大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

ななつ星とゆふいんの森

2022-01-26 22:52:00 | 撮り鉄
前回1/18日に見つけたポイントで昼から「ななつ星」の撮影。2022.1.26


豊肥本線に架かる上竹中跨線橋からの「ななつ星」。3泊4日コースの2日目。

かなり急なカーブです。

竹中〜中判田間 12:14分通過

前回も撮った大分大学前〜中判田間 12:32分通過

さて、「ななつ星」と「ゆふいんの森」の両方の撮れるのは時間的にこの辺りではなかろうかと、市内豊後国分駅で待機。やって来た上りの普通 13:08分

「ゆふいんの森」がやって来ました。 13:11分

やや逆光

豊後国分駅を13:12分通過

ななつ星は大分駅13:40分頃発車の予定なので、近くのポイント探し。下りの普通
13:25分通過


豊後国分駅徒歩2分の大分市歴史資料館。

でかい南蛮屏風


国分寺跡は公園になっていましま。

駅方面に戻り、菜の花の咲いている場所があったので待っていたけどなかなかやって来ない。14:06分
*「ななつ星」はすでに通過していました。)

上り普通が14:07分に通過


「ななつ星」が来ないうちに
下り普通が14:36分通過


豊後国分駅 14:36分


上りの普通が14:37分通過。ここで退却。


大分川鉄橋で上りの一両編成の普通

15:43分通過。


牧の大分車両センター

この日留まっていたのは折尾行き普通 クハ 411−212

柳ヶ浦行き普通 クハ 411−1611









紅梅が咲きました

2022-01-26 19:21:00 | 日記
乙津川と大野川の合流地点近くにある大津留天満社の梅が開花していました。2022.1.26

近くを通りかかったので覗いて見ると紅梅が開花していました。

この辺りでは一番早く開花する場所です。


一輪二輪ではなく、かなりの咲きっぷり。


今週中に満開になりそう。

乙津川でオオバン


大野川でカワアイサ


吉野梅園のロウバイ


ここは正月から咲いていました。


ミヤマホオジロを撮りに行くも全く気配なし。


ロウバイは終盤です。


市内の自然公園で柿食いメジロ。



今季初撮りのシロハラ



ため池にいたホシハジロ

カワセミ。ピントを合わせていたら逃げられた。









盤珪不生禅 鈴木大拙編

2022-01-26 07:07:00 | 仏教/無分別智

 彼の「不生」の観念を一般聴衆にもっとわからせるためには、いつも彼は次のようにいった。
  
『あなたがたが私の説教を聴きにここへ来る途中に、また、現に説教を聴いているとき、鐘の音、鴉の声を聞けば、ただちに鐘が鳴っている、鴉が啼いていると聞こえる。けっして誤らぬ。目で見る場合にも同じことである。とくに注意して見るわけではないが、ある物を見るときは、ただちにそれが何であるかを知る。 これらの不思議を行なうのはあなたがたの中の「不生」である。 あなたがたがすべてかくのごとくであるかぎり、霊明な仏心である不生を否 定することはできない。』


 それではこの「不生」とは何であるか、盤珪自身に語ってもらうことにする。

  不生の仏心

『皆さんの誰れもが親から享けているものは「仏心」にほかならない。 この心はけっして生まれなかったもので、決定的に智慧と光明(霊明)に満ちている。生まれぬがゆえに、けっして死なない。 しかし、私はそれを「不滅」とはいわぬ。仏心は不生であり、この不生の仏心により、一切の事が完全にととのうのである。

 過去・現在・未来の三世の諸仏、われらの中に現われた歴代の祖師たちーこれらはいずれも皆生まれた後に、めいめいに与えられた名にすぎないから、「不生」の見地からすれば、いずれも皆、第二義的な、末のことで、本体そのものではない。

 皆さんが「不生」に住すれば、一切の仏陀と祖師が出て来る根本に住していることになる。 仏心が不生だということを皆さんが確信するときは、誰も皆さんの居る所を知らず、仏陀や祖師でさえ皆さんの居場所を突きとめることはできず、皆さんの本性は仏祖もこれをうかがい知ることはできない。 皆さんがこの決定的確信(決定)に達すれば、畳の上に安坐して活如来となるに十分である。私がやったように骨を折る必要はまったくない。

