思想差別に勝った 森啓二さん(58)
思想・信条を理由に賃金・昇格で差別したり、運動会や忘年会からも排除
ーーこんなことが造船・重機械の大手メーカー、石川島播磨重工業(石播)で40年間も続きました。
会社は、差別した日本共産党員らに「反省の意」をしめし、和解と再発防止の協定に調印(2007年1月19日)しました。
大企業に思想差別を「反省」させた、画期的な出来事です。
(赤旗日曜版2007・1・28より記事抜粋)
小・中学校時代は、弁当も持っていけなかった極貧の家庭に育ちました。
学びながら賃金が支払われる(石播)設立の石川島工業高校へ1963年入学。4年後、鋳鋼向上に配属されました。
「 ”鋳物師”と呼ばれ、職人魂にあふれ、仕事に誇りを持った労働者たちがいました 」
石播は、世界一の造船建造量(68年)を誇る一方で、労働者の死亡事故が続出(66年に33人)。
劣悪な職場でした。
当時、労働組合は、春闘の定額回答に43時間ストライキ(68年)で闘っていました。
多くの共産党員が労組の役員として奮闘していました。
石播は、会社言いなりの労組に変質させようとインフォーマル(秘密)組織を育成していました。
そんな時、森さんの真剣な仕事ぶりを見た鋳物師たちは、労組の支部委員に立候補するよう説得しました。
「みんなの役に立てばという軽い気持ちでしたが、70%の得票で、会社派候補に圧勝しました」
あわてた会社は、1年間の支部委員の任期が切れると、森さんを現場から事務部門の品質管理部へ配転しました。
「労組活動の中で労働者のために献身的に活動する共産党の存在を知りました。
出世して母を楽にしてやりたい、という思いもあって悩みました。しかし、仲間の権利を守っていくにはこの道しかない。
そう決心して69年に入党したんです」
その時期から共産党員らへの組織的な差別が始まりました。
釣りに行くと、「赤い魚を釣ってくるのか」とののしり、香典を出すと「赤い連中からもらっても遺族は喜ばない」とたたきつける・・・。
森さんの場合はー
「昼休みにみんながバレーボールをしているのを見て、『入れてほしい』というと、さーっと解散してしまう。お花見、歓送迎会・・・すべて呼ばれませんでした」
忘れられないのが会社の運動会。
4歳の長女をつれて参加しましたが、競技に出ることも許されず、弁当やジュースももらえませんでした。
「子ども心にも異様なものを感じたんでしょうね。『帰ろう』というんです。 ある労働者がそっとジュースや菓子をくれました。その心づかいがうれしかった」
仕事も、図面の整理や検査記録のコピーなど補助的なものしか与えられませんでした。
「鋳物師から教えられた労働者への誇りは忘れませんでした。 どんな部署でも精一杯、真面目に働いてきたつもりです」
独学で英文タイプの練習もしました。職場では、「森ちゃんに仕事を頼もう」とひそかにささやかれ、労働者の信頼を集めてきました。
86年、石播は7千人「合理化」計画をたて退職を強要しましたが、森さんは屈しませんでした。閉鎖が決まっていた部署へ配転され、仕事は品物の保管と掃除だけ。 追い打ちをかけるように関連会社への出向命令。 本社物流システム事業部の片隅に配属されました。
正社員が設計しているフロアの一角に設計請負会社の机が数個あり、その机の一つで図面の受付や管理をする・・・。
たたかってこそ
思想・信条の自由を保障する憲法に違反して共産党員というだけで不当な差別をするーー。
労働委員会への申告や裁判所への提訴を始め、職場内外で労働者のたたかいが広がりました。
そのなかで石播が、共産党員をゼロにするという『ZC(ゼロ・コミュニスト)計画管理名簿』や、共産党員を定年まで最低の身分に据え置くという「個別管理計画」を作っていた極秘資料が明らかに。
表向きは差別を否定する石播を窮地に陥れる資料で、会社は今回の和解に追い込まれました。
妻の和子さん(中学教師)はいいます。
「夫はいつも言っていました。『差別する人、黙っている人、本心じゃない。みんな良心を痛めている。誠実に対応すれば心は通じる。僕はみんなを信じている』と」
森さんは、今年4月、出向を解かれ、石播に戻ることになりました。
「これからは職場の仲間と当たり前の人間関係をつくれるようになるのです。うれしいですね」おだやかな表情がほころびます。
権利報告集会で、「いい人生だったと胸張っていえる」と語る仲間たち。
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橋下市長が国政で大勝したら、『日本共産党員削減のための企業・自治体アンケート』とか言い出しそうですにゃ・・・
それとも、興味を持たれそうな騒ぎ方はやめとくかにゃ。
