人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

国立国会図書館採用試験「文学」教科書の企画案が、閲覧されてるようですが・・・

2013-05-15 22:40:06 | 国語教育と文学
 最近、国立国会図書館採用試験の「文学」を利用した、教科書の企画案が、やたら閲覧されてるようですが、試験が近いからでしょうか?

 検索してみて、「教科書作りませんか?」みたいな記事につきあたっても、受験生としては困ってしまいますよね…。

 だからちょっと、実際に「文学」で受験する人のためにアドヴァイスをしようと思います。
 ただ、まだちゃんと調べがついてないし、さすがに私もお金も貰わないで模範解答を書くなどの手間はかけられないので、簡単なコメントだけ。受験するつもりであれば、それこそきちんと図書館で調べてください。
 引用文もおそらく著作権の関係から省略されてますが、できるだけ探しておくようにしてください。

 最初の語句の問題は、文学辞典などで引いておくこと。丸暗記するのではなく、関連する情報なども見て、立体的な文学史の把握ができるようにしておいてください。
 きっちり字数通りに情報をまとめる訓練も重要です。

 昨年の試験問題についてですが、共通問題の「メタフィクション」の役割。
 フィクションがフィクションであることを明示した、フィクションの構造に自己言及的なタイプのフィクションを指すのですが、これ、国語の教科書などでは絶対出てこない感じのもので、知らない人は全然知らないかもしれない。ピンと来ない人は、とりあえずボルヘスの「バベルの図書館」(『伝奇集』)でも読んでください。図書館ネタだし、図書館受ける人にはいいと思う。最近のものだと、昨年芥川賞とった円城塔の小説は「メタフィクション」って言われてます。
 独自問題の「震災」との関連から言えば、「原発」との関係から、笙野頼子の『水晶内制度』or『おんたこ』三部作、というのもありかも。ただ、字数内で論じられるほど単純な話ではないので、あまりオススメは出来ない。
 わざわざ「メタフィクション」と言われる小説を読んで論じるよりも、何でも自分が専門とする(卒論のテーマとか)作品のなかで、メタフィクション的な部分を探してきたほうがいいかも(例えば私の専門とする『源氏物語』だと、末尾に「とぞ本に侍るめる」、とあるような)。
 論理の流れとしては①「メタフィクション」の定義づけを行うこと。②具体的な作品の分析(or紹介)。③「メタフィクション」の役割。と進めるといいと思います。ただ、600字~800字だと、大したことは書けない。
 「メタフィクション」の役割、というのも、何に対する役割なのか、ちょっと、曖昧ですね。だから、自分で決めなくちゃいけない。現実社会に対する役割なのか、個人に対する役割なのか、あるいは、純粋に文学的な役割なのか。個人的には、フィクションのフィクション性を自覚させることで、世界を変容させるとか、違和感をもたらす、みたいな方向性だと持っていきやすいです。
 国語教育などでの文学の扱われ方って、共感的な、登場人物に感情移入して、気持ちを理解するみたいな感じだと思うのですが、「メタフィクション」はそれとは方向性が逆。だから、国語教育的な、「人の気持ちを理解する」みたいな方向性だと、全然役に立ちません。まずそのことに触れ、それに対する反論として構成すると書きやすいと思います。

 独自問題が、「文学は震災に対して何ができるか」。
 これ、実は私まだ、井口時男「それでも人は言葉を書く」の調べがついてません。読んだらまた、記事書きますね。『新潟日報』と出展も明示されてるので、調べるのはそれほど難しくないはず。コピーをとったらまず、どこから引用されたかな、と予想を立ててみましょう。

 まだ調べがついてない状態なので、具体的なことはあとで書きますが、一般的に、「文学」と「震災」というテーマで考えてゆくときに、まず、文学は震災に対して無力である、という考え方について触れなければなりません。その上でそれに、反論する。
 「無力である」と言われるときの言われ方には3つくらいパターンあって、現実に圧倒されるから、どんなフィクションよりもインパクトが強いから、というのが1つ目。2つ目は、震災について言われるときの言説が、クリシェ(決まり文句)でしかない、生な実感を伝えるものにはなりえない、というもの。それから、どれほど頑張って言葉を紡いでも、現実を変えることが出来ない、というのが3つ目。字数がさほど多くないので、一つに絞って書くといいと思います。
 これに対して反論するのはなかなか難しいのですが、
・和合亮一のツイッター詩について
・いくつか、関東大震災後に影響を受けたといわれる小説もあるので、それについて触れる、など。
みんな書くでしょうが、600字~800字の小論文で、独自性を出す余地はあまりない。
 
 まあ、まず、「それでも人は言葉を書く」を読んでみないことにはどうしようもないですが。

 私の好きな作家に、W.G.ゼーバルトという人がいるのですが、「空襲と文学」というエッセイのなかで、ドイツには空襲を描いた文学はない、この作品とこの作品は一応書いているように見えるけど、単なるクリシェだとか、修辞であるとか、描いているとはいえないと言って、猛烈な勢いでダメ出ししていくんですよね。で、結局どういう書き方があるのかというと、ただ淡々と、修辞を廃して、書いてゆくしかない、というような。
 「空襲と文学」で扱われているのは、第二次大戦末期のドイツの空襲なのですが、「表象不可能」と思われるようなおおきな事件、事故、災害などについて言われているということで、思い出しました。

 こう見ていくと、共通問題にも独自問題にも共通するニュアンスを感じますね。文学は現実に対して何ができるか。世界をどう変容させることができるのか。もちろん、簡単に論じきれるような内容ではないですが、考えることはムダではない。

 関連する情報として、図書館のアーカイブ機能(震災の記録を残す)、最近の話題として、電子図書関係のことなど、調べておくと良いかも。


門の外を眺めるのすけちゃん。人が通ったので、吠えたそうに口が半開きになってる(吠える寸前)。

 

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