「道訓」は金剛禅運動の実践綱領というべきものです。 「天」と「人」とのつながりを踏まえ、“霊止”としてどう行動すべきかが説かれています。 「道訓」は、「人道」を説いています.「人道」とは、人の踏み行うべき道であり、道徳規範です。
しかし、「人道」は、ダ←マに発する「天道」の裏付けがあり、一体となってこそ、いつの時代でも、どこの地域社会においても天地に恥じない行動の源泉たり得ます。ある意味では万人共通の「道徳律」ともいえる「道訓」ですが、その奥にはしっかりと金剛禅の教えが息づいていることを忘れないようにしたいものです。
そして、金剛禅は行動の宗教です.「道訓」は、その実践の具体的な教えであり、行としての規範そのものです。実践してこそ価値があるのです。(意訳) 人の踏み行う道は、人間社会の都合でこしらえたものではなく、宇宙にあまねく大いなるはたらき、即ち大真理・大法則の象徴であり、「天」(ダーマ)に基盤を置くもので、人として等しくよりどころとするべきものである。
そのような本来の道の在りように気づいたならば、人はまっしぐらに進むことができるが、それに気づかなければ生きる道を踏みはずすことになってしまう。だから、道というものはたとえ一瞬の間でも忘れてはならないのである。
人間としてこの世に生を受けた以上、この、天道に基づく道を迷わずに歩むことほど尊いことはない。せいいっぱい人道を尽くしてこそ、胸を張って堂々と生きられるというものである。
仮にも、人間として生まれながら、仁(他者への思いやり)・義(仁を実践する勇気)・忠(自己を偽らない誠実さ)・孝(両親先祖への敬愛報恩)・礼(社会的規範や礼儀の遵守)などの徳を尽くさなかったならば、肉体だけは生きていても、心は死んでいるのも同じである.これはまさに、いのちを天から盗んでいるとしか言いようがない。
もともと、(ダーマの分霊である)人の心そのものが神や仏なのであり、神仏とは人の本質である「たましい」でもある。心に疚しいことがなければ、なんら神仏にも恥じることはないのである。
だから、自己のあらゆる行動は、ことごとくダーマと内なる神仏が見守っているのであって、(善因には善果、悪因には悪果)結果は自ずから明らかで、ごくわずかな過ちも見逃さないのである。 それ故、大自然には敬意をはらい、外なる神仏には礼を失せず、祖先には追慕の念を絶やさず、両親には孝養を尽くし、社会の規範には従い、師の教えには背かず、兄弟妹を愛し、友人を信頼し、親族は仲良く、地域社会では互いに協力し、夫婦はともに和やかに添い遂げ、他者の難儀には手を差し伸べ、危急を救い、道を踏み外す人には、正道に戻るよう諭すべきである。
このように心を尽くして人道を歩み、仮にも過ちに気づいたならば、新たな心でやり直し、よこしまな思いを断ち切り、あらゆる善事を敬虔な心で実行すれば、たとえ他人は誰も見ていなくても、自己の心にある神仏には、すべて見通しで、幸福へ向かう原動力ともなり、身心ともに健やかとなり、子孫への良き手本ともなり、思い患って、わざわいや病に侵されることも少なくなろう。これをダーマに守られるというのである。 ダーマと「天」「神仏」「霊」 「道訓」では、末尾の「ダーマの加護を…」という表現以外は、「ダーマ」の語は用いられていません。その代わりに、「天」「神仏」「霊」など、東洋思想 (中国・朝鮮・日本等東アジアに通底する思想・信仰などの精神文化)の用語が用いられています。
しかし、「道訓」は、行じるべき「道」(実践)の「訓え」です。儒教や道教の教典などではありません。 <思想としての普遍性>
これらの用語が用いられているのは、一つには、金剛禅はおろか、仏教という枠さえ越えた、思想の普遍性によるものです。
それは、どのような信仰の対象を持っていようと、人がみな大いなるはたらきによって生かされている事実は変わらない。「天」であれ、「神」であれ、「仏」であれ、大いなるはたらきの根元は一つである。人は、この偉大なるものの「分霊」として存在する。という開祖の考えによるものです。
<開祖の体験を反映して>
もう一つは、金剛禅が開祖の全体験から発する宗教だからです。開祖は、幼少のころから大陸にあこがれ、長じては中国大陸を縦横に馳せ、中国人とともに過ごしました。その風土、生活、思考など、総じて東洋文化のエキスが開祖の思想形成に大きく作用したであろうことは疑いありません。
しかも、開祖は達磨を祖師と仰ぎ、達磨ゆかりの行法を主行と定めています。達磨の思想は中国において開花結実したものにほかなりません。達磨に始まる中国禅は、儒家や道家の思想と互いに影響しあい、やがて広い意味での東洋思想の一翼を担うに至ります。「道訓」の背景には、達磨と開祖を通じて、東洋思想の影響も強く存在する所以です。 よって、「道訓」には、「儒家」や「道家」が多用する文言が使われてはいますが、それらは、東洋思想に共通する「漢字」本来の語義として用いられています。
金剛禅の教義は、あくまで釈尊の悟りの本質「ダーマ」を中核とします。だから、東洋思想の根元ともいえる「天」も、開祖にとっては「ダーマ」の同義語であり、「霊」も死後の「霊魂」を否定しつつ、「ダーマの分霊」のように、生身の人間の存在を規定する語とするのです。また、「人心は、即ち神なり、仏なり」の句も、大乗禅たる達廉の「見性成仏=悉有仏性」と重なり、ダーマの無限の可能性を主張しているのです。
“人道’’と“天道”(道徳と宗教)
人間社会にとって、道徳が極めて大切であることはいうまでもありません。昨今の世相を見るにつけ、何とかしなければ、人類に、日本に未来はないと考える人々は、先ず道徳復興、道徳心の向上を叫びます。
しかし、いくら声高に叫んだからといって、自然に道徳心が広がり深まるというわけではなさそうです。実際、何年も何年も前から言われ続けているのに、退廃はいっそう進行しています。何故でしょう。
結論からいえば、「天(宗教)」に基盤を持たない「道(道徳)」には限界があるからです。
道徳は、特定の時代、特定の社会で、その構成員で決められた、いわば人間だけのルールです。現代社会には現代社会の道徳があるように、たとえば封建時代には封建時代の道徳がありました。そこには、士・農・工・商の差別があり、斬り捨て御免の特権さえ認められていました。人間扱いをされない人々は道徳の範疇外だったのです。
古代の奴隷も同様でした。現在でも、正義や人道という道徳の名の下に、戦争でさえ正当化されかねません。
また、人間だけの約束事なら、悪いとわかっていても、人が見ていなければそれでいいという風潮もあります。 これが、「一動一静、総て神仏の監察する処」で、「人見ずと錐も、神仏既に早く知りて」だとしたら、衿を正さずにはおれないはずです。「道は天より生じ」とは、このことを言うのです。そして、これこそが、宗教の世界なのです。
とりわけ仏教では「すべて悪しきことをなさず、善きことを実践し、自己の心を浄むること、これ諸々の仏の教えなり」(『七仏通戒偈』)といって、人が見ていようと見ていまいと、悪事はなさず、善事をなし、そのことを通して自己の心を向上させるのが仏教の基本であると説いています。
[参考]道徳 人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体.法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。(『広辞苑(第五版)』)