 皆さんがこの決定に達した瞬間から、皆さんは、 人間を正しく見るが開かれる。これは私自身の体験である。 私は「不生」の眼を得てから、けっして人を誤って判断したことは一度もない。この眼は 誰れの場合でも同じである。それゆえ、私の宗派は「明眼宗」という。なおまた、皆さんがこの決定を得れば、皆さんは不生の仏心におかれ、そこに生き、 それとともに生きる。仏心は両親からうける
ところのものである。ゆえにわが宗の別名は「仏心宗」で ある。

 ひとたび皆さんが仏心は不生で霊明であるという決定を得れば、 けっして他人にあざむかれることはない。鵜(黒)は鷺(白)だと全世界が主張しても、鵜は生まれつき黒く鷺はもともと白いということが、 人々の日常の経験からはっきり知られて、けっしてだまされることはない。
   
 仏心は不生で霊明なもの、 この不生の仏心で人は一切事がととのうとの決定を得れば、皆さんはけっしてものを見誤ることもなく、 偽わりの場所におかれることもなく、道を迷うこともない これが世の末まで如来として生きる「不生」の人である。

鈴木大拙禅選集『禅による生活』 四ー7「悟りへの道」より


盤珪禅師墨跡「円相」

『そなたの不生の心は、生も死も知らぬ「仏心」そのものである。 その証拠には、そなたが事物を見るときは、いろいろなものを直下にそれを見る。その中に音を聞くときはただそれを感知して、これは鳥が啼いているのだ、あれは寺の鐘だなどという。寸時たりともそれを反省する必要はない。われわれは、朝から晩まで、自分の仕事を一瞬たりとも考えず、 一念不生にやっているが、それを知らず、多くの人はこの生活が分別と料簡とではたらくと考えている。

 それは大きな誤りである。 「不生」がわれわれの内部に働らいているのである。仏心とわれわれの心とは二つのものではない。しかるに悟りたいと思い、また自心を発見せんとする人々は、かかる考えで修行用心するが、大きな誤りを犯している。不生不滅ということは、心経を少しでも知っている者は誰もよく知っているが、彼らは「不生」の根源を測ろうとはせず分別と計較とを用いてそれを達し成仏しようと努め、これが仏性を得る道だと考えている。

  しかし、ごくわずかでも、仏を求め、道を得んと思えば、たちまちそれが「不生」にそむき、そなたの内部に生まれながらにあるものを見失うのである。 この「心」は「自分は悧発だ」とも「自分は暗愚だ」ともいわぬ、それはそなたの内部に生まれたときと同じままにある。それを悟りの状態に持ち来たそう とすることは、二義に落ちたことである。

 そなたは本来初めから仏なのであるから、今始めて仏になるのではないそなたの生まれながらの心には、「迷い」というものは鵜の毛のさきほどもなく、 したがって、けっしてあやまった考えの起こりようはない。両拳をしっかり握って競走してもそなたの不生には変りがない。そなたがもし現在のそなたより少しでもよくなろうとするならば、何か求めて少しでも急ぐならば、そなたはすでに「不生」に反するである。そなたの生まれつきの心は喜びもなく怒りもなく、絶対に自由であり、 万象を照らす霊妙の仏心ばかりである。かたくこの道理を信じて、日常生活において何ら執着を持つなーこれが信心というものである。』
      同 五「公案」より




 

盤珪不生禅 龍門寺の巻

2022-01-25 09:19:00 | 仏教/無分別智
 龍門寺にて元禄3年冬(1689~90)、大結制が行われた。そこに参加した者、寺に逗留して帳簿に記された修行僧だけで1,683人であった。さらに外宿して会に列席した者は万をもって数えた、といわれる。曹洞・臨済の両宗を始めとし、律、真言、天台、浄土、門徒(真宗)、日蓮の各宗の僧侶が集まり、僧俗あわせた大勢の人々が法座を取り囲んだ。そこへ、盤珪が現われ聴衆に語り始める。盤珪六十九歳の時の説法である。
   
 
 ✧一念不生

 この集まりには僧俗大勢いらっしゃるが、私が若い時分に、「一念不生」という事に気付きまして、そのことを説いて聞かせようとしている
のでございます。この「一念」と申すのは、すでに第二、第三に落ちた事でございます。僧のみなさんは不生の身でございますれば、不生の場には説くべきことも聞かせることもございません。ところで、仏心は不生にして✳霊明なものゆえに、事々物々にうつりやすく、その向かう物々に転じて変わりますので、仏心を念にし替えなさるなと申す事を、世俗の皆さんに説いて聞かせまするので、出家の方もご一緒に聞きなされ。

