「仏教の大意」は昭和21年に天皇皇后両陛下のために鈴木大拙が講演したものを基礎にして、後に一般読者のために加筆されて出版されたものです。以下は多少読みやすく編集しています。
✧二つの世界
普通わたしたちの生活で気のつかないことがあります。それはわたしたちの世界は一つではなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。
二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。 これら二つの世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的 世界は非実在で観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものだときめているのです。
しかし宗教的立場から見ると、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。 それは感性的世界のに比すべくもないのです。
一般には前者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうでなくて、それはわたしたちの頭で再構成したものです。 霊性的直覚の対象となるものではありません。 感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らない、 あるいは不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でもなくしたような気がして、それの見つかるまではさまざまの形で悩みぬくのです。すなわち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。
✧霊性的世界
霊性的世界というと、多くの人びとは何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一つの世界だけなのです。
二つと思われるのは、一つの世界の人間に対する現われ方だといってよいのです。すなわち人間が一つを二つに見るのです。これがわからないと、実際に二つの対立する世界があると妄信するのです。
わたしたちの生活しているという相対的世界と、その背後にある(仮にそういっておく)のとは、唯一不二の全を形成するものです。これを離して、各自にそれぞれの特別な価値があるということにすると、両方とも真実性を失います。
こういってもよろしいです。相対性の世界は霊性的世界に没入することによってその真実性を獲得するが、それだといって、相対性そのものはなくなるのではありません。 無分別の渾沌に還るという意味ではありません。
霊性的世界も またそのように、この理性的分別の千差性の中に割り込んで来ても、それがために今までの差別的経験の体系が混乱するわけではないのです。ただ今までと違ったより深い意味がそこに読まれて来て、この生活が実に価値あるものとなるのです。
人生の不幸は、霊性的世界と感性的分別的世界とを二つの別々な世界で相互にきしりあう世界だと考えるところから出るのです。
✧妄想
すでに一真実の世界だとい うなら 、どうして二つの世界があるように話されるのでしょうか。
それは妄想の故であります。 この世界は理性または知性の上から見ると、合理性をもっているようでありますが、 霊性的直覚の立場から見ると妄想なのです。 人間は元来知性的にできているので、わたしたちは何かにつけ理屈づけをします、そうして
この理屈づけの故に一つが二つに割れるのです。二つの世界の一つは、それで、分別と差別でできているのです。これは合理性で支配されます。
今一つの世界は無分別と無差別の世界です。前者を感性的(或いは知性的) 世界、後者を霊性的世界といいます。わたしたちの生活は差別の世界で営まれて、わたしたちはこれを真実の世界だと思いこんでいます。 そうして霊性的世界はこの知性的分別の背後に存在するもので、わたしたちは感覚のはたらきが強力なので、これを看取することができないと考えています。
しかし真実のところは、この差別または分別の世界は、無分別・無差別の世界で、徹底してつらぬかれているのです。(分別も差別も同じこと であるから、どちらかをいえば、他は自らその中に含まれる。無差別・無分別の場合 も同じです。)そうして差別の世界が本当の意義を持って来るのは無差別の光明に照らし出されるときなのです。 これが会得されるとき宗教的生活が始まるのです。
無差別ということは日常の経験でないことは容易に認められます。 それは千差万別の世界と全然かけ離れていますので何とも考えがつけられません、つまり無差別と差別とは相容れません。 この世界ではこのような矛盾は考えられないのです。 しかし事実は、この無差別、従ってこの考えられないというところに宗教的生涯があるのです。それでここには理性化できないこと、理智の上で了解できない種々の経験があるのです。これをどうしても単なる理智のうえで解しなければならないということにすると、矛盾百出して手がつけられなくなるのです。それゆえ、差別と無差別(即ち平等) とが何とかして✻円融する一点まで出てこないと、その矛盾が矛盾でなくなって、論理にやかましい人を満足させるわけにいかないのです。
無差別・無分別の世界を霊性の世界といっておきます。伝統的には涅槃・菩薩・成 仏•極楽往生などといいます。 往生などというと、それは死後の世界ではないかとも 申されましょうが、必ずしもそうだとはいいきれません。 いずれにしてもこれらの仏教語の意味を十分に会得することは容易でないのです、わたしたちはいつも知性的分別につながれているのです。 それは何でも二分してみないと承知しないからです。それゆえ、この繋縛を脱しないかぎりジレンマの解消は不可能です。
それにはとにかく一時でも 理性と手を分かつことにしなくてはなりません。知性は差別や分別の世界では欠くべからざる道具なのですが、無差別界に入ることになればその必要性を失うことになります。それどころでなくて、かえってさまたげとなるものです。
無分別界の消息を伝えようとするには、どうしても一度は分別智(ヴィジュニャーナ)と決別しなければなりません。般若の智慧の光明はかくして輝きでるのです。
第一講 大智より
鈴木大拙全集第七巻
✻円融(えんゆう)
仏語。それぞれの事物が、その立場を保ちながら一体であり、互いにとけ合っていて障りのないこと