ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

「殺しのドレス」より「金髪ドロレス」が見たい!

2006年11月29日 | 映画
 ブライアン・デ・パルマという監督は、名前がなんかかっこよくて嫌いではないのだけれど(ブライアンズタイム産駒なわけないが)、最近WOWWOWでやっていた「殺しのドレス」、昔封切で観たとき、ワンシーンワンショットで見せる美術館のシーンなどはなかなか魅力的だと思ったものだが、久々に観たら、テクニックのためのテクニックばかりが目立って、美術館のシーンもなんだか苛々するし、随所にちりばめられたヒチコック風の画面も、B級グルメのヒチコック丼という感じでうんざりしてしまった。鏡や鏡面のような剃刀に映る殺人者の姿も、分かっていても怖い本物のヒチコックとは違って、お約束ね、で、はらはらドキドキもない。

 アンジー・ディッキンソン(「リオ・ブラボー」がよかったのにこんな色情狂みたいな女にしたデ・パルマは許されない)の、たぶん顔と体は別物であろうヌードも返って不気味だし、エロ度が増した火曜サスペンス劇場みたいなお話も、歌舞伎町のビルの屋上でやっていた金髪美女のドロレスのほうが面白い、って比較にもならんこじつけで妙に憤慨しているのだった。
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江戸とアラーキーの誘惑

2006年11月27日 | 絵画
 江戸東京博物館で「ボストン美術館蔵・肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」」を観てきた。常設館では、荒木経惟「東京人生」も開催中で、肉筆浮世絵という字づらとアラーキーの名前が妙にエロな雰囲気を醸し出しているのだが、実際はぜんぜん、どちらも公序良俗を乱すようなものではなく、浮世絵にしても、アラーキーにしても、それはその多面性ではあるのだけれど、春画の絵巻(春巻?)でも、もっとも春画らしからぬ部分が展示してあったりすると、ちっとも脱がないストリップを見ているようなもんで、展示ケースに向かって「出し惜しみすんな、こら!」なんて品のないイチモツならぬ一声を浴びせたくなるマンフラなのだった。

 いずれも保存状態がよく絢爛たる色彩は見ごたえ十分だが、このブログの常連のりへい氏ご推薦の鳥山石燕の妖怪絵巻が異彩をはなっていたし、北斎はやはり天才だと思わずにはいられない。しかし、北斎にしても若冲にしても傑作がこうも海外流出しているのはいかにも惜しいと思うのだった。
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ビル・エヴァンスを聴きながらR・アルトマン監督を偲ぶ

2006年11月27日 | 音楽
 ロバート・アルトマン監督を偲んでビル・エヴァンス「You Must Believe In Spring」 (1977)を聴く。もちろん、「Theme from M*A*S*H (Suicide Is Painless) 」(痛みのない自殺)が収められているからで、アルバム全体に漂う愛する人の不在への悲しみとは趣を異にする、自虐的にスインギーなこの1曲こそアルトマン追悼にはふさわしかろうと思うのだった。

 このアルバムそのものは、自殺した元妻だとか兄だとかに捧げた曲が多くて、悲しいことがいろいろあったけれど、春は必ずやってくるよ、みたいなささやかな未来に希望を見出そうとしているエヴァンスが痛々しくもあり、激しくもあり、美しくもあるのだった。
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トライXがとらえたジャズ・シーン

2006年11月22日 | 映画
「チェット・ベイカー&クルー」という1956年のアルバム、のちにジャズメッセンジャーズに加わるボビー・ティモンズがピアノに入っているところが西海岸のジャズらしからぬ味付けになっているのだが、このジャケットは、ヨットにコンボのメンバーが乗って帆柱につかまったチェットがトランペットを構えているという実に奇妙な写真が使われている。これを撮ったのが、写真家ウィリアム・クラクストン。ジャズ写真の一つのスタイルをつくった人だ。

 この頃のウェストコースト・ジャズのアルバム・ジャケットはほとんどがこの人の作品といわれるが、WOWWOWでクラクストンのドキュメンタリー映画「JAZZ SEEN カメラが聴いたジャズ」(監督:ジュリアン・ベネディクト)を観ることができた。WOWWOWはさりげなく、こういう音楽もののドキュメンタリーをやってくれるのでうれしい。