 ー禅師は大衆に示して言われた。

 ✧不生の仏心

 皆さん、親がうみつけて下さったものは仏心ひとつでございます。ほかのものはひとつもうみつけはしません。 その親のうみつけて下さった仏心は、 不生で霊明なものにきわまりました。

 不生な仏心、仏心は不生で霊明なものでありまして、不生であらゆる事がととのいます。その証拠は、皆さんがこちらを向いて、私がこのように話しているのを聞いている間に、うしろの方で鴉の声、雀の声、それぞれの声を、聞こうと思う念を生じないにもかかわらず、鴉の声、雀の声が通じ分かれて、間違えずに聞こえるのが、不生で聞くというものでございます。

  

 このようにすべてのことが、不生でうまくととのいます。これが不生の証拠でございます。その不生で霊明なのが仏心にきわまったと決定し、直に不生の仏心のままでいる人は、今日から永遠に活き如来でございます。 今日から仏心でいますから、私どもの宗を仏心宗といいまする。

 さて、皆さんがこちらを向いておいでになる際に、うしろで啼くすずめの声を、からすの声とも間違えず、また鐘の音を太鼓の音とも聞き違えず、男の声を女の声とも聞き違えず、大人の声を子どもの声とも聞き違えず、みなそれぞれの声をひとつも聞き間違えずに、明瞭に聞き分けて、聞きそこなわずに聞くということ、これが霊明な働きというものでございます。ここをほかでもない、仏心は不生で霊明なものと言いまする。これが霊明な証拠でございます。   
      
 
 ところでもし自分は聞こうと思う念を生じていたから聞いたのである、という人がございますなら、それは妄語の人ございます。私がこう喋っているのを、こちらを向いて、盤珪はどんなことを言うのだろうと、皆さん耳を傾けて、一 心に聞こうとしておいでではありこそすれ、うしろで鴉やら雀やら、それぞれの声のするのを聞こうと思っている人は、一人もおりませぬ。しかるに思いがけずに
ヒョッヒョッと、それぞれの声が通じわかれて、聞きちがえずに聞こえるのは、不生の仏心で聞くからでございます。

  自分は前もって、それぞれの声がしたなら聞こうと覚悟していたから聞いたのだという人は、ここには一人もおりませぬ。ですから、不生の仏心で聞くというものでございます。不生にして霊明なのが仏心にきわまりきったというのを、人々皆決定して、不生の仏心でおいでになる人は、今日から未来永劫の活き如来と申すものでございます。

 もっとも、仏というのも生じたあとの名前でございますから、不生な人は諸仏のもとで、いるというものでございます。不生が一切のもと、不生が一切の始めでございます。不生よりほかに、一切の始めというものはございませんから、不生であれば、諸仏のもとでいるというものでございます。

 ところで、不生にしていれば、もはや不滅というのもむだ事ですから、私は、不生といって、不滅とは申しません。生じないものが、滅するということはないですから、不生であれば、不滅ということは言わなくともすむわけでございます。

 不生不滅ということは、昔からお経のあちこちに出ておりますが、不生の証拠がございません。ですから皆さん、ただ不生不滅とばかりおぼえて口にしますけれども、決定して不生な事を、ご存じないです。

 私が数えで二十六歳の時、はじめて一切のことは不生でととのうという事をわきまえましてから、このかた 四十年来、仏心とは、不生で霊明なものが仏心にきわまったという事の、その不生の証拠をもって人に話すということは、私が初めて言い出しました。 ただ今、この集りの中のお坊さんのなかに、私より先に、仏心は不生で霊明なものにきわまったという証拠をもって、人に教えられた人があって、それを自分はかつて聞いたことがあるという方はおられますまい。私が初めて証拠を示しましたです。

 不生でいますれば、一切のもとでいるというものでございます。むかしの仏が決定する所も不生の仏心。今は末世ですが、 一人でも不生でいる人があれば、正法が起ったというものでございます。皆さんそうじゃございませんか         
 
 禅師、一日大衆に示して言われた。

 ✧迷いは身びいきのせい

 一切の迷いは全て身びいきのせいでありますから、迷いをつくる身びいきさえしなければ、一切の迷いは出てはきません。たとえば、となりで人が喧嘩をしますれば、こちらには非があり、こちらには道理があるという事が、明らかにわかれて聞こえますけれども、自分の身にかかわらない事なら、聞こえるだけで、自分の腹は立ちはしません。もし、自分の身にかかわれば、身びいきをいたしますから、相手にとり合って、仏心をつい修羅にしかえて、互いにののしりあいますわい。

