大分発のブログ

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二種の知識

2021-01-05 21:09:00 | 哲学
 二種の知識/ベルクソン

 形而上学の定義と絶対についての考え方をいろいろ比べてみると、外見的な意見の相違にもかかわらず、ものを知るのに根本的に異なった二つの仕方があるという点で、哲学者たちの意見の一致していることがわかる。
 
 第1の仕方は、ものの周りをまわることであり、第2の仕方は、ものの中に入ることである。第1の仕方は、私たちのよって立つ視点と、私たちが表現に用いる記号とに依存する。

 第2の仕方は、どのような視点にも関係なく、どのような記号にも頼らない。
第1の認識は相対にとどまるが、第2の認識は可能であれば絶対に到着する。

 直観と分析

 絶対は直観のうちにだけあたえられる。それ以外はすべて分析の領分に属する。ここで直観というのは、対象の内部に身を置き、その対象がもつ唯一なもの、すなわち表現できないものと一致する共感である。

 それとは逆に分析とは、対象を既知の要素へ、いいかえれば他の対象と共通する要素な還元する操作である。したがって、分析はあるものをそれ以外のものとの函数において表現する。

 あらゆる分析は翻訳であり、記号への展開であり、新しい対象と既知の対象との接触を継起的な視点から記述して得られる表象である。

 分析は対象をとらえようとして、永遠に満たされない欲望をいだき、対象の周りをまわる運命を負わされ、視点の数をどこまでもふやし、つねに不完全な表象を完全にしようとし、記号を絶えず取りかえ、不満足な翻訳を満足にしようとする。こうして分析は無限に続く、しかし直観は、もしそれが可能ならば単純な行為である。

 実証科学は何よりも記号に基づいて作業する。自然科学のなかで最も具体的な生命の科学でさえ、生物の器官や解剖学的要素という目に見える形に依拠している。

 それらの形を相互に比較し、複雑なものを単純なものに還元し、最後には生命の働きを視覚的な記号というべきものにおいて研究する。

 実在を相対的に認識するのではなく絶対的に把握し、さまざまな視点をとるのではなく内部に入り、分析するのではなく直観する手段があるとすれば、つまり、いっさいの表現、翻訳、記号的な表象によらずに実在をとらえる手段があるとすれば、それはまさに形而上学である。すなわち、形而上学は記号なしにすませようとする科学である。
  ベルクソン「形而上学入門」より

  

 ベルクソン (1859年〜 1941年)はフランスの哲学者。彼の「実在論」はすべてのものは単なる固定した事物ではなく、流動して持続する生命そのものであることを説いています。その世界観は仏教、特に禅に通じるものがあります。次の鈴木大拙と比べて読むと興味深いものがあると思います。

    

 鈴木大拙(1870~1966)は、日本の仏教学者、文学博士。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。

 二種の知識/鈴木大拙

 われわれが真実を知る仕方に二つの種類がある。その一つはそれについての知識であり、も一つは真実そのものから出てくるものである。「知識」を広義に用いれば、前者を可知的知識、後者を不可知的知識ということができると思う。

 知識が主体と客体との関係であるとき、これは可知的であるが、ここでは、主体が知るもの、客体が知られるものとなる。この両立が存するかぎり、これに根拠を置く一切の知識は公共の所有であり、誰でもこれをもつことができるから可知的である。

 逆に、知識が公共的でなく、他に分け与えることができないという意味において厳密に個人的となる場合、これは不知的または不可知的となる。不知の知識は内的経験の産物である。ゆえにそれは全く個人的でありしかも主観的である。

 しかしこの種の知識の妙な点は、この知識をもった者は、その個人的性質にもかかわらず、その普遍性を絶対に確信しているということである。彼は、誰しもこれを具有しているが、しかし誰もがこれに気づかぬということを知っている。


 相対的と絶対的

 可知的知識は相対的であるが、不可知的知識は絶対的であり超越的であって、そして理念の媒介というものを以てしてはこれを伝えることができない。

 絶対的知識とは主体者が自己と知識との間になんら介入物を挿しはさまずに己れ自ら掴むという知識である。主体者は自己を知るために主と客といったものに自己を二分しない。これを内的自覚の状態といってよかろう。この自覚は奇妙にも人間の心を不安と怖れから解放する力をもっているのである。