思想・信条を理由に賃金・昇格で差別したり、運動会や忘年会からも排除
ーーこんなことが造船・重機械の大手メーカー、石川島播磨重工業(石播)で40年間も続きました。
会社は、差別した日本共産党員らに「反省の意」をしめし、和解と再発防止の協定に調印(2007年1月19日)しました。
大企業に思想差別を「反省」させた、画期的な出来事です。
(赤旗日曜版2007・1・28より記事抜粋)
小・中学校時代は、弁当も持っていけなかった極貧の家庭に育ちました。
学びながら賃金が支払われる(石播)設立の石川島工業高校へ1963年入学。4年後、鋳鋼向上に配属されました。
「 ”鋳物師”と呼ばれ、職人魂にあふれ、仕事に誇りを持った労働者たちがいました 」
石播は、世界一の造船建造量(68年)を誇る一方で、労働者の死亡事故が続出(66年に33人)。
劣悪な職場でした。
当時、労働組合は、春闘の定額回答に43時間ストライキ(68年)で闘っていました。
多くの共産党員が労組の役員として奮闘していました。
石播は、会社言いなりの労組に変質させようとインフォーマル(秘密)組織を育成していました。
そんな時、森さんの真剣な仕事ぶりを見た鋳物師たちは、労組の支部委員に立候補するよう説得しました。
「みんなの役に立てばという軽い気持ちでしたが、70%の得票で、会社派候補に圧勝しました」
あわてた会社は、1年間の支部委員の任期が切れると、森さんを現場から事務部門の品質管理部へ配転しました。
「労組活動の中で労働者のために献身的に活動する共産党の存在を知りました。
出世して母を楽にしてやりたい、という思いもあって悩みました。しかし、仲間の権利を守っていくにはこの道しかない。
そう決心して69年に入党したんです」
その時期から共産党員らへの組織的な差別が始まりました。
釣りに行くと、「赤い魚を釣ってくるのか」とののしり、香典を出すと「赤い連中からもらっても遺族は喜ばない」とたたきつける・・・。
森さんの場合はー
「昼休みにみんながバレーボールをしているのを見て、『入れてほしい』というと、さーっと解散してしまう。お花見、歓送迎会・・・すべて呼ばれませんでした」
忘れられないのが会社の運動会。
4歳の長女をつれて参加しましたが、競技に出ることも許されず、弁当やジュースももらえませんでした。
「子ども心にも異様なものを感じたんでしょうね。『帰ろう』というんです。 ある労働者がそっとジュースや菓子をくれました。その心づかいがうれしかった」
仕事も、図面の整理や検査記録のコピーなど補助的なものしか与えられませんでした。
「鋳物師から教えられた労働者への誇りは忘れませんでした。 どんな部署でも精一杯、真面目に働いてきたつもりです」
独学で英文タイプの練習もしました。職場では、「森ちゃんに仕事を頼もう」とひそかにささやかれ、労働者の信頼を集めてきました。
86年、石播は7千人「合理化」計画をたて退職を強要しましたが、森さんは屈しませんでした。閉鎖が決まっていた部署へ配転され、仕事は品物の保管と掃除だけ。 追い打ちをかけるように関連会社への出向命令。 本社物流システム事業部の片隅に配属されました。
正社員が設計しているフロアの一角に設計請負会社の机が数個あり、その机の一つで図面の受付や管理をする・・・。
たたかってこそ
思想・信条の自由を保障する憲法に違反して共産党員というだけで不当な差別をするーー。
労働委員会への申告や裁判所への提訴を始め、職場内外で労働者のたたかいが広がりました。
そのなかで石播が、共産党員をゼロにするという『ZC(ゼロ・コミュニスト)計画管理名簿』や、共産党員を定年まで最低の身分に据え置くという「個別管理計画」を作っていた極秘資料が明らかに。
表向きは差別を否定する石播を窮地に陥れる資料で、会社は今回の和解に追い込まれました。
妻の和子さん(中学教師)はいいます。
「夫はいつも言っていました。『差別する人、黙っている人、本心じゃない。みんな良心を痛めている。誠実に対応すれば心は通じる。僕はみんなを信じている』と」
森さんは、今年4月、出向を解かれ、石播に戻ることになりました。
「これからは職場の仲間と当たり前の人間関係をつくれるようになるのです。うれしいですね」おだやかな表情がほころびます。
権利報告集会で、「いい人生だったと胸張っていえる」と語る仲間たち。
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橋下市長が国政で大勝したら、『日本共産党員削減のための企業・自治体アンケート』とか言い出しそうですにゃ・・・
それとも、興味を持たれそうな騒ぎ方はやめとくかにゃ。