鈴木大拙は日本の禅を世界に広く普及させた仏教学者です。その鈴木大拙の「禅選集」から心身問題に関する記述を3つ選びました。

鈴木大拙
心は実在しない
禅は実在としての心の存在を強く否定する。しかし、この否定は、知的判断の結果ではなくして、実際の経験にもとづくのである。
精神や思想や物質の二元論的観念は、人間意識を毒して、自己をほんとうに理解することを妨げてきた。
このために、禅は「無心」を主張することきわめて強い。これを論理的に主張するのでなく、事実として主張するのである。「心」という観念に執着する意識の痕跡をぬぐい去ってしまうために、禅は種々な実践的な方法をもちいる。
禅選集3「悟り」より
身と心は抽象
私たちは身体と精神というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのように語るが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけではない。
ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、昔からそんな風に見てきただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われわれはいずれも無始劫来といってよいほどその迷夢からさめないでいる。
われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である、再構成である。分極化である
身と心は概念上、分別上においてこそ、二つの個在と見られるが、経験事実の上では何と区別すべきではないのである。
話の上で身と心とを分けると、はなはだ便利なので、俗世間のみならず、少し理屈をいうときでも、身といい心というのである。が、これがため、起こさなくてもよい疑問が起こって、かえってそれに迷わされることが多いのである。
たとえば死んだらどうだとか、身は腐朽するが、心はどこへ行くかというような疑問、これらは最初の第一歩を踏み出し損ねたので次から次へ疑いの雲は重なるばかりで、なかなか晴れないのである。
禅選集5「禅百題」より
未分化の場所
人間の世界は合理性によってつくりかえられていて、そこには事物がつねに対立し、この対立によって人は考え、その考えが逆に投影されて一切の経験界となり、したがって、両断されたこの世界は無限に倍加していく。禅の方法は論理的ないし哲学的方法に正反対の全く異なったコースをとる。すなわち一切のものが分起する以前の内的自己に還れというのだ。
普通、人は究極の安息所をもとめるために自己自身から遠ざかってゆくものだ。歩き続けてついに神に到着するが、禅の道は逆に進む。つまり前に進まず、後方に進む。
その道は混沌とした未分化の場に到達する、禅は一切の二分作用というものがまだ萌芽せぬ以前の世界を見るのである。
禅選集3「悟り」より
身と心は抽象
私たちは身体と精神というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのように語るが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけではない。
ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、昔からそんな風に見てきただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われわれはいずれも無始劫来といってよいほどその迷夢からさめないでいる。
われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である、再構成である。分極化である
身と心は概念上、分別上においてこそ、二つの個在と見られるが、経験事実の上では何と区別すべきではないのである。
話の上で身と心とを分けると、はなはだ便利なので、俗世間のみならず、少し理屈をいうときでも、身といい心というのである。が、これがため、起こさなくてもよい疑問が起こって、かえってそれに迷わされることが多いのである。
たとえば死んだらどうだとか、身は腐朽するが、心はどこへ行くかというような疑問、これらは最初の第一歩を踏み出し損ねたので次から次へ疑いの雲は重なるばかりで、なかなか晴れないのである。
禅選集5「禅百題」より
未分化の場所
人間の世界は合理性によってつくりかえられていて、そこには事物がつねに対立し、この対立によって人は考え、その考えが逆に投影されて一切の経験界となり、したがって、両断されたこの世界は無限に倍加していく。禅の方法は論理的ないし哲学的方法に正反対の全く異なったコースをとる。すなわち一切のものが分起する以前の内的自己に還れというのだ。
普通、人は究極の安息所をもとめるために自己自身から遠ざかってゆくものだ。歩き続けてついに神に到着するが、禅の道は逆に進む。つまり前に進まず、後方に進む。
その道は混沌とした未分化の場に到達する、禅は一切の二分作用というものがまだ萌芽せぬ以前の世界を見るのである。
禅選集3「悟り」より