを開いた直後に初めて行った説法のなかで四宝印(諸行無常、一切行苦、諸法無我、涅槃寂静)と、最期に弟子達に自灯明、法灯明を言い残している。これは金剛禅の二枚看板、自他共楽と自己確立の教えである。 *2 二入四行論といって金剛禅で言う拳禅一如にあたる教え、動功としての阿羅漢の拳は易筋行としての少林寺拳法。 江間氏のレポートより。

僧階 大導師の履修科目

2007年10月13日 12時13分15秒 | 金剛禅

[テーマ番号] [テーマ]

L1  開祖が少林寺拳法を創始するに至った経緯

(留意点) 開祖の少林寺拳法創始の目的が、武道の一流一派を立てることにあったのではなく、「人づくり」にあったことを歴史の中から整理し論述すること。

L2  宗教法人金剛禅総本山少林寺が設立された経緯

(留意点)様々な選択が可能な中で、自らの教団を仏教系禅門の宗教団体として定めたりゆうについて考察し論述すること。

L3  社団法人少林寺拳法連盟が設立された経緯

(留意点)社団法人設立の背景について論述し、また、金剛禅布教と社会教育との共通部分とその違いについても述べること。

L4  財団法人少林寺拳法連盟が設立された経緯

(留意点)少林寺拳法連盟設立の背景について論述し、また、宗教法人の観点から見た同連盟設立の意義と、教団にとっての今後の課題についても述べること。

L5  支部道場の発足にいたった経緯

(留意点)支部道場と道院の違いをあきらかにし、支部道場の歴史的役割について考察し論述すること。

L6  黄卍教団の思想と金剛禅総本山少林寺の思想

(留意点)黄卍教団設立時の思想と祖師貴、そして金剛禅教団とを比較し、その中で変わった部分と変わらない部分について論述すること。

L7  三法人(宗教法人 金剛禅総本山少林寺、財団法人 少林寺拳法連盟、学校法人 禅林学園)の設立の趣旨と活動から見た独立性と共通性

(留意点)三団体の独立性と共通性について論じ、また、各団体の連携による今後の金剛全布教の可能性や課題についても述べること。

科目」宗論(宗教論)4 仏教の歩みと金剛禅(上)

以下より2題を選択する。

[テーマ番号] [テーマ]

M1  釈尊の教えと金剛禅の接点

(留意点) 当時と現代の社会思想的背景の比較を踏まえ、仏教発生と金剛禅成立との接点について考察し論述すること。

M2  金剛禅が「釈尊の正しい教えを現代に生かす」教えであるとはどういうことか

(留意点) 釈尊の正しい教えとはなにか、またそれを生かすとはどういうことかをまとめ、金剛禅では「釈尊の正しい教えを現代に生かす」という表現をとることの意義も論述すること。

M3  釈尊の時代のインドはどんな社会だったか

(留意点) 当時のことを説明するだけでなく、釈尊の教えが人間の普遍的な問題に対する視点を持ちつつも、当時の社会における問題を解決し得る思想であった点についても述べること。

M4  釈尊の生涯

(留意点) 釈尊の生涯を簡単にまとめるか、または強い印象を受ける時期・出来事について論述すること。

M5  釈尊の説法の方法に共通して見られる特徴

(留意点) 釈尊の説法について考察し、その自他の関係についての考え、他者への働きかけ方、物事がわかるということについてなど、教育、人間関係、認識などについて論述すること。

M6  釈尊の教えの中核

(留意点) 「中道」「四諦」「八正道」のいずれかの要約を含めて論述すること。

M7  釈尊の悟りの本質について

(留意点) 「ダーマ(法)」「縁起(因縁)」「三(四)法印」のいずれかの要約を含めて論述すること。

科目」運動論(実践論) 布教のお手引き 教団編

以下より2題を選択する。

[テーマ番号] [テーマ]

N1  仏教の僧伽

(留意点) 原始仏教教団の「僧伽」の性格を整理し、金剛禅教団が継承すべきことと現代に対応するため考察すべきことについても論述すること。

N2  道院の役割とその公共性

(留意点) 「道院」と「寺院」の考え方の違いを整理し、専有道場の役割にも触れながら公共性ある道院活動の展開について考察し論述すること。

N3  宗教法人と教団運営

(留意点) 宗教法人法が規定する世俗的な面、すなわち信教の自由や政教分離の原則、財産の所有、維持管理などと教団運営の関係について考察し論述すること。

N4  教団の共有経済

(留意点) 原始仏教教団の現前僧伽や四方僧伽などの共有経済について考察し論述すること。

N5  金剛禅修行者にとっての教団の存在意識

(留意点) 修行者の意志と教団規範の関係において、いかに自己確立・自他共楽の人間完成の道を歩むのか、教団の存在意義から考察し論述すること。

N6  教団組織における教区の役割

(留意点) 原始仏教教団の界(シーマ)や四方共有などについて考察し、金剛禅教団組織の中核としての教区の役割について論述すること。

科 目」布教演習(阿羅漢行)2 自己評価演習Ⅱ

[方 法] 「少法師補任講習」受講の際に、「自己評価演習 自分史年表」を作成し提出する。


四諦八正道・四苦八苦

2007年10月13日 12時11分08秒 | 仏教

四諦

苦諦 人生は苦しみの世界である

集諦 苦の原因は欲望からである

滅諦 苦から逃れず人生苦を克服する道

道諦 苦悩克服の具体的な実践方法の八正道

八正道

 正見 正しい見解でありのまま本質を見る

 正思 正しい判断 善悪の決断

 正語 真理を伝え人の心を助ける

 正業 正しい行動

 正命 正しい生活から職業を通じて人に奉仕する

 正精進 正しく努力する 全てに励む

 正念 正しい信念を持つ 奉仕の喜びを知る

 正定 精神を統一し なすべきことに全神経を集中する

四苦八苦

 生老病死 人間についてまわる苦しみ

 愛別離苦 愛する者と別れる苦しみ

 怨憎会苦 憎む者と一緒に居る苦しみ

 求不得苦 求める物が得られぬ苦しみ

 五取蘊苦 心と体の働きが生む苦しみ

三法印

 諸行無常 万物は常に変化する

 諸法無我 因縁因果の中の自己

 涅槃寂静 執着心から逸脱した悟り

 一切皆苦 世の中は全て苦である(一切皆苦を含み四法印とする)

五戒

 倫盗戒 邪淫戒 妄語戒 殺生戒 飲酒戒