 あるいはまた、仏心は霊明なゆえに、これまでに自分がしてきたすべての行為の影を映さぬということはございません。その映った影にとらわれれば、たちまちまた迷うことになります。 念というものは、われわれの心底から起るものではありません。これまでに見たり聞いたりした事が縁になって、その見聞きしたものが霊明な仏心に映っている状態、それが念というものでございます。もとより、念に実体はありはしませんから、映れば映るままに、起きれば起きるままに、やめばやむままにしておいて、その映る影にとらわれなければ迷いは生じません。とらわれなければ迷わないゆえに、いくら影が映っても映らないのと同じことで少しも妨げにならないので、払う念、断ずる念というものは一つもありはしませんわい。

 ✧身の上批判

 ある和尚が私に言われるのに、あなたも毎日々々また同じ事ばかりを話さなくとも、合間には少し因縁話や故事物語などをもして、人の心がさわやかに入れ替わるように、説法を行われるのがよろしいのではないか、と言われました。私はこのように愚鈍ですけれども、人のためになることならば、愚鈍なりに故事の一つや二つは覚えようと思えば覚えられないこともありますまいが、そのような事を話すのは人々に毒を食わせるようなものでございますわい。毒を食わすようなことは、まずいたしません。

 私は、お釈迦さまの言葉や祖師の言葉を引いて人に示すこともいたしません。ただ人々の身の上のひはんですむ事でございますから、それで済むのに、さらにお釈迦さますの言葉を引く必要もありません。私は仏法も語らず、また禅法も語らず、説きようもありませんわい。みな人々の今日の身の上のひはんですむ事でございます。 

 ✧凡夫

 今、ここにおられるかたがたは、一人も凡夫はおりませぬ。皆人々、不生の仏心ばかりでございます。 凡夫であると思われる方がいれば、これへ出なされ。凡夫は、どのやうなものが凡夫でありますと、いうて見なされ。

 ここには、一人も凡夫はおりませぬが、もしここを立たれ、敷居一つ越えて、人がひよっとぶつかるとか、後ろから突かれるとか、あるいは、宿へ帰りて、子供でも、下男下女でもあれ、我が気にいらぬことを、見るか聞くかすれば、すぐそれに貪着して、顔に血を上げて、身のひいきゆえに迷うて、つい仏心を修羅にし替えまする。そのし替える時までは、不生の仏心で居まして、凡夫ではございませんでしたが、一念、向うのものに貪着し、つい、ちょろりと凡夫に成ります
る。

 ✧決定した人

 この不生の正法が、日本にも唐にも久しく世に絶えてすたれておりましたが、今日また再びこのように、世に起こりました。不生で霊明なのが仏心にきわまったという事を決定なされば、千万人の人、あるいは世のすべての人が寄り集まり、口をそろえてカラスをサギだといいくるめようとも、カラスは染めないでも黒く、サギは染めないでも白いものであるということは、ふだん見なれてよく知っていますので、どれほど人がいいくるめようとしてもいいくるめられないように、確かになりますわい

 まずはそのように、不生で霊明なのが仏心、 仏心は不生にして一切事がととのうという事さえ、人々たしかに決定して知っていれば、もはや他人にだまされず、いいくるめられず、他人の惑わかしを受けぬようになれますわい。 そのようになった人を決定した人といって、すなわち今日不生の人で、永遠の活き如来でございます。

 わたしが若い時、はじめてこの不生の正法を説き出したころは、誰もが理解せず、
わたしを外道やキリンタン のように思いまして、人がおそろしがって、一人もより 付きませんでした。しかし次第に皆さんご自分の非を知りまして、これは正法であるという事をよく理解いたしまして、今は昔一人も寄りつかなかったのにかわって、あまり人がたずね過ぎて、わたしをせびり、せがんで会いたがって、一日たりともわたしを安楽に置かぬようになりましたわい。物には時節が有るものですわいの。わたしがここ に住んで、四十年にわたって人に教えを示してきましたので、この辺には善知識まさりな者が、多くできましたわい。


兵庫県網干の龍門寺

✳霊明 れいめい
不可思議な力を備えて、明るくくもりのないこと。霊妙で明哲なこと。また、そのさま。  日本国語大辞典より






 
 