 この映画によれば、クラクストンはこの頃、西海岸らしさを出すため、こんな演出をしていたらしい。ウェットスーツを着て海から上がってきた男にトランペットをもたせたり、ノー天気な明るさが笑える。映画には、チェット、エリントン、エラなど懐かしいジャズマンのライヴ映像もふんだんにあり、こうした人たちの“アネクドーツ”やら、妻で60年代の代表的なモデル、ペギー・モフィット、デニス・ホッパー、ヘルムート・ニュートン、ジョン・フランケンハイマーなどが登場し、クラクストンの写真の魅力を語る。ヘルムート・ニュートンとの対談が、二人の写真家の個性の違いを際立たせておもしろい。被写体に恋するように撮るというクラクストンに対し、モデルをモノとして冷徹に扱うニュートン。ニュートンが「フィルムは何使ってるの?トライXだろ。感度はどのくらいにしてるの」なんて聞くシーンがあるけれど、久しぶりに耳にした「トライX」、これが分かるのは何歳までだろうと思い、妙にうれしくなるのだった。


 ロバート・アルトマンが亡くなった。ロンググッドバイ、そして合掌。
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戦争と戦場の2本の旗「父親たちの星条旗」

2006年11月20日 | 映画
 クリント・イーストウッド監督「父親たちの星条旗」を観る。イーストウッドらしい俯瞰のラストショットは、さながら溝口健二監督「山椒大夫」のラストを思わせ、つかの間の戦場の幸福な時間を描いて美しい。

 原題は「Flags of Our Fathers」。flagsと旗が複数形になっていることがこの映画のすべてを語っている。イーストウッドは「国家の戦争」と「兵士の戦場」を、この複数形の旗、硫黄島の摺鉢山のてっぺんに立てられた2本の星条旗のエピソードをモチーフにして見事に映像化してしまった。戦争には勝敗がある、正義と悪も必要だ、ヒーローもつくらなければならない。だが、戦場には兵士の生と死があるだけだとイーストウッドは言っているのだ。

 ひしゃげたゾウリムシのようなちっぽけな島、硫黄島を取り囲むアメリカ太平洋艦隊の大船団を俯瞰でとらえたワンショットは、この島で何が起きるのか、この戦いのアメリカと日本の力関係を一目で理解させる。さっさと終わりにして家族や恋人のもとへ帰ろう、誰もが簡単にこの戦いが終わると思っていたのだ。だが、実際の戦場は違った。兵舎のラジオから甘く流れる「あなたの帰りを待ってるわ」とうたうラブ・ソングを聞きながらうつむく若い兵士たちのショットで戦場の絶望感を描くイーストウッド。この映画では、敵である日本兵はほとんど出てこない。地中の要塞からの攻撃や闇夜の奇襲でその影がみえるくらいだ。映画の若いアメリカ兵たちは誰と闘っているのかも分からない。見えない敵と戦いながら、カードに興じた戦友たちの首が飛び、手足がちぎれ、腸が飛び出して死んでいく。これが戦場なのだ。

 摺鉢山の写真の兵士たちをヒーローにすることで、「兵士の戦場」は「国家の戦争」として記憶され、1枚の戦勝写真としてのみ歴史に残されていく。だが、「国家の戦争」と「兵士の戦場」の映像は決して重なり合うことはない。摺鉢山に立てられた2本の星条旗が重ならないように。

「父親たちの星条旗」は、戦争映画でもなく戦場を描いた映画でもない。スタジアムを彩る花火、カメラマンたちが焚くフラッシュ、交差する列車同士が放つストロボのような車内灯の光、これらの閃光よって硫黄島のヒーローになった3人の兵士たちは、照明弾や弾丸が炸裂する悪夢のような戦場へフラッシュバックする。国家の戦争ショーの舞台と兵士の戦場を何度も行き来しながら、「国家の戦争」と「兵士の戦場」が決して重なり合うことはないことを示して見せた映画なのだ。
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懐かしのオートバイサーカス見たい!

