皆さま、日本のプロ野球、広島カープってご存知ですよね。
そう、広島にある、真っ赤っかのプロ球団です。
この球団は、日本の12球団の中でも、ユニーク。
まあ、正式には「広島東洋カープ」と言いますから、マツダの東洋工業が肩入れしているんでしょうが、基本的には、広島市民が持っている球団です。他の球団は、大きな企業が背後についていることは、皆様、ご存知だと思います。
それにこの広島のニックネームには、他の球団のそれと異なり、唯一、語尾に「S」がついていません。その理由はもちろん、CARPが鯉という魚で、単複同形であるため。
発足は、戦後の1950年。その前年に、日本プロ野球の2リーグ分裂話が出た時、広島にプロ球団を作ろうという機運が高まりました。「それは、いい。是非広島にもプロ球団を!」と話は急テンポでまとまりました。
もともと、広島は野球の盛んなところですし、それに何しろ、その5年前、広島に原爆投下。それによって、この町は、壊滅状態に陥り、県民の心も、疲労、荒廃していましたからね。何か、人々に希望を与えるものが欲しかったのです。
でも、新球団を、何もないところから新たに作るとなると、それはそれは大変です。
まず球場ですね。そして何と言っても「資金」です。選手は、その辺りからかき集めてきて、一年目がスタート。
監督には、太陽ロビンスから石本秀一を呼びました。しかし、この人は、監督とは言いながら、資金集めに翻弄され、四苦八苦。実際の指揮は、助監督の白石勝巳(選手兼任)に任せました。ちなみに石本も白石も、広島の人です。シーズンが終ってみると、もちろん、セリーグ最下位でしたが、勝率0.299。しかし、これは立派です。私、知らなかったのですが、この年に、長谷川良平投手がテスト生で入団、名古屋の人。すぐにエースにのし上がりましたね。
翌年も最下位。
しかし、4年目の1953年にはアメリカのマイナーリーグから、銭村兄弟(健三、健四)が入団。特に弟健四の活躍が著しく、やっと、万年最下位の汚名を返上できました。
資金面では、石本秀一懸命の奮闘にもかかわらず、何度も危い局面に立たされました。しかし、広島各市の支援、また、ぜひ広島の球団を存続させたいという県民の熱い想いに支えられて、消滅とか合併の危機は免れました。
画期的なことが起ったのは1975年です。
アメリカから、ジョールーツを監督に招聘。彼が、チームに新風を吹き込みました。「闘志をむき出しにしろ」というのです。
しかし、阪神との試合中に、ピッチャー投球判定を巡って猛然と抗議。それが元で、1ヶ月も経たずに退団してしまいます。ただ、皮肉にも、その後を継いだ古葉竹識が、また、私の好きな苦労人タイプの人で、カープを、なんと初優勝に導いたのです。創設以来、苦節25年。
日本シリーズでは、私贔屓の阪急に敗れましたが、ご存知の通り、後年日本一に3度輝いています。リーグ優勝9回。立派なものです。
私は、もともとパリーグファンですから、パリーグのチームは、まあ、どれも好きですが、阪急がなくなってしまいましたので、強いてあげるとすると、やはり阪急の流れを汲むオリックスかなあ、。柳田悠岐のいるSバンクも好きです。柳田は広島商業出身。
しかし、セリーグとなると、やはり、これほど辛酸を舐めてきた広島ですね、断然。
鉄人衣笠祥雄は、京都平安高校の超スラッガーでした。私の一年下。京都の試合でよく観ましたが、先年亡くなりましたね、比較的若く、。日米混血。
ちなみに。
上記、銭村兄弟のことを書きました。1953年、アメリカマイナーリーグから連れてこられた日系2世。彼らのお父さん健一郎さんが、広島からアメリカに渡られた人でしたから、これは広島という球団の特殊性かなと思いましたが、そんなことはありません。その頃、同様の経路で、日本に来られた日系二世のプロ野球選手って、多かったのですよ。その時は、大リーグから引っ張ってくるなんて、日本の野球レベルがまだ低かったし、それにまず経済的に不可能。また、日本語が片言でも、日系人だと違和感がなかったのでしょうね。
私の知っている、日系2世のプロ野球選手をあげてみます。
ウオーリー(要)与那嶺;巨人
ウエンデイ(敏雄)宮本:巨人
柏枝文治:巨人
若林忠志:阪神、毎日
与儀真助:阪神、大映
スタンレー橋本:東映
カールトン半田:南海
ビル西田: 東映
この中で、最も印象に残っているのは、カールトン半田。TVを観て、よく知っていました。半田は、南海の貴重なUtility Player(内野の何でも屋さん)、でも主に二塁手です。この人はいい選手でしたよ。噛みタバコをいつも口に服み、頬っぺたを膨らませていましたね。
この人です、優勝後のビールかけを日本に持ってきたのは、。ああ、もったいない、。
ご存命で、ハワイに住んでおられます。90歳。