Rupert Spira
Awareness Veils Itself with Its Own Activity
Youtube https://www.youtube.com/watch?v=9Ba96sAY61A&list=PLhitJLV_Mjl0VoKAatZIaMPK68ue1-KRr&index=1
感想:
エゴについて、実在しないものをどうやって解消できるか。 ルパート・スパイラの言葉は、奇跡講座の教義の最初に書いてある下記の言葉:「実在するものは脅かされない。実在しないものは存在しない。ここに神の平安がある。」に通じている。 夜道の向こうに見える蛇のようなものへの適切な対応は、蛇を攻撃することでも、逃げることでもなく、近づいてよく見て、それがただの棒切れであることを見極めることだとだということ。 仏教の言う「諸法無我」を極めること。 奇跡講座がエゴの引き起こす苦しみ(幻想)に多くの注意を払わない理由、それは実在しないからだ。 初めから蛇はいなかったからだ。 無いものに対しては攻撃も、防衛も、分析も意味がない。
「エゴは決して作られたことがなく、存在したこともありません。それは決して破壊されることも解消されることもありません。 」という文章は般若心経の「無無明亦、無無明尽」(無明もなく、また無明の尽くることもなし。)に通じる。
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以下訳:
エゴは解消される必要があるのか?
エゴが解消される必要があると提案することは、まずエゴが存在していることを前提とします。
もしエゴが存在するならば、無限の意識は無限でなくなります。なぜなら、有限と無限が同時に存在することはできないからです。
無限の中には有限のための余地はありません。
したがって、エゴの存在を主張することは、意識の存在や神の無限なる存在を否定することになります。
質問: でもエゴは幼い頃に作られるものでは?
回答: エゴは決して作られたことがなく、存在したこともありません。
それは決して破壊されることも解消されることもありません。
ただ一つの自己、一つの目、一つの現実があり、それ自体が思考や感情、知覚という形を取ります。そして、そうした思考・感情・知覚の活動の中で、それは自身を覆うヴェールをかけたように見えるだけです。
自身の活動によってヴェールをかけるのです。
その結果、それ自身を制限されたものとして認識するようになります。ちょうど、映画がスクリーンの活動であるのに、スクリーン自身を覆い隠すことは決してないのと同じように。
質問: では、「エゴは解毒されるべき」という話をしていた時とどう違うのですか?
回答: それは異なる質問に対する別の答えでした。
例えば、スコットランドから来た誰かが「バクランドホールへの行き方」を尋ねたとします。Googleは「M6を南下して右折」と教えるかもしれません。
一方で、ブライトンから来た人には「M23を北上して左折」と言うでしょう。
同じ場所への道案内が、一見矛盾するようでありながら、実際には同じ指示なのです。
質問: それはあまり役に立たない答えですね。
回答: 以前「エゴを解毒する必要があるか」という答えは、特定の人(ヨアキム)に向けたものでした。この「エゴを解消する必要があるか」という答えは、あなたに合わせたものです。
質問: でも、自分のエゴを解消しないと、自分が本当に輝けない気がします。
回答: その「解消したい」という感情自体がエゴなのです。
質問: そうですね、それを解消したいです。
回答: その「解消したい」という感情、それこそがエゴという幻想的な現れです。
しかし、実在しないものをどうやって解消できるでしょうか?
質問: その答えを知りたいです。まるでひびの入ったクリスタルのように感じます。
回答: それでは、ヴェーダンタ(Vedantic)伝統からよく知られた比喩をお借りしましょう。 夜、暗い道を歩いているとします。目の前の道に蛇がいるように見えます。
その結果、あなたは恐怖を感じます。 どうやってその蛇を取り除きますか?
「この恐怖から解放されるためには、蛇を取り除かなければならない」と思うでしょう。 さて、どうしますか?
質問: 撃ちます。私はアメリカ人ですから。
回答: (笑)
私が隣にいたら同意するかもしれませんが、それでは蛇を撃つことはできません。
実際には、それは蛇ではなく棒です。
あなたはそれを蛇と見間違えただけです。
質問: ああ、棒だったんですね。それは蛇じゃない。
回答: すみません、この比喩に慣れていると思い込んでしまいました。申し訳ありません。
質問: いえ、聞いたことはあります。
回答: では、暗い道を歩いていて、蛇のように見えるものを目にしたとします。それは実際には棒です。 さて、どうやってその「蛇」を取り除きますか?