 般若直感

 不可知的知識は直感的知識である。しかし般若直感は知覚作用としての直感とは全然違うものである。知覚としての直感の場合には、見るものと見られるものとがあって、それらは分けられるもので、事実分かれていて、一方が他に対立している。この対立した二つのものは相対性と差別の領域に属するものである。般若直感は単一性と同一性のところにある。それは倫理的直感でもなく数学的直感でもない。

 般若直感の一般的性格付けをするならば次のようにいいえる。即ち、般若直感は派生的でなく原始的である。推理しうるものでも合理的でも、媒介によるものでもなく、直接で、無媒介で、非分析的で、最も完全なものである。

 認識によるものでなく、象徴的でもなく、目的的でもなく、単にただ現れて出るものだ。抽象でなく具体に、過程・目的としてではなく、事実として究極的で、これ以上のものはなく、還元することのできぬもの、永遠に無に帰するものでなく、無限に含んでゆくものなどである。

 鈴木大拙全集第12卷 「胡適博士に答う」より


 そのものズバリ

 科学が実在を扱う方法というのは対象をいわゆる客観的方法で観察する。たとえば、この机の上に一輪の花がある。これを科学的に研究するとすれば、科学者はあらゆる角度から分析に付する。

 植物学的、化学的、物理学的にいろいろやる。そしてそれぞれの特殊の研究的立場から花について見出だしたあらゆる事柄を報告する。

 そこでいわく「花の研究はつくされた。別の研究をやってみて何か新しいことが見つけ出されぬ限り、この花について述べることはもはや何も残ってはおらぬ」と。

 実在の科学的取り扱いというもののおもな特徴は、対象を記述すること、それについて語ること、その周囲をぐるぐる回ること、われわれの知的感覚に訴えるものはなんでもこれをとらえて、それを対象から抽出する。そしていっさいのこうした手筈が終わったと考えられる時に、こうした抽象の結果を総合して結論というものを得ることになる。

 しかし、なおここに疑問が残る。「網にとらえた物は果たして完全な物だったのか」ということだ。私は言う。「とんでもない」と。なぜなら、私たちがとらえ得たと思った対象とは抽象の寄せ集めではあるが、″そのものズバリ″ではない。実用的には功利的な目的のためにはこれらのいわゆる科学的公式といったものでも十分過ぎるように見える。

 けれども、いわゆる対象自体は全然そこにはいないのだ。水から網を引き揚げてみて、「ハテ何か網目から逃げ出しているな」と言うことに気が付く。

 しかし、実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやって来る方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。

 禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいっていくのである。
 
 鈴木大拙・フロム「禅と精神分析」より




ベルクソン/直感と概念

2021-01-05 14:47:00 | 哲学

直観と概念 

188
 もちろん、形而上学にも概念は必要である。なぜなら、他のすべての科学はごくふつうに概念に基づいて仕事をしている。形而上学はそうした諸科学なしにすませるわけにはいかない。

 しかし、形而上学の本来の面目は、概念をこえ、あるいは少なくとも、こわばった出来合いの概念から自由になり、いつも私たちが手にしているものとはまるで違う概念、しなやかでよく動き、ほとんど流動的であり、直観のとらえがたい形にいつでも型を合わせるような表象を創造するところにある。

198
 概念はふつう対をなし、対立する二つのものを示している。どのような具体的実在も、相反する二つの視点から同時に見ることができ、したがって対立する二つの概念に包摂できる。

 ここから、定立と反定立を和解させようとするむだな努力が延々となされるが、その理由は簡単である。概念あるいは視点でものをつくることは決してできないからだ。

 しかし、直観でとらえた対象からは、たいていの場合、二つの反対概念へ容易に移行できる。
 
 そのように実在から定立と反定立があらわれることがわかるので、両者がどう対立しどのように和解するかも同時に把握できる。

 そのためには、知性の通常の働きを転倒させる必要がある。考えるとは通常、事物から概念へではなく、概念から事物へ進むことである。

「認識」という言葉のふつうの意味において、実在を認識するとは、既成の概念を手にして、それを調合して組み合せ、実在の実用的等価物をつくり出すことである。

199
 知性の正常な働きが利害にとらわれたものであることを認めよう。一般に私たちは、認識のための認識を目指していない。そうではなく、立場を決め、利益を得、関心を満たすために認識している。対象がどの点まで“あれ”であり”これ“であるか、既知のどのジャンルに当てはまり、どんな行動や手続きや態度を私たちに取らせることになるのか、それを知ろうとしているのである。そうした可能的行動や態度が私たちの思考の概念的な方向であり、そしてそれは一度にすべて決定される。後はそれについていくだけである。概念を事物に適用するとは、まさにそうしたことである。

