二種の知識/ベルクソン
形而上学の定義と絶対についての考え方をいろいろ比べてみると、外見的な意見の相違にもかかわらず、ものを知るのに根本的に異なった二つの仕方があるという点で、哲学者たちの意見の一致していることがわかる。
第1の仕方は、ものの周りをまわることであり、第2の仕方は、ものの中に入ることである。第1の仕方は、私たちのよって立つ視点と、私たちが表現に用いる記号とに依存する。
第2の仕方は、どのような視点にも関係なく、どのような記号にも頼らない。
第1の認識は相対にとどまるが、第2の認識は可能であれば絶対に到着する。
直観と分析
絶対は直観のうちにだけあたえられる。それ以外はすべて分析の領分に属する。ここで直観というのは、対象の内部に身を置き、その対象がもつ唯一なもの、すなわち表現できないものと一致する共感である。
それとは逆に分析とは、対象を既知の要素へ、いいかえれば他の対象と共通する要素な還元する操作である。したがって、分析はあるものをそれ以外のものとの函数において表現する。
あらゆる分析は翻訳であり、記号への展開であり、新しい対象と既知の対象との接触を継起的な視点から記述して得られる表象である。
分析は対象をとらえようとして、永遠に満たされない欲望をいだき、対象の周りをまわる運命を負わされ、視点の数をどこまでもふやし、つねに不完全な表象を完全にしようとし、記号を絶えず取りかえ、不満足な翻訳を満足にしようとする。こうして分析は無限に続く、しかし直観は、もしそれが可能ならば単純な行為である。
実証科学は何よりも記号に基づいて作業する。自然科学のなかで最も具体的な生命の科学でさえ、生物の器官や解剖学的要素という目に見える形に依拠している。
それらの形を相互に比較し、複雑なものを単純なものに還元し、最後には生命の働きを視覚的な記号というべきものにおいて研究する。
実在を相対的に認識するのではなく絶対的に把握し、さまざまな視点をとるのではなく内部に入り、分析するのではなく直観する手段があるとすれば、つまり、いっさいの表現、翻訳、記号的な表象によらずに実在をとらえる手段があるとすれば、それはまさに形而上学である。すなわち、形而上学は記号なしにすませようとする科学である。
ベルクソン「形而上学入門」より
ベルクソン (1859年〜 1941年)はフランスの哲学者。彼の「実在論」はすべてのものは単なる固定した事物ではなく、流動して持続する生命そのものであることを説いています。その世界観は仏教、特に禅に通じるものがあります。次の鈴木大拙と比べて読むと興味深いものがあると思います。
鈴木大拙(1870~1966)は、日本の仏教学者、文学博士。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。
二種の知識/鈴木大拙
われわれが真実を知る仕方に二つの種類がある。その一つはそれについての知識であり、も一つは真実そのものから出てくるものである。「知識」を広義に用いれば、前者を可知的知識、後者を不可知的知識ということができると思う。
知識が主体と客体との関係であるとき、これは可知的であるが、ここでは、主体が知るもの、客体が知られるものとなる。この両立が存するかぎり、これに根拠を置く一切の知識は公共の所有であり、誰でもこれをもつことができるから可知的である。
逆に、知識が公共的でなく、他に分け与えることができないという意味において厳密に個人的となる場合、これは不知的または不可知的となる。不知の知識は内的経験の産物である。ゆえにそれは全く個人的でありしかも主観的である。
しかしこの種の知識の妙な点は、この知識をもった者は、その個人的性質にもかかわらず、その普遍性を絶対に確信しているということである。彼は、誰しもこれを具有しているが、しかし誰もがこれに気づかぬということを知っている。
相対的と絶対的
可知的知識は相対的であるが、不可知的知識は絶対的であり超越的であって、そして理念の媒介というものを以てしてはこれを伝えることができない。
絶対的知識とは主体者が自己と知識との間になんら介入物を挿しはさまずに己れ自ら掴むという知識である。主体者は自己を知るために主と客といったものに自己を二分しない。これを内的自覚の状態といってよかろう。この自覚は奇妙にも人間の心を不安と怖れから解放する力をもっているのである。
般若直感
不可知的知識は直感的知識である。しかし般若直感は知覚作用としての直感とは全然違うものである。知覚としての直感の場合には、見るものと見られるものとがあって、それらは分けられるもので、事実分かれていて、一方が他に対立している。この対立した二つのものは相対性と差別の領域に属するものである。般若直感は単一性と同一性のところにある。それは倫理的直感でもなく数学的直感でもない。
般若直感の一般的性格付けをするならば次のようにいいえる。即ち、般若直感は派生的でなく原始的である。推理しうるものでも合理的でも、媒介によるものでもなく、直接で、無媒介で、非分析的で、最も完全なものである。
認識によるものでなく、象徴的でもなく、目的的でもなく、単にただ現れて出るものだ。抽象でなく具体に、過程・目的としてではなく、事実として究極的で、これ以上のものはなく、還元することのできぬもの、永遠に無に帰するものでなく、無限に含んでゆくものなどである。
鈴木大拙全集第12卷 「胡適博士に答う」より
そのものズバリ
科学が実在を扱う方法というのは対象をいわゆる客観的方法で観察する。たとえば、この机の上に一輪の花がある。これを科学的に研究するとすれば、科学者はあらゆる角度から分析に付する。
植物学的、化学的、物理学的にいろいろやる。そしてそれぞれの特殊の研究的立場から花について見出だしたあらゆる事柄を報告する。
そこでいわく「花の研究はつくされた。別の研究をやってみて何か新しいことが見つけ出されぬ限り、この花について述べることはもはや何も残ってはおらぬ」と。
実在の科学的取り扱いというもののおもな特徴は、対象を記述すること、それについて語ること、その周囲をぐるぐる回ること、われわれの知的感覚に訴えるものはなんでもこれをとらえて、それを対象から抽出する。そしていっさいのこうした手筈が終わったと考えられる時に、こうした抽象の結果を総合して結論というものを得ることになる。
しかし、なおここに疑問が残る。「網にとらえた物は果たして完全な物だったのか」ということだ。私は言う。「とんでもない」と。なぜなら、私たちがとらえ得たと思った対象とは抽象の寄せ集めではあるが、″そのものズバリ″ではない。実用的には功利的な目的のためにはこれらのいわゆる科学的公式といったものでも十分過ぎるように見える。
けれども、いわゆる対象自体は全然そこにはいないのだ。水から網を引き揚げてみて、「ハテ何か網目から逃げ出しているな」と言うことに気が付く。
しかし、実在に接する方法はまだほかにもあるのだ。それは科学に先行するかまたは科学の後からやって来る方法である。これを私は禅的な方法と呼ぶ。
禅的な方法とはじかに対象そのものの中にはいっていくのである。
鈴木大拙・フロム「禅と精神分析」より