彼の「不生」の観念を一般聴衆にもっとわからせるためには、いつも彼は次のようにいった。
『あなたがたが私の説教を聴きにここへ来る途中に、また、現に説教を聴いているとき、鐘の音、鴉の声を聞けば、ただちに鐘が鳴っている、鴉が啼いていると聞こえる。けっして誤らぬ。目で見る場合にも同じことである。とくに注意して見るわけではないが、ある物を見るときは、ただちにそれが何であるかを知る。 これらの不思議を行なうのはあなたがたの中の「不生」である。 あなたがたがすべてかくのごとくであるかぎり、霊明な仏心である不生を否 定することはできない。』
それではこの「不生」とは何であるか、盤珪自身に語ってもらうことにする。
不生の仏心
『皆さんの誰れもが親から享けているものは「仏心」にほかならない。 この心はけっして生まれなかったもので、決定的に智慧と光明(霊明)に満ちている。生まれぬがゆえに、けっして死なない。 しかし、私はそれを「不滅」とはいわぬ。仏心は不生であり、この不生の仏心により、一切の事が完全にととのうのである。
過去・現在・未来の三世の諸仏、われらの中に現われた歴代の祖師たちーこれらはいずれも皆生まれた後に、めいめいに与えられた名にすぎないから、「不生」の見地からすれば、いずれも皆、第二義的な、末のことで、本体そのものではない。
皆さんが「不生」に住すれば、一切の仏陀と祖師が出て来る根本に住していることになる。 仏心が不生だということを皆さんが確信するときは、誰も皆さんの居る所を知らず、仏陀や祖師でさえ皆さんの居場所を突きとめることはできず、皆さんの本性は仏祖もこれをうかがい知ることはできない。 皆さんがこの決定的確信(決定)に達すれば、畳の上に安坐して活如来となるに十分である。私がやったように骨を折る必要はまったくない。
皆さんがこの決定に達した瞬間から、皆さんは、 人間を正しく見るが開かれる。これは私自身の体験である。 私は「不生」の眼を得てから、けっして人を誤って判断したことは一度もない。この眼は 誰れの場合でも同じである。それゆえ、私の宗派は「明眼宗」という。なおまた、皆さんがこの決定を得れば、皆さんは不生の仏心におかれ、そこに生き、 それとともに生きる。仏心は両親からうける
ところのものである。ゆえにわが宗の別名は「仏心宗」で ある。
ひとたび皆さんが仏心は不生で霊明であるという決定を得れば、 けっして他人にあざむかれることはない。鵜(黒)は鷺(白)だと全世界が主張しても、鵜は生まれつき黒く鷺はもともと白いということが、 人々の日常の経験からはっきり知られて、けっしてだまされることはない。
仏心は不生で霊明なもの、 この不生の仏心で人は一切事がととのうとの決定を得れば、皆さんはけっしてものを見誤ることもなく、 偽わりの場所におかれることもなく、道を迷うこともない これが世の末まで如来として生きる「不生」の人である。
鈴木大拙禅選集『禅による生活』 四ー7「悟りへの道」より
盤珪禅師墨跡「円相」
『そなたの不生の心は、生も死も知らぬ「仏心」そのものである。 その証拠には、そなたが事物を見るときは、いろいろなものを直下にそれを見る。その中に音を聞くときはただそれを感知して、これは鳥が啼いているのだ、あれは寺の鐘だなどという。寸時たりともそれを反省する必要はない。われわれは、朝から晩まで、自分の仕事を一瞬たりとも考えず、 一念不生にやっているが、それを知らず、多くの人はこの生活が分別と料簡とではたらくと考えている。
それは大きな誤りである。 「不生」がわれわれの内部に働らいているのである。仏心とわれわれの心とは二つのものではない。しかるに悟りたいと思い、また自心を発見せんとする人々は、かかる考えで修行用心するが、大きな誤りを犯している。不生不滅ということは、心経を少しでも知っている者は誰もよく知っているが、彼らは「不生」の根源を測ろうとはせず分別と計較とを用いてそれを達し成仏しようと努め、これが仏性を得る道だと考えている。
しかし、ごくわずかでも、仏を求め、道を得んと思えば、たちまちそれが「不生」にそむき、そなたの内部に生まれながらにあるものを見失うのである。 この「心」は「自分は悧発だ」とも「自分は暗愚だ」ともいわぬ、それはそなたの内部に生まれたときと同じままにある。それを悟りの状態に持ち来たそう とすることは、二義に落ちたことである。
そなたは本来初めから仏なのであるから、今始めて仏になるのではないそなたの生まれながらの心には、「迷い」というものは鵜の毛のさきほどもなく、 したがって、けっしてあやまった考えの起こりようはない。両拳をしっかり握って競走してもそなたの不生には変りがない。そなたがもし現在のそなたより少しでもよくなろうとするならば、何か求めて少しでも急ぐならば、そなたはすでに「不生」に反するである。そなたの生まれつきの心は喜びもなく怒りもなく、絶対に自由であり、 万象を照らす霊妙の仏心ばかりである。かたくこの道理を信じて、日常生活において何ら執着を持つなーこれが信心というものである。』
同 五「公案」より
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