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魂はただひとつ
信じる者は数多くいても、信仰そのものは唯ひとつ。
体は別々に離れていても、信じる者の魂は唯ひとつ。
雄牛やロバのそれとは別に、人には人の知性と魂があり加えて人の魂の中にも、聖なる吐息を得た者の魂がある。
けものの魂は合一を知らず、故に合一を恋い焦がれることもない。弱くはかなきものたちに、合一を理解せよと言うのは無理がある。
けものの魂の持ち主たちは、誰かがパンを食べてもその隣人は満たされず
誰かが重荷を背負っていても、その隣人が手助けをするということもない。
否、それどころか彼らのような者たちは、隣人が死ねば喜び、反対に隣人が財を得ようものなら、今度は死ぬほど嫉妬する。
信じる者は数多くいても、信仰そのものは唯ひとつ。
体は別々に離れていても、信じる者の魂は唯ひとつ。
雄牛やロバのそれとは別に、人には人の知性と魂があり加えて人の魂の中にも、聖なる吐息を得た者の魂がある。
けものの魂は合一を知らず、故に合一を恋い焦がれることもない。弱くはかなきものたちに、合一を理解せよと言うのは無理がある。
けものの魂の持ち主たちは、誰かがパンを食べてもその隣人は満たされず
誰かが重荷を背負っていても、その隣人が手助けをするということもない。
否、それどころか彼らのような者たちは、隣人が死ねば喜び、反対に隣人が財を得ようものなら、今度は死ぬほど嫉妬する。
犬やオオカミどもの魂は離れている。けれど神の獅子たちの魂は唯ひとつ。
魂という語が複数あるかのように扱われるのは、ひとつの魂に無数の体が連なり関っているから。
天に唯ひとつの太陽の放つ光が無数の館の中庭を明るく照らす。
館の壁を全て取り去ってみれば散らばった光も唯ひとつに還る。
体という館を取り去ってみれば信じる者の魂も唯ひとつに還る。
『精神的マスナヴィー』4-408
『精神的マスナヴィー』4-408
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光はひとつ
ランプはそれぞれ違っても、放つ光は同じひとつ。
光、それははるか彼方から届けられる。
あなたがランプに眼を奪われ続けるのであれば、あなたはあなた自身を奪われてしまう。
ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、二元性の限界から解き放たれるだろう。
そのようにして新たな視線を獲得すれば、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。
『精神的マスナヴィー』3-1259.
ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、二元性の限界から解き放たれるだろう。
そのようにして新たな視線を獲得すれば、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。
『精神的マスナヴィー』3-1259.
神は天と地の光である
神の光は、ランプの置かれた壁龕のようなものである。
ガラスでできたランプ。
ガラスはあたかも光輝く星のようなもの。
それは祝福された樹、
東のものでも、西のものでもないオリーブの樹で焚かれている。
その油は、火が触れることがないのに、まさに光輝くばかり。
光の上に光を加える。
コーラン24章35節
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