今回は、ちょっと普段書いていないジャンルから出発して、翻ってお笑い界について考えたことを書いてみようかと思います。
各所で話題になり、様々な議論を巻き起こしている、佐村河内守氏の、別人作曲問題。
私はクラシック音楽に造詣が深い訳ではありませんが、NHKのニュースなどで度々取り上げられていたのを見て、佐村河内氏のことは以前から知っていました。
だからこのニュースは衝撃だったし、メディア関係者まで巻き込んでこんな大それたウソをよく作り上げたなと思って。
それと同時に、世間の騒ぎ方について、なんだか上手く言い表せない違和感が生まれていたんですよね。
そこから様々な分野のジャーナリストや評論家の方の意見を読んで、なんとなく自分の中でその違和感の正体がわかったので、
きれいにまとめられるかどうかはわかりませんが、ちょっと書き残しておきます。
一応はじめにきちんと述べておきますと、どのような理由があったにせよ、佐村河内氏が別人に作曲をさせていたことはまぎれのない事実ですので、その点に対して擁護するつもりはありません。悪いことは悪い。
あと、ゴーストライターの是非みたいなこともここでは書くつもりはありません。
私は事件の本質以外のところ。
つまり、「人々は作品をどう捉えているのか」というところについて、一番興味がわいたというか、解明したいと思っています。
この件について、色々な方の評論を読んだのですが、私の中で一番納得できたのは、乙武氏のこの分析でした。
佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは
乙武氏は、作品を「コンテンツ」と「コンテクスト」という二つの観点から見る考え方を紹介しており、何を重視するかが異なれば今回の件に対してどう思うかが変わってくるのだろうと述べています。
そして、今のビジネスは「コンテンツからコンテクストへ」という流れになっており、作品に「物語」を付与し、人々の関心を高める流れになっているそうです。
先ほど、「世間の騒ぎ方に違和感があった」と書いたのですが、特に私にとって、一番違和感があったというか、肌に合わないなーと思った意見は、こういうものでした。
「話題性のあるものばかりが売れて、本当にいいものが世に出回らない」
「今の世の中は、音楽の本質が評価されていない」
みたいなもの。
私が、この事件に対する一部のリアクションについて違和感を持っていたのは、まさに「コンテンツ」と「コンテクスト」の二つを一緒くたにして語る方が多かったからなんだろうなあと。
だからまずは、コンテンツとコンテクストのそれぞれを重視している人の考え方は違うこと、
そしてそもそも、コンテクストを重視することの是非について、考えるのが先なのではないかと思ったのです。
いや、違うな。
どちらかと言うと、私が問題提起したいのは、「コンテンツだけを重視することの是非」ですかね。
私が、とても納得し共感できた乙武氏の論に対して、理解はできるんだけども共感は出来ないという意見を書いていらっしゃったのが、伊東乾氏のご意見でした。
偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏
音楽家の善意を悪用、一線を越えた偽ベートーベン あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏(2)
色々なことを書いていらっしゃるのですが、私なりに要約をさせて頂くと、
伊東氏は、ゴーストライターをしていた新垣氏は、大衆に受けそうなパターンをあてはめて作曲していただけで、
それはまるで制約の中で試験問題をつくるようなものであり、新垣氏自身が本当にやりたかった曲ではないのだろうと述べています。
以下引用。
『世間で流通する商用の音楽は、既存の書法の使いまわしでできています。その方が耳に親しみやすいし、ヒットもする。
例えば連続ドラマ「あまちゃん」の音楽はよくヒットしました。ウイットとして面白いとも想いますが、そこに専門人は独自の新たな労作を見出しません。』
そして、「わかりやすいストーリー」に押し込めて売りだしてしまうメディアのやり方に疑問を呈し、
新垣氏には、『新垣君にも、こんなことでめげないで彼本来の音楽で大いに頑張ってほしい』と述べています。
ここに私は、とても引っかかってしまったのです。
私はクラシックのことは全然わかりませんが、現代音楽の作曲者や関係者の方々にとっては、一般受けする曲なんて創造性がなくてやりがいがないのかもしれないということは、
確かに感覚としては想像できます。
でも、だからといって、独自で難解な雰囲気に突き進み、一般の人に受け入れてもらえなくても、その人の自身の曲になっていればそれでいいのでしょうか?
