原題にならって『アメリカv.sジョン・レノン』とばかり言っておりましたが
正式な邦題は『PEACE BED』だったんでございますね。
それはさておき
12/12の続きでございます。
先にも申しましたが
この映画ではひとりジョン・レノンという人物の行動だけでなく、
60~70年代という「時代」がリアリティを持って描き出されております。
「革命の時代」を文章でしか知らないワタクシにとっては、この点が大変興味深うございました。
体制派・反体制派双方の、いわば第一線で活動していた人々の証言や
ニュース、コンサートの映像、ラジオの放送、新聞などなどから
時代の雰囲気や動静が背景として浮かび上り
その前で展開される一人の(いや、むしろ一組の)人間の行動に
しっかりとした社会的、歴史的文脈を読み取ることができます。
それゆえこの作品は、直接的にはアメリカ政府と闘うはめになったいち個人の姿をモチーフとしておりますが
単に伝記映画/音楽映画としての機能を果たしているのみならず
同時に、権力の座にある人々が何を恐れ、その恐れの対象をどんな手段で排除しようとするかの証言でもあり、
自分を包囲するさまざまな問題に対してどんな態度をとりうるか、というひとつの可能性を示したエンパワメント・メッセージにもなっているのでございます。
「闘う羽目になった」と申しましたのは、ジョン・レノンの方では別にアメリカ政府に喧嘩をふっかけたつもりはなく、
「闘い」は社会活動の中で付随的におきてしまったもの、という印象を受けたからでございます。
体制への反抗、社会的不正への疑問や不満があり「これ、おかしいんじゃないの?」と叫びたい人が沢山いた。
そういう人たちの先頭に立って、片手にはギターを抱え、片手には白いハンカチを振って
「黙っちゃいけない、黙る必要なんかないんだ」と言いながら歩いたのが”ジョン&ヨーコ”というアイコンだった。
先頭を歩いたから、ものすごく叩かれた。
それでも歩くのをやめなかったから、闘わざるをえなくなった。
2人が歩き続けられたのは、もちろん彼ら自身の強靭さも大いにございましょうし
「時代」および「名声」というサポートがあったからでもございましょう。
しかし「時代と名声」という後押しがある一方、まさにその「時代と名声」ゆえの無理解もございました。
今では、ミュージシャンの政治的発言をバカにしたりはいたしませんが、30年前は違ったようでございます。
インタビュー映像からありありと分かることでございますが
記者たちはジョン&ヨーコの発言やパフォーマンスを頭からバカにしております。
これはワタクシ、本などで読んである程度知っていたことではございますが
あ れ ほ ど にあからさまだとは思いませんでした。
何故そこで笑うのか?と思うような箇所で、記者たちの間から笑いが巻き起こったりいたします。
「僕らのことを記事にするなら、必ず一緒にPEACEの文字を掲載してくれ」と言うことの、
いったいどこが馬鹿げているというのでございましょうか?
「黒人も白人も、みんな袋をかぶって出勤すれば、偏見や差別はなくなる。
人を見た目じゃなく、中身で判断せざるをえなくなるから」
これはいったい、笑うべき発言でございましょうか?
全くもってWhat's So Funny 'Bout Peace Love And Understanding?でございますよ。
平和、愛、そして相互理解の、いったい何が可笑しいっていうんだ?
(歌詞はこちら。いみじくも今朝のピーター・バラカンさんのラジオ番組で、この曲がかかっておりました。
身体的には何も問題ないようで、静かなる反骨精神も健在であり、ひとまずは安心いたしました。
とはいえ、胸中は不安でいらっしゃることと想像いたします。
今後二度とこのような事件がおこらないことを祈るばかりでございます)
閑話休題。
そんな中での彼らの活動を見ていてウ~~ムすごいと思ったのは
・笑われても、叩かれても、脅されても、叫ぶのをやめなかったこと。
・あくまでもアートの力で、世界/社会を変えようとしたこと。
つまり暴力的手段でもなく、威勢のいい言葉で人心を焚き付けるのでもなく、
1人1人の心に自発的な変革を起すことによって、世界/社会全体の変革を促したということ。
そして
・常に真摯さとユーモアを忘れなかったということ。
はなからバカにした態度の記者たちの質問にも非常に真剣に、かつ、
どこか飄々としたユーモアを持って答えております。しかも即答で。
ものすごく真剣で、ユーモラス。強靭な魂と鋭い知性。
『Yes オノ・ヨーコ展』で彼女の作品に触れた時にも感じたことでございます。
心が離れていた時があったにしても、やはり彼らは根っこのところで、共通するものを持っていらしたのでございましょう。
まともではない社会の中で、まともなことを叫ぶ。笑われても、叩かれても、叫び続ける。
もちろん、容易にできる生き方ではございません。
しかしあのように生きた人がいる、という事実が
自分の無力さばかりを観想してしまいがちな私達に