2006年11月17日 | アフター・アワーズ
 新宿花園神社の御酉様の季節になると、ああ今年ももうわずかだなあと思い、2年ほど前に御酉様の境内から消えたあのおミネさんの見世物小屋を懐かしまずにはいられない。白い大蛇と寝起きし、蛇を食いちぎったり、口から火を吹いたり、大奮闘だったおミネさんの大道芸は残念ながら継承する人もなく、もう見られないのだろうか。

 ボージョレ・ヌーヴォーなどをやりながら、とある飲み屋でそんな話にふけっていると、オートバイサーカスの話題が出て、見たことのない連中にその感動を熱く語っていたら、なんだかどうしてもオートバイサーカスが見たくなってしまったのだった。

 田舎の冬祭に毎年来ていたのは「吉本オートバイサーカス」、もはやこれもおミネさんと同じく見ることはできないだろうと思っていたら、なんとまだやっているではないか。「ワールドオートバイサーカス」、北海道や東北のお祭で結構見られるらしいと分かったので、これはもう、いつか見にいくほかはあるまいと決意したのだ。

 けばけばしいテントのなかに拵えたでっかい木製の樽状のサーキットを、オートレースのようなシンプルな車体にバリバリという音と排気ガスをまきちらして、疾駆するライダーがかっこいい。ライダーはまず入口で、ルームランナーみたいなベルトの上でデモンストレーション走行をして見物客にアピールする。これにつられて入場したお客は、筒型をした樽状のサーキットの天辺から中を覗き込むようにして観戦するのだが、最初は壁に斜めにかかったスノコのような助走路を周回し、加速がついたところで一気に樽の壁を駆け上がってほぼ壁と直角になるような体勢で周回するのである。普通にグルグル回っているわけではない。手放し、目隠しなどの曲芸を披露し、客が、たぶんいまは千円札だろうが、昔は100円札を走路に差し出すと、目の前までせりあがってきて、片手でさっと手にして走り去るや、今度はその100円札を目隠しにして手放し走行するのである。歓声と賞賛の拍手で沸く場内は白熱灯の怪しい光に照らされて、まるでロートレックのムーランルージュの絵のようだったりする。

 あの頃俺はまだ餓鬼だった。ああ、懐かしい、そして見たい!オートバイサーカス!
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面白い本は本屋で待ち伏せしている!

2006年11月16日 | 
 仕事疲れが溜まってきて読書に実が入らなくなってきた。こういうとき気楽に読めて面白い本はないか。面白い本はいつも本屋の書棚で待ち伏せして手にとられることを待っている。数多ある本の中から吸い寄せられるように僕の手が伸びる幸福な邂逅。ビル・クロウ『ジャズ・アネクドーツ』(村上春樹訳・新潮社文庫)もそんな本だ。どこから読んでもよくて面白い。

 そういえば、以前「プレーボーイ」のコルトレーン特集に長時間化するコルトレーンの演奏にマイルスが「サックスから口を話せばいい」といったエピソードが紹介されていたけれど、これもこの本がネタ本のようだ。ジャズはバップの頃から次第に都市黒人インテリゲンツィアの音楽になっていくけれど、それでも譜面を読めないジャズマンはたくさんいたようで、耳と体と魂で演奏していた連中が多かった。

 そんな連中がビッグ・バンドをやっていたのも驚きだが、アート・ブレイキーがもともとはピアニストで、しかも譜面は読めずいつも3本指でやっていながら大した人気だったという。やがて自分がフルバンドを率いるようになったのはいいが、譜面で演奏するようになるとピアノのソロパートでいつも演奏が中断するのに「俺が譜面を読めねーことは知ってるだろう」と居直った挙句、以来ドラマーになったという話だ。

 ブレイキーは演奏もナイアガラ奏法なんていわれて、こういう形容の仕方が「銀髪の吸血鬼」とか「人間風車」とかプロレスぽくていいんだけど、とにかくドラミングもやることも豪快だ。まあ組長みたいなもんだよね。ベニー・ゴルソンみたいな作・編曲もできるちょっと知的な若頭がいて、鉄砲玉のリー・モーガンがいつでも「とッタルデェー」みたいに血気盛んとくればスウィングしないわけがない。

 そんなわけで今夜はリー・モーガンの「イージー・リビング」でも聴いてみよう。リー・モーガンを聴くと、なぜか「青春!」を感じてしまうのだった。
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誰にでも安易に痩せる希望など与えてはならない!