その分野の関係者の方からしたら、「これは素晴らしい」「斬新だ」と評され、「ほんとうにいいもの」とされるかもしれなくても、
そのジャンルの楽しみ方がわかっていない方にとっては、それがいいものだと感じられないかもしれない。
玄人や関係者にしか判断できないような「いいもの」「いいコンテンツ」が持て囃されるようになった時、
一般人の感覚で理解できるものはもう、「コンテクスト」しか残っていないんだと思うんです。
クラシック音楽にとって、なにが「いいもの」とされるのかなんてわからないし、「いいもの」とされているものが自分の感覚とは合わない。
そうなると、あとはコンテクストで理解するしかない。
ああ、この部分で、この曲調で、原爆投下の時の苦しみを表しているんだなって、そうやって背景を知って、受け取り方のテンプレートをもらった方が、理解がしやすい。
私はそうやって、コンテクストから入って曲を受け取った人のことを批判はできないよ。気持ちはわかるもん。
「ほんとうにいいものが評価されない」って言って嘆いているような関係者は、
「ほんとうにいいもの」が、一般の人にも理解してもらえるような工夫をしているのか。
この曲のどのようなところにこだわりがあるのか、どのようなところが新しいのかを一般の人にもわかりやすく解説できるような、
そういう努力はしているのだろうか。
それもせずに、コンテクストや話題性ばかりが評価される世の中を批判していても、何も状況は変わらない。
前置きが長くてすみません。やっとここからが本題です。
例えばこれをお笑いで例えるとしたら、こういうことじゃないかと思うのです。
ライブで日々ネタを磨いて頑張っている芸人、そしてライブをよく見に行く客は、常に今までに見たことがないようなネタが生み出される瞬間を待っているし、
「こんなコント見たことない!」が、そのまま「今年のキングオブコントあるぞ!」につながっていく。(もちろん面白いのが大前提ですが)
でも、一般の人、普段お笑いを見ない人にとっては、未だに、
「オレ医者やりたいからお前患者やって」という漫才であるとか、「コンビニに変なお客さんがやってきてひたすら変な行動をする」というボケとツッコミがハッキリしてるコントであるとか、
そういうネタの方がわかりやすくて、面白くて、いいものだとされるのかもしれない。
ごめんなさい、こういうネタをバカにしているわけではないんです。
そして、囲碁将棋の医者と患者のようなネタは例外です(笑)
バカにしているわけではないけど、たくさんのネタを研究している芸人や、年に50本も100本もライブを見に行っている客にとっては、
「もうそのパターンはやりつくされてしまったし…」となってしまう。
だから、普段お笑いを見ない一般の人との感覚がどんどん離れていってしまう。
近年よく言われている、キングオブコントの芸人審査と一般人の感覚のズレは、こういうことからきているのではないかと思っています。
そしてあと数年で、これがもう相容れないところまで行ってしまうのではないかとも。
私は、お笑いというジャンルでは、コンテンツ重視の見方をしている人間だと思います。
しかし、完全にコンテンツだけで判断できているかというと、その自信はありません。
特にお笑いは、ネタと本人のキャラが直結している場合も多いから、
ネタだけの評価をしようとしても、その芸人さんの元のキャラ、かつてのエピソードを知っているから、
余計に面白く感じられるところ、意味が感じられるだってあるんだと思う。
例えば、これは架空の話、これはあくまでも、全て架空の話ですけれども。
例えば、ある時あるところに、所属していた事務所を辞めようとしたお笑いコンビがいたとします。架空の話ですけども。
いくら説得しても、そのコンビは辞めると言い張って聞きません。
そのコンビが所属していた事務所の上層部は怒ってしまい、えげつない文章を発表して世間を引かせ、
彼らが辞めたいと言い出したのではなく、彼らが自分達を怒らせるようなことをしたからこちらから解雇してやったのだ、というイメージを世間に浸透させることに成功しました。