盤珪不生禅 丸亀の巻2

2022-01-24 08:16:00 | 仏教/無分別智
九月一日、朝の説法

 ✧日月のたとえ

 どなたも私の説法を聴聞しようと、夜明け前からこのように大勢せり合い、窮屈な目を顧みずにこの会合に参られるのは、もちろんのこと有難いことと存じます。というのも皆さん夜明け前から早起きをなさってここへお出でになるのは、どなたも仏に成りたいとお思いになってのこと、そのように思うその心が、そもそも賢く生まれついているからなのでございます。これはそのまま仏心が各々に備わっている徳と申すべきものでございます。そうではありますが、今どきは、世渡りをするのに、悪い習慣が身について育ち、霊明な仏心を暗まして迷っているのでございます。

 仏心は育ちの悪い念に引かれ、迷ったのでこそあれ、失って、無いと申すのではございません。我欲が強く身のひいきに引かれ、迷い暗ましたと申すもので、失ったというのではございません。

 その証拠に、たとえを以ていいましょう。日月は、日々かわらずに照らしますも、雨の夜、また、曇の時は、昼であっても日は見えません。

 しかし、毎日毎夜、少しも違うことない時刻に、朝方には東よりお出になされて、夕方には西の山へお入りなさるではございませんか。ただ雲に隠れて、あらわれないというだけのことです。

 日月は仏心に、雲は迷いのようなものでございます。仏心もそれと同じように、迷いが隔てをなしてあらわれないために、皆さま方が知らぬというだけのことで、たとえ寝入った間も失ってはおりません。

 親の産み付けた仏心は、霊明なものでして、失いようがございません。生まれ出るや否や、水をかければ冷たく、火を近づければ熱く、その仏心一つの働きで、一切のことが調いまする。

 ✧我慢

 このたび、仏になりませんといつになっても仏果をえられません。もし畜生になりましたら、どれほどありがたい事を説き聞かせても話しが通じず、縁が切れてしまいまして、また、仏に成りたいという思いもありはしません。このようなことを皆さんお聞きになり、今日から不生の仏心にもとづこうとお思いになるなら、第一に、この身にひいきがないようになされませ。そうすればおのずから仏心で居るようになるものでございます。

 人には我慢なるものが有るものでございます。何事も人に劣るまいと思うのが、悪い事でございます。この劣るまいという思いが、すなわち我慢と申すものでございます。   何事も人に勝とうと思はねば、劣る事もございません。
また、人がまた自分に悪くあたるのは、きっと我慢があるからでございます。人が自分に悪くあたるのは、自分に悪いところがあるからではないかと、自分に目を向けてみるときは、世間に悪い者は一人もいなくなるものでございます。

 怒りの念が起こりますと、仏心を修羅道にし替えてしまいます。ただ怒りも喜びも、みなこれ身びいきがあるからですので、霊明の仏心を暗まして迷って流転するのでございます。身びいきがなければ、また仏心の不生で居ますので、流転することもございません。

ですから、どなたもよくご理解なされるがよろしい。このことわりをとくと納得なされば、修行をしなくとも、戒律を保たなくとも、今日から仏心でございます。 


 同二日、朝の説法

 ✧不生不滅の仏心

 これまで皆さんお聞きの通り、めいめいが生まれつきの仏心でございますので、不生のままで居ますればよいのですが、世間のならわしで、悪い世渡りを習いましたので、惜しい可愛いの餓鬼道に仏心を替えているのでございます。ここをよくよくご決定なされば、不生の仏心で常に居るというものでございます。

 しかしながら、不生になりたいと思われて、怒りや腹立ちや、惜しい欲しいという念が起こるの止めようとされますと、二つの念が起こりまして、ちょうど走る者を追うようなもので、 起る念とを止めようとする念が戦いまして永久に止まらぬものでございます。

 たとえを使って言うのであれば、血でもって血を洗うようなものでございます。もっとも、先の血は落ちるでしょうが、また後の血が付きまして、いつまでも赤色はとれません。そのようなものでございまして、前の止められる怒りの念は止むでしょうが、止めようとした後の念がいつまでも止まらないのでございます。

 だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえ、はからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、止めまいとも取り合わなければ、止むよりほかはないのでございます。垣と論争するのは、一人では成り立ちません。その相手がいないのであれば、自然と止まないではいられないのです。たとえまた色々の念が起こりましょうとも、その起こってきました念は、ちょうど三つか四つの幼い子供の遊びのように、嬉しいも悲しいも続けてその念にかかわらず、止めようとも止めまいとも、思わず知らずにおられることが、とりもなおさず不生の仏心で居るというものでございます。こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。