2006年11月04日 | アフター・アワーズ
 地球と太陽との関係が、光の叙情とでもいうようなものをこうも豊かに描き出すのかと、感嘆しながら眺めていた車窓の秋の景色が、不意に岩のような影にさえぎられたのは、僕の前に一人の女が立ったからだった。

 土曜日の午後、私鉄の車内はまだそう混んではいない。膝丈のスウェットのスカートの下に、山門の毘沙門天のように立派な足がしっかりと床を踏みしめ、黒のレース柄のスパッツで包まれている。身長160センチくらい、肉置きのいいからだは、だが、鍛錬されたものではなく、たるんだ皮膚にどこか自堕落な生活ぶりが垣間見え、つり革につかまって外を見ている表情は不機嫌そうだ。

 電車が駅に着くと、女の後ろの座席が空いた。女は、振り返って確かめることもなく、すばやく座席確保に動いた。空いたスペースには収まりきれない大きな尻を突き出すようにしてねじ込み、左右の乗客がひるんでちょっと体を傾げた隙に、幅の広い上半身をドーッと背もたれに倒す。左隣のすまなそうにうつむく老婆を「なんか文句ある」とでもいいたげに意地の悪い横目で睨む女。もはや出番を待つ土俵下の力士の如く動かない。しばらくすると女は、大ぶりの黒のバッグから大判の雑誌を取り出した。

 光沢のある表紙のタイトルは「月刊BODYプラス」。特集のタイトルに『ストップ・ザ・冬太り「家トレ」で脂肪バーニング!』の文字が躍る。「脂肪バーニングねぇ」こみ上げる笑いをこらえるのはむずかしかったが、僕はこの雑誌の編集者を呪いたくなった。誰にでも安易に痩せる希望などあたえてはならないと。

 雑誌にくいいる女。新宿へ向かう急行電車はいつものように走る。女の背後に金色の秋の日差しが当たるたび車内に暗雲のような大きな影が落ちるのだった。
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高校の未履修問題、予想外入試で大学がサポートしたらどう。

2006年11月02日 | アフター・アワーズ
 高校の未履修問題が紛糾しているけど、とくに私立の進学を売りにしている学校などでは、もう当然のごとく行われていて、いまさらという感じだが、自殺者まで出ると厄介だよなー。亡くなった校長先生は気の毒だが、死んでお詫びするから生徒の単位は大目にみてくださいと、そんなことで死んでしまってはいけない。生徒は二重に負担を背負うことになってしまう。最近の教育現場は、簡単に死んでしまう人間が多すぎる。みんなもっとテキトーにやりなさいよ。

 これから、卒業までに50時間とか、70時間とかはたいへんだろうというけど、毎日世界史の授業をやればいいわけだから、時間的にはそう難しいことでもあるまいが、問題は先生がいないらしい。高校の教員免許を持っている人間が教えなければならないのかどうか分からないけれど、例えば、大学側がその大学を受験して合格すれば、補習の面倒をみるというのはどうだろう。高校は卒業の仮免許を与えておいて、大学は合格から入学までの期間と入学から夏までの半期で履修させ修了後、正式に卒業とする。本来70時間やるべきものを予想外割引で50時間にするといった形式だけ授業時間を消化させるよりはるかに実になる。こういうご都合主義がいいのなら、仮卒業、仮入学の措置だってできるだろうよ。

 大学は受験生・学生サービスの一環として、社会科教員を臨時に雇うとか、手持ちの社会科学系教員を総動員するとか、「予想外入試。未履修者の面倒見ます!」なんて新聞広告出せば、受験生集まると思うけどなー。
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