直観と分析

202
 分析は不動のものに働きかけ、それに対して直観は動きのなか、あるいは同じことだが持続のなかに身を置くのである。

 ここに直観と分析との明快な境界線がある。私たちは実在的もの、生きているもの、具体的なものを、それが可変性のものであるという点において認める。

 要素というものを、それが変化しないものであるという点において認める。要素とは図式であり単純化された再構築物であり、たいていの場合は記号であり、いずれにせよ、流れる実在に向けられた一つの眺めであり、定義からいって変化しないものである。

 図式的もので実在的なものを再構成できると思うのは誤りである。これはいくら繰り返し言ってもいい。

 直観から分析に移行できるが、分析からは直観に移行できない。
  ベルクソン「形而上学入門」より

 直観について

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 私の語る直観は何よりもまず内的な持続へ向かう。直観がとらえるのは並置ではなく継起であり、内からの生長であり、絶え間なく伸びて現在から未来へ食い入る過去である。

 直観とは精神による精神の直接的な視覚である。そこにはもはや何ものも介在しない。空間を一面とし言語を他面とするプリズムを通した屈折も起こらない。
状態が状態に隣り合い、それが言葉となって並置される代わりに、そこには分割できず、したがって実体的で、内的生命の流れの連続性がある。

 それゆえ直観とはまず何より意識を意味するのだが、しかしそれは直接的な意識であり、対象とほとんど区別のつかない視覚であり、接触というより合一する認識である。

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 ついで、直観とはひろがって無意識のふちに迫る意識である。無意識は譲歩し、抵抗し、屈服し、そして捉えられる。そうした光と闇のすみやかな交代を通して、直観は無意識の存在を私たちに教える。

 厳格な論理に反して、直観は心理現象がどんなに意識的なものであるにせよ、心理的な無意識が存在することを私たちに教える。

 しかし直観はもっと先まで行けないだろうか。直観とは私たち自身の直観にすぎないのだろうか。自分の意識と他の意識との区別は、自分の身体と他の身体との区別ほどに明確ではない。なぜなら、明確な区別をおこなうのは空間であるからだ。

 無意識的な共感や反感はしばしば予見的なものであり、人間の意識のあいだで相互貫入が起こることを示している。

 実在は経験のうちにしか与えられない

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 実在は経験のうちにしか与えられない。その経験が物質的なものを対象とする場合は、視覚、触覚、あるいは一般に外部知覚と呼ばれ、精神に向けられる場合は直観と呼ばれる。
   「思考と動き」序論(2)より

ベルクソン/知性と直観

2021-01-05 14:45:00 | 哲学

  

1本能

 本能は生命の形式そのものにもとづいて形づくられる。

 もし本能のなかに眠っている意識が目覚めたならば、もし本能が外面化して行動となるかわりに内面化して認識となっていたならば、また、もしわれわれが本能に問いかけることができ本能がそれに答えることができたならば、本能はわれわれに生命の最も奥深い秘密を見せてくれることであろう。

 本能は共感である。もしこの共感がその対象をひろげ、また自己自身について反省することができたならば、この共感は、生命的な作用の鍵をわれわれに与えてくれることであろう。
       「創造的進化」2章より



   
2直観

 知性と本能は、相反する二つの方向に、すなわち知性は物質の方へ、本能は生命の方へ向けられている。

 知性は対象のまわりをまわり、外からその対象についてできるだけ多くの観点をとるが、それを自分の方にひきよせるだけで、自分からそれのなかに入っていくことはしない。

 もっと適切にいえば 知性とはある対象を他の対象に関係させる能力である。知性はどんな事物にも適応されるが、つねにその事物の外にとどまっている。

 けれども、直観は生命の内奥そのものへわれわれを導いてくれるであろう。

 私がここで直観と言うのは、利害をはなれ、自己自身を意識するようになった本能のことであり、その対象について反省するとともにこれを無限に拡大することのできる本能のことである。