 また、悪いことも善いことも思うまいとか止めようとかなさらなくとも、おのずから止まないことはないのでございます。怒り、嬉しいというのも、これはすべて我が欲に付いて、身のひいきの強さより生じたものですから、一切貧着の念を離れましたならば、その念が滅せないではいません。その滅したところが、すなわち不滅でございます。不滅なものは不生の仏心でございます。

 とにかく常に不生の仏心を心がけなさい。不生の上にあれやこれやの念を出かしこしらえ、向こうのものに貧着し、仏心を念に取り替えなさらぬ事、これが一番です。これに油断をしなければ、善悪の念も起らず、 またやめようとも思わなくなります。そのときは生ぜず滅せずではないですか。そこが不生不滅の仏心というものでございます。このことを、よくよく納得なされるがよろしい。
     

 ✧漢語より日本語

 私も若い頃には、何としてでも、仏心を見開こうと、あちらへこちらへと善知識をたずねて熱心に参禅問答をしたものですが、すべて普段の話し言葉で問いましたが心安くく聞き受けられました。その後はよく納得がいって、しませんでしたわい。日本人は日本人に似合ったように、普段の話し言葉で道を問うほうがよろしい。日本人は漢語が不得手ですから、漢語の問答では、思うように道が問いつくされないものです。 しかし、普段の言葉で問えば、どのようにも問われぬということはございません。ですから、使いにくい漢語で気張って問答するよりも、使いなれた言葉で気張らずに問答したほうがよろしいのです。

 それもまた漢語でなければ真実が体得できないというのならば漢語で問答するほうがよろしいが、平生の日本語で自由に問答して、結局それでよいわけですから、ことさら使いにくい言葉で問答するのは、どうかと思います。ですから、皆さんそう思って、どのようなことであろうと結構でございます。遠慮せずに、自由に普段の言葉で問答して、らちをあけなさい。らちさえあけば、使いやすい普段の言葉ほど便利なものはないですか。 

 日本の僧侶が漢語にうとい俗人に、ことさら通じにくい外国の言葉で示すのは、自分の上に、仏心のらちが明かぬゆえに、それを俗に通じにくい漢語を使ってごまかしているというものでございます。           
     
 ✧不生で歩く

 仏心は不生にして霊明なものだと、皆さん思いなさい。 一度行った所は、何年たっても、覚えていようと常に思ってはいませんが、よく覚えていまして、忘れはしません。自分の行った所へ、 またほかの人が行きましたら、そこから百里も離れた土地で話しましても、行った者同士はどこで話しても、話が合うものです。また道を行きますとき、向うから大勢の人が来れば、よけようと思う念を人々は生じませんが、向うから来る人に自然と突き当たりもせず、また人に突き倒されもせず、踏まれもせず、大勢の人の中を通っても、あちらにくぐり、こちらにかたより、抜けつ、くぐりつ、しようという思う分別の念を生じなくとも、自由に道を歩きますわい
仏心はこのように不生にして、霊明でございまして、それで一切のことがうまく運びます。もし万一、自然にかたよろうと思う念を生じてかたより通りますは、霊明なはたらきでございます。しかし、片寄る方へは念を生じて片寄りますが、足もとには、一足一足に分別の念を生じて歩きはしません。 それでも自然に歩くは、不生で歩いているからでございます。
     

✧自力でもなく他力でもない

 私どもの宗旨は、自力にかかわらず、他力にもかかわりませぬ。自力他力を超えているのが私どもの宗旨です。

 その証拠には、私がこう言っているのを、皆さんこちらを向いて聞いておいでになる間にも、うしろの方で、雀の声、鴉の声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずにいても、こちらへはそれぞれの声が、ちゃんと分かれ通じて聞こえるのは、自分が聞くのではないのですから、自力ではありません。

 またこれを人に聞いてもらって、聞きわけているわけではないので、他力でもありません。そうすると、自力にも関係せず、他力にも関係せず、自力他力を超えているのが、私どもの宗旨でございます。 そうじゃございませんか。

 このように、その不生で聞けば、一切のことが聞えております。そのほかの一切のことも、みなまずそのように、不生でうまく運びます。不生で働く人はどなたであれ、皆一切のことが不生でうまく運びますから、不生な人はどなたでも、自力他力にかかわりなく、自力他力を超えておりますわい。     

 
香川県丸亀の宝津寺