質問: 棒だと気付くことでしょうか?
回答: そうです。そして、その結果、恐怖が消えます。
つまり、あなたが「それは棒だ」と理解することが、蛇の幻想を取り除く方法なのです。
では、どうやってそれが棒だと気付くのでしょうか?
質問: 近づいてよく見るしかないと思います。
回答: その通りです! 近づいて、よく見るのです。そして、どうなりますか?
質問: ああ、それが棒であって、蛇ではないと分かるでしょう。
回答: 完璧です!
あなたが蛇だと思い込んでいたものは、実際には棒でした。ただ、十分近づいていなかったからそう見えたのです。 それが棒だと気付いた瞬間、恐怖は消えます。
では、「個としての自分」という感覚、すなわち「別個の自己」という感覚はどうでしょう?
それは蛇のようなものです。解消することはできません。なぜなら、それは実際には存在していないからです。
では、なぜそれが「別個の自己」として現れ、結果として苦しみを引き起こすのでしょうか?
それは、ただ私たちがそれをはっきりと見ていないからです。
では、別個の自己の現実を知るにはどうすればよいでしょうか?
まさに、見かけの蛇の現実を知るために行ったことと同じことをするのです。近づいて、触れて、真実を見極める。
棒を見るという行為が、見かけの蛇の「解消」なのです。
しかし、実際には何の解消も必要ありませんでした。なぜなら、蛇は最初から存在していなかったのです。 だから、破壊することも、解消することも、不必要だったのです。
必要なのは、棒の現実を見ることだけです。
これが、この伝統(ヴェーダンタ)において、私たちが苦しみに多くの注意を払わない理由です。教えは、人々に届くために、苦しみをある程度受け入れ、対話するかもしれません。 しかし、そこに多くの時間を費やすことはありません。つまり、蛇に多くの時間を費やさないのです。
私たちは直接、その実体を見に行くのです。それが蛇に対処する方法です。
質問: ここで少し補足してもいいですか?
その時点で、私がここに来た理由でもある道筋を感じます。それは、自分が頭の中で繰り返してしまう思考のループから離れて、「それは自分ではない」と距離を置くことができる道です。
「それは私の心であり、私はそれを知っている存在である」と気づくのです。この道は私にとって非常に役に立ちました。
しかし、ここから「ハートの道」への進む過程では、愛が痛みと絡み合っているように感じます。そのため、両方を同時に感じることがあり、それを分離するのが難しいのです。
つまり、頭の道(知識の道)は私にとって簡単でした。しかし、ハートに至る道、愛の道は痛みと絡み合っており、それを完全に乗り越えることが難しいと感じます。
回答: しかし、それは2つの異なる道ではありません。
それらは最終的には同じ道です。もし私が「今、あなたが最も愛しているものに注意を向けてください」と言ったら、あなたはどこに向かいますか?
質問: 自分の内側ですね。
回答: そうです。
それについてもっと言葉にしてみてください。簡単ではないかもしれませんが、できるだけ具体的に、あなたが最も大切にしているものに向かうとき、どこに向かうのか教えてください。
質問: 子どもたちのことを思い浮かべました。
回答: いいえ、子どもたちについての思考は、あなたの人生で最も大切なものではありません。なぜなら、それは約3秒で手放してしまうからです。思考があなたにとって最も大切なものであれば、あなたはそれを簡単に捨てたりしないでしょう。
今も、その子どもたちに関する思考はすでに消えてしまいました。 それが本当に大切なものであれば、そう簡単に消えるはずがありません。
では、本当に大切なものに行ってみてください。
質問: 難しいですね。
回答: 完璧です!
では、次に私が「あなたの経験に気づいているものに注意を向けてください」と言ったら、あなたの意識はどこに向かいますか?
質問: 同じ場所です。
回答: 完璧です!
最初の道は愛の道でした。
次の道は知識の道でした。
しかし、それらをよく探求すると、あなたはそれぞれ同じ道をたどり、同じ「場所のない場所」に到達しました。
質問: 確かにそうですね。
回答: そうです。
ですから、私はあなたに、両方の道を均等に旅することをお勧めします。そして、2つを行き来しながら探求を続けてください。
そうすることで、あなたの心(ハート)も、頭(知性)も、この探求に等しく関与することになります。
そして、最終的には両者が一つに融合するのです。
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