「黙るな!」という叱咤と勇気をくれるのでございます。
正式な邦題は『PEACE BED』だったんでございますね。
それはさておき
12/12の続きでございます。
先にも申しましたが
この映画ではひとりジョン・レノンという人物の行動だけでなく、
60~70年代という「時代」がリアリティを持って描き出されております。
「革命の時代」を文章でしか知らないワタクシにとっては、この点が大変興味深うございました。
体制派・反体制派双方の、いわば第一線で活動していた人々の証言や
ニュース、コンサートの映像、ラジオの放送、新聞などなどから
時代の雰囲気や動静が背景として浮かび上り
その前で展開される一人の(いや、むしろ一組の)人間の行動に
しっかりとした社会的、歴史的文脈を読み取ることができます。
それゆえこの作品は、直接的にはアメリカ政府と闘うはめになったいち個人の姿をモチーフとしておりますが
単に伝記映画/音楽映画としての機能を果たしているのみならず
同時に、権力の座にある人々が何を恐れ、その恐れの対象をどんな手段で排除しようとするかの証言でもあり、
自分を包囲するさまざまな問題に対してどんな態度をとりうるか、というひとつの可能性を示したエンパワメント・メッセージにもなっているのでございます。
「闘う羽目になった」と申しましたのは、ジョン・レノンの方では別にアメリカ政府に喧嘩をふっかけたつもりはなく、
「闘い」は社会活動の中で付随的におきてしまったもの、という印象を受けたからでございます。
体制への反抗、社会的不正への疑問や不満があり「これ、おかしいんじゃないの?」と叫びたい人が沢山いた。
そういう人たちの先頭に立って、片手にはギターを抱え、片手には白いハンカチを振って
「黙っちゃいけない、黙る必要なんかないんだ」と言いながら歩いたのが”ジョン&ヨーコ”というアイコンだった。
先頭を歩いたから、ものすごく叩かれた。
それでも歩くのをやめなかったから、闘わざるをえなくなった。
2人が歩き続けられたのは、もちろん彼ら自身の強靭さも大いにございましょうし
「時代」および「名声」というサポートがあったからでもございましょう。
しかし「時代と名声」という後押しがある一方、まさにその「時代と名声」ゆえの無理解もございました。
今では、ミュージシャンの政治的発言をバカにしたりはいたしませんが、30年前は違ったようでございます。
インタビュー映像からありありと分かることでございますが
記者たちはジョン&ヨーコの発言やパフォーマンスを頭からバカにしております。
これはワタクシ、本などで読んである程度知っていたことではございますが
あ れ ほ ど にあからさまだとは思いませんでした。
何故そこで笑うのか?と思うような箇所で、記者たちの間から笑いが巻き起こったりいたします。
「僕らのことを記事にするなら、必ず一緒にPEACEの文字を掲載してくれ」と言うことの、
いったいどこが馬鹿げているというのでございましょうか?
「黒人も白人も、みんな袋をかぶって出勤すれば、偏見や差別はなくなる。
人を見た目じゃなく、中身で判断せざるをえなくなるから」
これはいったい、笑うべき発言でございましょうか?
全くもってWhat's So Funny 'Bout Peace Love And Understanding?でございますよ。
平和、愛、そして相互理解の、いったい何が可笑しいっていうんだ?
(歌詞はこちら。いみじくも今朝のピーター・バラカンさんのラジオ番組で、この曲がかかっておりました。
身体的には何も問題ないようで、静かなる反骨精神も健在であり、ひとまずは安心いたしました。
とはいえ、胸中は不安でいらっしゃることと想像いたします。
今後二度とこのような事件がおこらないことを祈るばかりでございます)
閑話休題。
そんな中での彼らの活動を見ていてウ~~ムすごいと思ったのは
・笑われても、叩かれても、脅されても、叫ぶのをやめなかったこと。
・あくまでもアートの力で、世界/社会を変えようとしたこと。
つまり暴力的手段でもなく、威勢のいい言葉で人心を焚き付けるのでもなく、
1人1人の心に自発的な変革を起すことによって、世界/社会全体の変革を促したということ。
そして
・常に真摯さとユーモアを忘れなかったということ。
はなからバカにした態度の記者たちの質問にも非常に真剣に、かつ、
どこか飄々としたユーモアを持って答えております。しかも即答で。
ものすごく真剣で、ユーモラス。強靭な魂と鋭い知性。
『Yes オノ・ヨーコ展』で彼女の作品に触れた時にも感じたことでございます。
心が離れていた時があったにしても、やはり彼らは根っこのところで、共通するものを持っていらしたのでございましょう。
まともではない社会の中で、まともなことを叫ぶ。笑われても、叩かれても、叫び続ける。
もちろん、容易にできる生き方ではございません。
しかしあのように生きた人がいる、という事実が
自分の無力さばかりを観想してしまいがちな私達に
「黙るな!」という叱咤と勇気をくれるのでございます。