 世界を満たす物質と生命が、われわれの内にもある。万物の内に働いている力を、われわれは自分の内に感じる。

 存在するもの、生成するものの内的本質がどのようなものであろうと、われわれはこの本質をもっている。

 自身の内部に下降してみるとき、そのときわれわれが触れた点が深ければ深いほど、表面へ押し戻す上昇圧力は強くなる。哲学的直観とはこの接触のことである
創造的進化2章』「哲学的直観」より


  

3知性

 意識は、人間にあっては、何よりも知性である。思うに、意識は直観でもありえたであろうし、直観でもあるべきであった。

 直観と知性とは、意識的な働きの相反する二つの 方向をあらわす。直観は生命の方向そのものに進み、知性は逆の方向に向かう。

 完全な人間性があるとすれば、そこでは意識の二形態である知性と直観がともに十分な発達段階に達しているであろう。

 しかし、われわれの人間性においては、直観はほとんどまったく知性の犠牲になっている。

 意識は、物質の習性に自己を適応させ、物質の習性に自己のあらゆる注意を集中させている。要するに、意識は何よりも自己を知性として規定しているのだ。
    『創造的進化』2章より

  

4哲学

 なるほど、そこには直観がある。しかし漠然としており、とりわけ非連続的である。それはほとんど消えかかったランプである。

 ときたま燃えあがっても、ほんの束の間しかつづかない。しかし、このランプは生命的関心が働くときには、燃えあがる。

 われわれの人格のうえに、自由のうえに、われわれが自然全体のなかで占める位置のうえに、われわれの起源のうえに、またおそらくはわれわれの運命のうえに、このランプはゆらめく微光を投げかける。

 微光ではあるけれども、それは、知性がわれわれを置きざりにする闇をつらぬく。

 この消え去りがちな直観、対象をたまさかにしか照らしださないこの直観を、哲学はわがものとなし、まず直観を力づけ、ついでそれを拡大し、直観をたがいに結びあわせなければならない。

 哲学がこの仕事を進めていけばいくほど、それだけいっそう、哲学は、直観が精神そのものであり、ある意味では生命そのものであることに気づく。 

 知性は、直観から浮かびでる。直観のうちに身を置いて、そこから知性に進んでいくときに、はじめて、われわれは 精神生活の統一を認識する。

 これは知性を直観のなかにふたたび吸収しようとする哲学である。なぜなら、知性から直観へ移ることは決してできないであろうからである。
     『創造的進化』3章より


  

5知性の誤謬

 知性は外にまなざしを向け自己自身に対して自己を外的ならしめる生命である。

 知性は無機的自然の歩みを原理として採用することによって実際上この歩みを導いていく生命である。

 本能と知性は同じ一つの根源から分かれでた二つの発展である。この根源が、一方の場合には、自己に対して内的であるままにとどまり、他方の場合には、自己を外化し、ただの物質の利用に没頭する。

 知性は、科学というその作品を介して物理的作用の秘密をますます完全に明かしてくれる。

 しかし、生命については、知性は惰性的用語に言いかえたものをしか与えてくれないし、また、与えるつもりもない。

 知性は、物を扱うのにかくも巧みでありながら、ひとたび生物に触れると、たちまち自分の不器用さを暴露する。
 知性の誤謬の起源は、われわれが生命を物として取り扱い一切の実在を、いかに流動的な実在をも、まったく停止した固体の形式のもとに考えるわれわれ自身の頑迷さにある。

 われわれは非連続的なもの、不動なもの、死んだもののうちにおいてしか、くつろぎを感じない。知性は、生命についての自然的な無理解によって特徴づけられる。
     『創造的進化2章』より

 

6平面的思考

 古典的な考え方は生命を知性によって説明するので、生命の意義を不当にせばめてしまう。知性は、いっそう広大なものから切り取られたものである。

 あるいはむしろ、知性は、起伏や奥行きのある実在を、やむえず平面上に投影させたものでしかない。知性のすべての操作は幾何学を目ざしている。そこまでいってはじめて、知性はその完成を見るかのごとくである。