架空の話ですけども。
紆余曲折あってその事務所を辞めた後、しばらく経ってそのコンビは、単独ライブの中であるコントを披露しました。
それは、「会社を辞めようとして辞表を出しているのに上司が辞めさせてくれない」というコント。
ここからは本当に架空の話ですけれども、例えばこのネタを見て、普段お笑いをあまり見ない人が、
「なるほど、今のさらば青春の光がやるから意味があるんだ」(あ、コンビ名言っちゃった)
「自分達のマイナスな経験をコントに変えて皮肉るなんて、なんてパワーがあるんだろう」
……という受け取り方をした人がいたとします。
そういう人がいたとして、私が
「うーん…多分違うんじゃないかなぁ…。本人達は別にそこまで考えてやってるんじゃないんじゃないかなぁ…。それよりももっとコントの内容を見てよ…。」
と思ったとしても、本人達の公式見解が出ない限り、そう受け取ったお客さんのことを否定する権利は私にはないと思います。
「それよりもね、内容を見て!このセリフがいいでしょ!これが次の展開へのフリになっててね!」
とか急に色々解説しても、別にコントの構造とかに興味がない人は聞いてくれない。
それよりも、その人の背景に重ね合わせた方が理解が早いから。
コンテクストはそれほど、作品と結びついている、そして結び付けられるように受け取られる。
そうなると、もう「コンテンツだけ」を純粋に評価することなんて、不可能じゃないかと思うのです。
先ほどあげたクラシックの例でも、業界関係者はコンテンツだけを見て「ほんとうにいいもの」と判断しているかもしれないけれども、
業界関係者は、これまでのクラシックの歴史や、現代音楽の生みの苦しみをわかっているからそう思うわけで、
それはそれで、コンテクストを含んだ評価になっているのではないでしょうか。
いいものだから多くの人に支持されるのか、
多くの人に支持されるからいいものなのか。
それとも、「ほんとうにいいもの」とは、世間の評価とは関わりのない所にあるのか。
色々考えてきたけど、その答えはわからない。
余談ですが。
私は、このコンビを、コンテンツだけで好きになったんだ。
コントが好きなだけなんだ。それ以上の理由はない。
だから、コンテクストに結び付けて見られてしまうのが本当に本当に嫌だ。
「あんなお騒がせコンビのことをよく応援出来るよな」とか、
またはその逆で、「ファンは大変だと思うけど健気に応援しているんだね」みたいな。
そんなこと直接言ってくる人はいないけれど、そういう目で見ている人はいるんだろうなと思う。
実際、誰に向けた言葉でもないけど、そういう言葉を目にする時もある。
人がどう思おうと自由だから、やめてくださいとも言えないけど、私はそれが本当に嫌だ。
コンテクストを含めて好きになった訳じゃない。
波乱万丈な人だから好きになった訳じゃなくて、たまたま好きになった人が波乱万丈だっただけ。
あくまで私はですが、コンテクストだけ見たら、こんな人達のこと共感なんてしないし、かわいそうだとも一切思わないよ。
自分達がわがまま言ってやりたい放題やって、窮地に追い込まれてるだけじゃん、自業自得。
コンテクストだけ見たら、こんな人達のこと好きにならないし応援なんてしない。
それなのに、彼らのコンテンツを見る気がなくて表面のコンテクストばかりを受け取っている人は、好奇や同情の目を向けるのだ。
それが本当にしんどい。
そういう「世間のプレッシャー」に耐えてまで好きでいることが、私にできるのか?
でもまぁ、私だって、「この状況の中KOCに出れたのはすごい」とか思っちゃったりするから、
完全にコンテンツとコンテクストを切り離して考えられているわけではない訳で、人のこと言えないんですけどね。
「色々あるけどネタだけ見てください」「ネタの面白さだけで判断してください」なんて、
言っちゃうと、多分、無理だよ。
コンテクストはもう人々の心の中に入り込んでる。
そして彼らの場合は、そのコンテクストは大いにマイナスからのスタートになるきっかけであると思う。
それに、本当に打ち勝てますか?
それほどいいコントを、本当に生み出せますか?
あぁ、脱線してしまった。本筋に戻します。
今回のエントリ、もうすぐ終わります。
長々と書いてしまい、本当にすみませんでした。
もう少し短くしたかったんですが、上手くまとまらなくて。
私がこれを通して言いたかったことは、
「コンテンツだけを見て」と、作品をコンテクストと切り離して神格化することに必死で、その割に何の努力もしないでコンテクスト優先の世の中を嘆いているのは滑稽だということ、
コンテクストなしでコンテンツだけを見るなんて不可能に近いんじゃないかと思うこと、
けれども、できれば多くの人に、コンテクストを含みつつも、コンテンツそのものの面白さもわかってもらいたいこと。
そのために何ができるのか、
今日も私は「芸人」と「一般人」の間を、ゆらゆらしながら考えています。
各所で話題になり、様々な議論を巻き起こしている、佐村河内守氏の、別人作曲問題。
私はクラシック音楽に造詣が深い訳ではありませんが、NHKのニュースなどで度々取り上げられていたのを見て、佐村河内氏のことは以前から知っていました。
だからこのニュースは衝撃だったし、メディア関係者まで巻き込んでこんな大それたウソをよく作り上げたなと思って。
それと同時に、世間の騒ぎ方について、なんだか上手く言い表せない違和感が生まれていたんですよね。
そこから様々な分野のジャーナリストや評論家の方の意見を読んで、なんとなく自分の中でその違和感の正体がわかったので、
きれいにまとめられるかどうかはわかりませんが、ちょっと書き残しておきます。
一応はじめにきちんと述べておきますと、どのような理由があったにせよ、佐村河内氏が別人に作曲をさせていたことはまぎれのない事実ですので、その点に対して擁護するつもりはありません。悪いことは悪い。
あと、ゴーストライターの是非みたいなこともここでは書くつもりはありません。
私は事件の本質以外のところ。
つまり、「人々は作品をどう捉えているのか」というところについて、一番興味がわいたというか、解明したいと思っています。
この件について、色々な方の評論を読んだのですが、私の中で一番納得できたのは、乙武氏のこの分析でした。
佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは
乙武氏は、作品を「コンテンツ」と「コンテクスト」という二つの観点から見る考え方を紹介しており、何を重視するかが異なれば今回の件に対してどう思うかが変わってくるのだろうと述べています。
そして、今のビジネスは「コンテンツからコンテクストへ」という流れになっており、作品に「物語」を付与し、人々の関心を高める流れになっているそうです。
先ほど、「世間の騒ぎ方に違和感があった」と書いたのですが、特に私にとって、一番違和感があったというか、肌に合わないなーと思った意見は、こういうものでした。
「話題性のあるものばかりが売れて、本当にいいものが世に出回らない」
「今の世の中は、音楽の本質が評価されていない」
みたいなもの。
私が、この事件に対する一部のリアクションについて違和感を持っていたのは、まさに「コンテンツ」と「コンテクスト」の二つを一緒くたにして語る方が多かったからなんだろうなあと。
だからまずは、コンテンツとコンテクストのそれぞれを重視している人の考え方は違うこと、
そしてそもそも、コンテクストを重視することの是非について、考えるのが先なのではないかと思ったのです。
いや、違うな。
どちらかと言うと、私が問題提起したいのは、「コンテンツだけを重視することの是非」ですかね。
私が、とても納得し共感できた乙武氏の論に対して、理解はできるんだけども共感は出来ないという意見を書いていらっしゃったのが、伊東乾氏のご意見でした。
偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏
音楽家の善意を悪用、一線を越えた偽ベートーベン あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏(2)
色々なことを書いていらっしゃるのですが、私なりに要約をさせて頂くと、
伊東氏は、ゴーストライターをしていた新垣氏は、大衆に受けそうなパターンをあてはめて作曲していただけで、
それはまるで制約の中で試験問題をつくるようなものであり、新垣氏自身が本当にやりたかった曲ではないのだろうと述べています。
以下引用。
『世間で流通する商用の音楽は、既存の書法の使いまわしでできています。その方が耳に親しみやすいし、ヒットもする。
例えば連続ドラマ「あまちゃん」の音楽はよくヒットしました。ウイットとして面白いとも想いますが、そこに専門人は独自の新たな労作を見出しません。』
そして、「わかりやすいストーリー」に押し込めて売りだしてしまうメディアのやり方に疑問を呈し、
新垣氏には、『新垣君にも、こんなことでめげないで彼本来の音楽で大いに頑張ってほしい』と述べています。
ここに私は、とても引っかかってしまったのです。
私はクラシックのことは全然わかりませんが、現代音楽の作曲者や関係者の方々にとっては、一般受けする曲なんて創造性がなくてやりがいがないのかもしれないということは、
確かに感覚としては想像できます。
でも、だからといって、独自で難解な雰囲気に突き進み、一般の人に受け入れてもらえなくても、その人の自身の曲になっていればそれでいいのでしょうか?
その分野の関係者の方からしたら、「これは素晴らしい」「斬新だ」と評され、「ほんとうにいいもの」とされるかもしれなくても、
そのジャンルの楽しみ方がわかっていない方にとっては、それがいいものだと感じられないかもしれない。
玄人や関係者にしか判断できないような「いいもの」「いいコンテンツ」が持て囃されるようになった時、
一般人の感覚で理解できるものはもう、「コンテクスト」しか残っていないんだと思うんです。
クラシック音楽にとって、なにが「いいもの」とされるのかなんてわからないし、「いいもの」とされているものが自分の感覚とは合わない。
そうなると、あとはコンテクストで理解するしかない。
ああ、この部分で、この曲調で、原爆投下の時の苦しみを表しているんだなって、そうやって背景を知って、受け取り方のテンプレートをもらった方が、理解がしやすい。
私はそうやって、コンテクストから入って曲を受け取った人のことを批判はできないよ。気持ちはわかるもん。
「ほんとうにいいものが評価されない」って言って嘆いているような関係者は、
「ほんとうにいいもの」が、一般の人にも理解してもらえるような工夫をしているのか。
この曲のどのようなところにこだわりがあるのか、どのようなところが新しいのかを一般の人にもわかりやすく解説できるような、
そういう努力はしているのだろうか。
それもせずに、コンテクストや話題性ばかりが評価される世の中を批判していても、何も状況は変わらない。
前置きが長くてすみません。やっとここからが本題です。
例えばこれをお笑いで例えるとしたら、こういうことじゃないかと思うのです。
ライブで日々ネタを磨いて頑張っている芸人、そしてライブをよく見に行く客は、常に今までに見たことがないようなネタが生み出される瞬間を待っているし、
「こんなコント見たことない!」が、そのまま「今年のキングオブコントあるぞ!」につながっていく。(もちろん面白いのが大前提ですが)
でも、一般の人、普段お笑いを見ない人にとっては、未だに、
「オレ医者やりたいからお前患者やって」という漫才であるとか、「コンビニに変なお客さんがやってきてひたすら変な行動をする」というボケとツッコミがハッキリしてるコントであるとか、
そういうネタの方がわかりやすくて、面白くて、いいものだとされるのかもしれない。
ごめんなさい、こういうネタをバカにしているわけではないんです。
そして、囲碁将棋の医者と患者のようなネタは例外です(笑)
バカにしているわけではないけど、たくさんのネタを研究している芸人や、年に50本も100本もライブを見に行っている客にとっては、
「もうそのパターンはやりつくされてしまったし…」となってしまう。
だから、普段お笑いを見ない一般の人との感覚がどんどん離れていってしまう。
近年よく言われている、キングオブコントの芸人審査と一般人の感覚のズレは、こういうことからきているのではないかと思っています。
そしてあと数年で、これがもう相容れないところまで行ってしまうのではないかとも。
私は、お笑いというジャンルでは、コンテンツ重視の見方をしている人間だと思います。
しかし、完全にコンテンツだけで判断できているかというと、その自信はありません。
特にお笑いは、ネタと本人のキャラが直結している場合も多いから、
ネタだけの評価をしようとしても、その芸人さんの元のキャラ、かつてのエピソードを知っているから、
余計に面白く感じられるところ、意味が感じられるだってあるんだと思う。
例えば、これは架空の話、これはあくまでも、全て架空の話ですけれども。
例えば、ある時あるところに、所属していた事務所を辞めようとしたお笑いコンビがいたとします。架空の話ですけども。
いくら説得しても、そのコンビは辞めると言い張って聞きません。
そのコンビが所属していた事務所の上層部は怒ってしまい、えげつない文章を発表して世間を引かせ、
彼らが辞めたいと言い出したのではなく、彼らが自分達を怒らせるようなことをしたからこちらから解雇してやったのだ、というイメージを世間に浸透させることに成功しました。
架空の話ですけども。
紆余曲折あってその事務所を辞めた後、しばらく経ってそのコンビは、単独ライブの中であるコントを披露しました。
それは、「会社を辞めようとして辞表を出しているのに上司が辞めさせてくれない」というコント。
ここからは本当に架空の話ですけれども、例えばこのネタを見て、普段お笑いをあまり見ない人が、
「なるほど、今のさらば青春の光がやるから意味があるんだ」(あ、コンビ名言っちゃった)
「自分達のマイナスな経験をコントに変えて皮肉るなんて、なんてパワーがあるんだろう」
……という受け取り方をした人がいたとします。
そういう人がいたとして、私が
「うーん…多分違うんじゃないかなぁ…。本人達は別にそこまで考えてやってるんじゃないんじゃないかなぁ…。それよりももっとコントの内容を見てよ…。」
と思ったとしても、本人達の公式見解が出ない限り、そう受け取ったお客さんのことを否定する権利は私にはないと思います。
「それよりもね、内容を見て!このセリフがいいでしょ!これが次の展開へのフリになっててね!」
とか急に色々解説しても、別にコントの構造とかに興味がない人は聞いてくれない。
それよりも、その人の背景に重ね合わせた方が理解が早いから。
コンテクストはそれほど、作品と結びついている、そして結び付けられるように受け取られる。
そうなると、もう「コンテンツだけ」を純粋に評価することなんて、不可能じゃないかと思うのです。
先ほどあげたクラシックの例でも、業界関係者はコンテンツだけを見て「ほんとうにいいもの」と判断しているかもしれないけれども、
業界関係者は、これまでのクラシックの歴史や、現代音楽の生みの苦しみをわかっているからそう思うわけで、
それはそれで、コンテクストを含んだ評価になっているのではないでしょうか。
いいものだから多くの人に支持されるのか、
多くの人に支持されるからいいものなのか。
それとも、「ほんとうにいいもの」とは、世間の評価とは関わりのない所にあるのか。
色々考えてきたけど、その答えはわからない。
余談ですが。
私は、このコンビを、コンテンツだけで好きになったんだ。
コントが好きなだけなんだ。それ以上の理由はない。
だから、コンテクストに結び付けて見られてしまうのが本当に本当に嫌だ。
「あんなお騒がせコンビのことをよく応援出来るよな」とか、
またはその逆で、「ファンは大変だと思うけど健気に応援しているんだね」みたいな。
そんなこと直接言ってくる人はいないけれど、そういう目で見ている人はいるんだろうなと思う。
実際、誰に向けた言葉でもないけど、そういう言葉を目にする時もある。
人がどう思おうと自由だから、やめてくださいとも言えないけど、私はそれが本当に嫌だ。
コンテクストを含めて好きになった訳じゃない。
波乱万丈な人だから好きになった訳じゃなくて、たまたま好きになった人が波乱万丈だっただけ。
あくまで私はですが、コンテクストだけ見たら、こんな人達のこと共感なんてしないし、かわいそうだとも一切思わないよ。
自分達がわがまま言ってやりたい放題やって、窮地に追い込まれてるだけじゃん、自業自得。
コンテクストだけ見たら、こんな人達のこと好きにならないし応援なんてしない。
それなのに、彼らのコンテンツを見る気がなくて表面のコンテクストばかりを受け取っている人は、好奇や同情の目を向けるのだ。
それが本当にしんどい。
そういう「世間のプレッシャー」に耐えてまで好きでいることが、私にできるのか?
でもまぁ、私だって、「この状況の中KOCに出れたのはすごい」とか思っちゃったりするから、
完全にコンテンツとコンテクストを切り離して考えられているわけではない訳で、人のこと言えないんですけどね。
「色々あるけどネタだけ見てください」「ネタの面白さだけで判断してください」なんて、
言っちゃうと、多分、無理だよ。
コンテクストはもう人々の心の中に入り込んでる。
そして彼らの場合は、そのコンテクストは大いにマイナスからのスタートになるきっかけであると思う。
それに、本当に打ち勝てますか?
それほどいいコントを、本当に生み出せますか?
あぁ、脱線してしまった。本筋に戻します。
今回のエントリ、もうすぐ終わります。
長々と書いてしまい、本当にすみませんでした。
もう少し短くしたかったんですが、上手くまとまらなくて。
私がこれを通して言いたかったことは、
「コンテンツだけを見て」と、作品をコンテクストと切り離して神格化することに必死で、その割に何の努力もしないでコンテクスト優先の世の中を嘆いているのは滑稽だということ、
コンテクストなしでコンテンツだけを見るなんて不可能に近いんじゃないかと思うこと、
けれども、できれば多くの人に、コンテクストを含みつつも、コンテンツそのものの面白さもわかってもらいたいこと。
そのために何ができるのか、
今日も私は「芸人」と「一般人」の間を、ゆらゆらしながら考えています。