 古代人たちの科学は静的である。彼らの科学は「時間」を考慮に入れない。幾何学はまったく静的な科学であった。今日なお、われわれはギリシア人たちのようなしかたで 哲学している。

 動く実在の根底に不動のイデーを置くやいなや、そこからあらゆる自然学、あらゆる宇宙論、あらゆる神学が必然的に出て来る。
  『創造的進化』「幾何学的秩序」
  「プラトンとアリストテレス」より

 

7動き

 時間のうちにあるすべては内的に変化する。決して同一の具体的実在が反復することはない。

 したがって、反復は抽象のなかにしかありえない。反復するのは、われわれの感覚やわれわれの知性が、実在から切りとったあれこれの相である。

 知性は反復するものに心を奪われ時間を見ることをやめてしまう。知性は流動するものを嫌い、手に触れるものをことごとく固体化させてしまう。

 われわれは真の時間を思考するのではない。われわれは真の時間を生きるのである。というのも、生命は知性の手から溢れ出るものだからである。

 生命の内的な運動をとらえなおすには、流動的なものを、役立てなければならないということを忘れている。

 知性が純粋な観照を目ざすなら、知性は運動のなかにこそ身を据えることであろう。なぜなら運動は、実在そのものだからである。
        『創造的進化』より

  

8自我

 知性は、区別しようとする飽くことのない願いにさいなまれて、現実に記号を置きかえあるいは記号を通してしか現実を知覚しない。

 このように屈折させられ、またまさにそのために細分化されてしまった自我は、一般の社会生活や特に言語の要求には、はるかによく応ずるものとなる。 

 それで意識はこのような自我の方が好ましいと思い、しだいに根本的自我を見失って行くのである。

 自我と外的事物との接触面の下を掘って、有機的で生命の通った知性の深みにまで多くの観念が重なり合いあるいはむしろ内的に融合しあっているのを目撃することになるであろう。

 そしてこれらの観念はひとたび分解されてしまうとお互いに排除し合って 理論的に矛盾しあう諸項という形を呈するようになる。
      『時間と自由』2章より

   

9生命の根源にある意識

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・

 このような夢が覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるだろう。

 実のところ、生命は 心理的な秩序に属する。心的なものの本質は、相互に浸透しあう錯綜した多数の項を内包しているところにある。

 生命の根源にあるのは意識、いやむしろ超意識である。けれどもこの意識は、一つの創造要求であり、創造が可能であるときにしか、自己自身に対して姿をあらわさない。

 この意識は、生命が自動性に堕しているときには、眠りこんでしまう。しかし選択の可能性が蘇るやいなや、この意識は目をさます。

 自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものである。

 私たちの意識は自然的というより歴史的なものである。意識には記憶というものが必要だからである。

 単なる反応は意識ではない。意識は関係を知ることであり応答することである。
      『時間と自由』2章
      『創造的進化』3章より

    

10イマージュ

 直観とはどんなものでしょうか。哲学者本人がそれを定式化できなかったのですから、私たちにそれができるはずはありません。しかし私たちは、具体的な直観の単純さとその翻訳である抽象概念の複雑さとの中間にあるイマージュなら、何とか把握して定着することができるかもしれません。

 このイマージュは逃げ足がはやく、本当に消えやすいものです。それはおそらく、哲学者本人も気づかないままに彼の精神に付きまとい、彼の思索の紆余曲折に沿って影のように後ろからついてくるのです。

 このイマージュは直観そのものではありませんが、しかし「説明」のために直観が頼らざるをえない必然的に記号的な概念表現よりは、ずっと直観に近いのです。

 影のようなこのイマージュをよく観察してみましょう。そうすれば影を投げかけている身体の姿勢を見分けることができるかもしれません。その姿勢を外から模倣するだけでなく、その姿の中に自分が入りこもうと努力すれば、哲学者の見たものを可能な範囲で見ることができるかもしれません。
   『哲学的直観』媒介的イマージュ

  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・のイマージュです。

 このようなイマージュが覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるかもしれません。